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アリーフの日常 2

 僕は売店でホットドッグを買って、辛党故に店員が目を丸くするほどマスタードをべったりと乗せ、一緒に瓶詰めのミルクとジャムパンも入った紙袋を持って商店街を歩いた。ジャムパンは弟へのお土産だ。


「おや?」


 途中で僕と同い年か2、3歳くらい年上に見える若い男の人が、街路樹の下に座り込んでオカリナを吹いていた。彼の靴の隣にはラベルを剥がしたブリキ缶があり、近寄って僕が中に硬貨を入れると、彼は演奏をやめて立ち上がり、僕に手を差し出して握手を求めてきたから僕はそれに応じた。彼はそこそこ整った優しい顔立ちをしていた。


「ありがとう、これで今夜は飯が食えるよ」


 彼はそう言ったが、羽織っているベージュのブレザーとジーンズは真新しく、手も血豆一つなくスベスベしていて、とても彼が根無し草のルンペンには見えなかった。


「僕もちょっとだけハーモニカに手を出してみたことはあるんですが、難しくてやめちゃいましてね」


「そうなの? 僕実はハーモニカの方が得意なんだ。ハーモニカ教室に10年以上通ってたからね、むしろオカリナはまだまだトーシロさ」


「へー……そうなんですか」


 すると、彼はポケットからライフル弾くらいのサイズのハーモニカを取り出して、見事な旋律で何かの曲を奏で始めた。最初は何か分からなかったけど、少し黙って聞いていると聞き覚えのある箇所があったので、それが「トリッチ・トラッチ・ポルカ」だと気づいた。かなり激しい曲のはずだけど、ハーモニカで聞くと蛍の光のような柔らかい雰囲気を帯びていた。

 ハーモニカなんていう腹も膨れぬ娯楽に金を出せるような家の息子が浮浪者なんかになるわけないだろう。意図の読めない嘘を言うのはやめてもらいたい。僕はそう思った。

 演奏は割と長く、僕と目が合ってもやめなかったことから察するに、彼がハーモニカを愛しているのは疑いようもなく事実のようだった。それでも、足を止めて彼の演奏に耳を傾ける者は誰一人としていなかったし、足元のブリキ缶には僕が入れた硬貨の他には銅貨が3枚しか入っていなかった。


「それ、私が入れたんだ。最初から金が入っていると、ならば自分もと思ってお金を入れてくれる人がよくいるんだ。今日はてんでダメだけど」


 僕は哀れみを覚えて紙幣と未開封の煙草とサ店のマッチをあげた。彼が暇潰しか小遣い稼ぎに道端で演奏してるのだろうというのはわかっていたけれど、哀れみを感じずにはいられなかった。多分、兄貴がいたら僕は腕を引かれて連れ去られていただろう。


「おっ何だか色々申し訳ないね、君もハーモニカまたやってみたら? もし買ったのが複列ならテン・ホールに変えた方が簡単でいいよ」


 僕は背広の内ポケットから文庫本を取り出して、ちょうど真ん中くらいのページに挟まれた栞を彼に見せた。


「僕、本を読むのが好きなんです。でもこの本の内容はそれほど好きじゃない。そこは別に重要じゃないんです。この徐々に端に行く栞を眺めるのが好きなんです。この栞が完全に左に着いた時がこの本を読み終えた時で、僕はこの本を読破したというある種の達成感を満たせるのが好きだから読書してるんです。でも、人間って一つのことを成し遂げると、更に大きな目標に向かおうとしちゃうもんです。そして、それで挫折するんですよね。でも、本にはそんな大層なものは無い。でも、楽器の場合は極めねばならないものが大海原のように存在して終わるという概念が無いんじゃないですか? 限界のないものが僕は苦手だから、楽器より読書のような結末という終点が用意されているものの方が性に合ってるんです」


 僕はそう言った。我ながらものすごく長く喋ったが、彼は目尻に笑みを浮かべてうんうんと相槌を打ちながら黙って聞いていた。こういう人間は僕は苦手じゃない。これが兄貴だったら、途中で話を遮って要点を言えと言われる。自分も長く話す癖に。

 彼はハーモニカの鏡面仕上げの表面を眼鏡拭きで磨きながら口を開いた。


「なるほど、確かにそうだろうね、何かが好きな人間はそれを習得している最中の苦労を楽しむか、あるいは苦労を苦労とも思わない。好きこそ物の上手なれというヤツだ。でも、私は別にハーモニカにおいて玄人を目指してるわけじゃないよ。私はハーモニカはむしろ触りを掴むまでの過程が嫌いだった。でも、その分「きらきら星」が吹けた時は嬉しかった。君もそうじゃないかな。ところでこの辺りに住んでいるのかい?」


「いえ」


 僕が煙草を咥えたので、彼もまた僕があげたのを僕があげたマッチを使って吸った。そして、真っ白な煙をうまそうに吐いた。


「そうなんだ? なら、今は持ってないけど次また会ったら簡単なハーモニカの楽譜あげるよ、そしたら私がレクチャーしたげる」


 そして、彼は僕の左手首を掴んで、そこの関節から指先にかけて皮膚の触り心地と滑らかを確かめるように撫で回した。何気なく彼の目を見つめてみると、笑みの中に含む僕を見る瞳がどことなく熱っぽく見えた。

 彼が僕をどういう目で見ているのか察しがついたけど、特に嫌悪感はなかった。彼は穏やかで悪い人間には見えなかったし、僕は自分を尊重してくれて、ある程度容姿が好みだったら性別は別にどうでもいいと思っている。ただ付け足しておくと僕の本命は喫茶店のあの子だ。


「ありがとうございます、じゃあ頑張ってください。また会いましょう」


「うん、僕も君とはまた会いそうな気がする」


 僕はそう言って彼と軽いハグをして別れた。顔を近づけた時、ハーブ系の歯磨き粉の苦い香りがして、反射的にさっきの彼女の髪の香りを思い出した。安いシャンプーの匂いだった。近くで彼女が眺めてそうなので彼とはここら辺でおさらばしよう。あの冷やかしは毎度腹が立つからな。

 僕は植え込みに吸い殻を投げ捨てると、ホットドッグがまだ温かいかを確かめた。そしてまだ温かいことにほっとしたのも束の間、自分の将来への不安を思い出した。こんなホットドッグが冷めてないかで一喜一憂するようなしょっぱい人生でいいのか、20歳にもなってクランストロ将軍からの小遣い銭で生きてくような体たらくでいいのかと、考えたくもないけど考えた。

 僕には特に夢や目標はない。昔はあったが今更どうなるものでもない。有能で元気溌剌とした人を見る度に、目的のない自分がどれだけ空っぽかを思い知る。しかし、もう何人も人を殺めた僕が後ろ指を指されずに生きていける世界など、山火事を逃れた草花より少ないだろう。


「風が冷たいな」


 僕みたいな、学歴も人望も無ければ頼れる親もいない者は、結局のところ優秀な人間の指示の元、その後塵を排する方が気楽で無難だ。暴力それ自体は好む好まざるにせよ、僕が若さを切り詰めてクランストロ将軍に従う理由はそれだ。何より、軍には家族もいる。

 このまま歩みを進めれば、自分の進むべき人生の道を見極められる日も来るのだろうか。それが生まれてきた子どもにも胸を張れる、誇れるようなものであると願う。

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