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アリーフの日常 4

「よしよし、いい子ねぇ、それで? アンタはこの子が打たれてて可哀想だったから、お母さん殺して持ち帰ろうとしたっていうの? 短絡的ねぇ」


「別に持ち帰る気はなかったよ? 兄貴に怒られたくないしね。あと声がデカい」


 彼女は赤ん坊の頬を長い爪の先が触れないようそっと撫で、慣れない恐々した手つきで抱き抱えると、そっと股に触れて性別を確かめた。そういえば性別を僕は確かめようとはしなかった。無意識にかわいいものに性差はないと思い込んでいたのだろうか。

 入ったことのない軽食屋に連れてこられた僕は、彼女が入店するや否や有無を言わせず頼んだホットチョコレートを見つめる。今一口飲んでみた。決して嫌いな味じゃないけど、甘ったるくて飽きが来るのも早い味だった。彼女はそれを一息に飲むと、次はブラックコーヒーを注文した。


「まぁ私はアンタの道徳と正義を尊重するわよ、いいんじゃないの? 虐待から助けてあげたかったのよね? 私は正しいことをしたと思うし、ジェスタフなら泣いて喜ぶんじゃない?」


「やっぱそう思う?」


 彼女は長い髪の先を指先で弄り、店員が他所を向いている隙に角砂糖が入った瓶を開けて、中身を4つほど口に入れて噛み砕き、砂糖がついた指を赤ん坊に舐めさせた。赤ん坊と僕を時計の振り子のように交互に見つめ、音を立てて角砂糖を咀嚼する。


「しかし弱ったわね、私オムツは変えられるけど、おっぱいは出ないわよ、泣かないってことはお腹空かせてないってことでしょーけど......」


「更年期?」


 瞬間、彼女は立ち上がってにっこりと不気味に笑い、カワセミのような速さで僕の髪を鷲掴んだかと思うと、乱暴に自分の方へと引き寄せた。


「全然違う」


「あぁそうか、咥えられないか」


「ああ!? あら、二度と女の前で服を脱げない身体にされたいのかしら……!!」


「分かった、分かったよ悪かった! 僕髪だけは再生できないからやめてってば、人も見てるし」


 僕が頭髪惜しさに謝ると、彼女はぱっと髪から手を離して僕の頬を毛虫が這うようなねちっこい手つきで撫でた。


「冗談よ、ほんとかわいいわね。この抜けた髪の毛もらうわよ、後で煎じて飲むから」


「きっしょ......いででで!! 拳で首をグリグリしないで......」


「次は無いと思いなさい」


 このシャブ中と言われても信じるくらい情緒不安定な女。ミローネ・レーゼ。29歳。

 初対面の時は僕に全裸で夜這いをかけるほど性欲に物を言わせたアプローチを仕掛けてきたけど、僕が年下好きと知ってからは方向転換して姉貴風を吹かして擦り寄り始めた、僕より9歳年上の色々と図々しい女だ。

 ただ、初対面と現在で違うのは口調と服装だけであって、立ち振る舞いや性格は特にこれといって変わってない。

 彼女は団結軍唯一の女性なのだけれど、この弾けた性格のせいか性の対象どころか、絡まれたくないので逆に他の構成員から避けられている。しかし時に抜け目ない計算高さも見せ、天真爛漫というわけでもない。まぁ29歳で天真爛漫ってただの痛々しい人のような気もするが。

 容姿は良い方だ。腰まで届く濡れたように鮮やかな黒髪と、同じ光沢のある黒い瞳が病的な色白肌と合わさり、俯き加減の次第ではミステリアスで妖艶な雰囲気を纏う時もある。だからレーゼは容姿に恵まれた方だと思うし、同志達もそこは認めている。だけど胸はすごい貧相だ。胸筋がある分、恐らく僕の方が大きい。

 レーゼは服装もいささか風変わりだ。髪色に合わせているのか本人の好みか、常に全身を黒い衣服で覆っている。彼女の服装はシャツの上に分厚いロングカーディガンを羽織り、下は膝下まで伸びたスカートを履いてストッキングを着用し、足には僕があげたローファーを履いている。仕上げにストールを腿に置いているけど、これら全て練炭のように真っ黒だ。ここまでして、なぜ爪にマニキュアをしないのか不思議でならない。

 レーゼのことを今の説明だけだと口悪しげに言っているので、僕が彼女のことを嫌っている風に思えるかもしれない。でも、僕はレーゼのことは別に嫌いじゃない。彼女は人の長所を見抜き、僕の行動と思考を尊重した上で自分の発言を、それも僕の内面に土足で踏み込まないように気を払って述べることができる、数少ない女性だからだ。

 気持ち悪いドン引き不可避な性格であるも、レーゼは思いやりと温かみがある女性だ。もちろん、彼女には彼女の世界があり、そこに溜まった泥沼で彼女は昼夜問わずのたうちまわっているのだということも僕は弁えているが、彼女の打算を抜きにしても実際、僕はレーゼを慕っている。同年代だったら絶対顔を覚えられたくない人間だけど。僕は赤ん坊をあやすレーゼを見てそう思った。


「ところでアリーフ」


 ふと、レーゼが僕に話しかけた。コイツ、僕の分のホットチョコレートをいつのまにか自分の方に手繰り寄せて飲んでやがる。支払いは自分だからどうするのも勝手ということらしいが、そこんところ兄貴と考え方が似ている。しかし、レーゼと兄貴はとにかく仲が悪い。廊下で出会う度に、2人は互いに肩に付いた虫を潰しあってるのかと思うくらい激しく肩パンする。


「この子、私に預けたってことは私が処理していいのよね? 泣いたら余計人目につくから、今すぐやるから何かしてあげることない?」


 僕は人差し指を伸ばして赤ん坊と別れの握手のようなことをしたつもりだったけど、赤ん坊に指を掴まれた時、そのふわふわした柔らかい手の感触がとても愛おしく、一瞬本気で連れ帰ろうかと思ってしまった。しかし、気持ちを抑えて指を離し、僕は黙ってお冷に口をつけた。


「よっと」


 レーゼはそれを見届けると、カーディガンを脱いでスカートからシャツを出して捲り上げ、お腹に赤ん坊を押し込むと、ほんの数秒だけ服の上から赤ん坊を強く押した。

 すると、空気が抜けてしぼむ浮き輪のように、赤ん坊は衣服の中で徐々に小さくなり、やがて綺麗さっぱり消えてしまった。まるでレーゼは腹にも口があって、その口で赤ん坊をごくり丸呑みしてしまったかのようだった。


「まさか海とかゴミ捨て場にやってないだろーね?」


「あら、私は教員免許を持ってるのよ、子どもに対してそんな残虐な真似はしないわ」


 レーゼはそう言うと、僕が飲むはずだったホットチョコレートを空にして、同時に運ばれてきたブラックコーヒーを一口啜り、僕の横の席に移動した。そして、僕の肩によりかかって手を取った。


「あなたは社会経験に乏しいんだから、別に自分の行動に責任を持てなんて言わないけどねぇ……その、事がどういう風に進むのかは考えておいた方がいいと思うの」


 そう、耳元で得々と説くレーゼの話し方には、確かに教職員のような訓示を何となく感じた。


「あと、アンタは顔はあんまり見せない方がいいわ、何その肘当て付きのジャケット? ジェスタフのお下がりなんでしょーけど、あんまり似合ってないわよ、でも、さっきから周りの子はアンタを横目でチラチラ見てる。そして私はそんな連中を尻目に美男子とイチャつく優越感……にしても、アンタ身体冷たいわね」


 ただ、その後のセリフがやや残念だった。しかも口が真夏のゴミ捨て場のように臭い。歯は白くて歯並びも整ってるのに何故だ。

 確かに、周りを見てみると何となく僕と目が合う人が多いけど、それは別にさっきレーゼが騒いだからじゃないのか? 僕はそう思いながら、ホットチョコレートのカップに指を入れて、添えてあったミントの葉を彼女に食べさせた。

 レーゼはそれを唇を窄めて飲み込む。


「ま……言いたいことは分かるわ、ところでアリーフ、今日見てたけどアンタって意外と喋るのね、髪長い男って何となく引っ込み思案で口下手な印象あるけど。でも、発言には気をつけた方がいいわね。さっき喫茶店の子がコーヒー頼んでみてっつった時、アンタ出されても飲まないって返したでしょ? ああいう突き放すような言い方は嫌われるわよ。私は違うけど」


「みんなあんまり僕と話したがらないからね。割と僕は会話に飢えてるよ、ていうか僕を付け回すのやめてくれない? レーゼ尾行はド下手だけど、アレ使われると手の打ちようがないんだから」


「あらいいじゃない、私にはこれくらいしか楽しみが無いのよ。クランストロ将軍もその部下の戦マニア達も他の背広組も気に入らないけど、あなたは大好き。だ、か、ら、あれは傷ついたわねぇ、何あれ? 店に誰もいないからってあんな胸がでかいだけの小娘と熱烈に抱擁するなんて……おかげで脳が破壊されかけたわ」


 そう言うと、レーゼは獣のように呻きながら僕の肩に何度も何度も頭突きを食らわせた。若さを欲求してるのか体型を欲求してるのか分からないけど、これは犬が飼い主の顔を舐めるのと同じ、レーゼ特有の愛情表現だから問題ない。

 だけど、その時が来たら彼女を捕まえてふん縛って物置に監禁とかでもしない限り、僕はいつまで経っても童貞のままだ。流石に見られながら事に及べる勇気はない。というか立たない。

 レーゼ本人は見守っているとかほざいてストーカー行為をごまかしているけれど、この悪癖と、実は大学院で修士課程を修了しているという兄貴に引けを取らないエリートという事実が無ければ、僕はもっと彼女に好感を持てるのに。頼めば修士号返納してくれるかな。

 何だろう。小粋なジョークのつもりなのかこの女、背広組を嫌ってるくせして自分はほんのちょっと前まで白衣組(大学研究室所属の研究者)だったという輝かしい経歴の持ち主なのだ。

 人は見かけによらないものだと僕は痛いほどよく知っているけど、そんな優秀な頭脳を持つレーゼが、なぜ野郎しかいない危険極まる武装組織の幕下に加わるほど身を落としてしまったのか、それはまたいつか語るとしよう。

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