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アリーフの日常 1

 フライパンに氷を放り込むと火にかけなくてもあっという間に溶けるらしい。僕も時折、自分は何かの枠組みにはまったまま、積極して動かず若く貴重な時間をみすみす溶かしてしまっていると思う時がある。

 子どもの頃から常に優しい人でありたいと思っていた。他人の過ちを素直に受け入れ、それを美徳として常に幸福に過ごしたいといつも思っていた。僕の理想を兄は絵空事と言った。実際、確かに兄は正しかった。

 背が伸びるにつれ、世間は僕が思い描いているほど無垢ではないと気付いたからだ。

 市井の人々は善意を蔑ろにし、努力を認めず、結果だけを重視し、人の好意を好機と捉えて逆手に取り、不躾に骨の髄まで利用する賢しい蛇のような連中ばかりだったからだ。

 僕はそうなることはできない。別に権力欲が薄弱だとか、利潤の追求に興味がないわけではない。

 ただ一つ分かることは、僕は童心を抱えたまま大人になってしまったのだ。


 ***


「おかわりもらえるかな? また同じので」


 僕はそう言うと氷を口に入れて奥歯で噛み砕き、カウンターの上にグラスを置いた。手首に付けた腕時計は15時を示し、埃の浮いたブラインドに覆われた窓ガラスの向こうでは、子どもの笑い声が聞こえた。耳を澄ませると、朗らかな声でバカとかうるせぇとか悪口を言い合っている。

 粉々になった氷を飲み込むと、僕はフランネルの胸ポケットから煙草を取り出し、口に咥えてマッチを擦って点火した。自前のライターがあるけど、お店のマッチがあるなら無料だしそちらを使う。オイルライターは油の補充に手間がかかるから面倒くさい。

 火を振り消して黒ずんだマッチ棒を、隅っこの灰皿に捨てる。最近どうも貧乏性になったのか、僕は来店の度にマッチ箱をしれっともらって帰っている。

 僕は煙草を蒸かしながら、頼んだ飲み物が作られていく様子を眺めた。正しくは、てきぱきとそれを作る彼女の後ろ姿を、僕は見ている。


「少し濃くしましょうか? 常連さんにはサービスしますよ」


「じゃあお願いするよ、ありがとう」


 彼女はメッキの剥げた小さな水筒を冷蔵庫から取り出し、脇を締めて蓋を開ける。ぽんっとどことなくチャーミングな開封音が鳴って、ふわりと甘い香りが辺りを漂う。香水に似ているが、これは脳幹に直接訴えかける砂糖の香りだ。中には黄金色のわ液体が入っていて、それをグラスにドロリと6センチほど垂らした。

 次にパフェを食べる際に用いるような長いスプーンを水筒の中に入れ、真冬の朝焼けのような色の白桃を底から一片すくうと、これもグラスに入れた。冷蔵庫を再び開けてアイスキューブの容器を持ってきて、氷を3、4粒中に入れた。

 そして、手慣れた手つきで炭酸水の栓を抜き、片手間に瓶の王冠をゴミ箱に投げ、グラスに炭酸水をとくとく注ぎ入れると、仕上げに先ほどのスプーンでかき混ぜ、結露がグラスを濡らす前にさっと僕のカウンターの上に載せた。


「はいアリーフ君、桃のコンポートのソーダ割り」


「ありがとう」


 僕、アンドレイ・アリーフは煙草を灰皿に置いてグラスを手に取ると、軽く口をつけて唇を濡らす。食べ物や飲み物はだいたい最初の一口が最も美味しいと相場が決まっている。初めて登る山岳の頂は決まって荘厳に見えるのと一緒だ。

 僕は用事が何もない時は決まってこの店を訪れて、冷たいものを頼む。ここは喫茶店とはかくあらんと言わんばかりに、喫茶店と聞いて誰もが思い描くような内装をしている。

 僕が座るこの背もたれがない椅子も、木のカウンターも、柔らかい豆電球の明かりも僕は落ち着くので好きだった。

 ただ、僕はここを快適なところだと思っていても、他の人達はここを普遍的、あるいは驚きがないとでも思っているのか、常に閑古鳥が鳴いている。少なくとも僕が来店中に他の客がお茶をしているのをあまり見たことがない。

 最近は飾り気のないものより派手なものの方が喜ばれる。どうやら、ここから100メートルほど先にある別の新しいサ店に客を取られてしまったようだ。

 しかし、僕にはどうでもいいことだし、ここを盛り上げることは、僕が何とかできるほど楽な問題でもないだろう。ただ、僕は閑散としてる店の方が好きだ。ガヤガヤした店で急かされて飲むより、ゆっくりとくつろいで味わう方が良いに決まってる。何でこんな単純なことに誰も気づかないのだろう? 僕は昔から周りの考えに同調できない。


「それ、すごい美味しそうなんですけど私は作るだけで飲めはしないんですよね」


「賄いで飲めばいいじゃない」


「賄いも無料じゃないんですよ」


「そうなの? でもこれ美味しいよ、これ飲むためにここ来てるもん」


「ふふ、嬉しい」


 嘘をつく理由が無いから、今言ったことも嘘じゃない。でも本心を赤裸々に打ち明けるならば、僕は彼女に会いたいというのが頻繁に来店する一番の理由だ。

 僕は彼女に恋をしている。彼女というのは、この店で働く店長以外の唯一の店員で、今僕が飲んでいるコンポートのソーダ割りを作った女の子だ。早い話、僕がやっていることはお気に入りの嬢に貢ぐ馬鹿な男と大差ない。それがシャンパンかコンポートのソーダ割りというだけの違いというのも分かっている。流石に僕はその手の人間よりは自制できるけど、

 彼女に惚れた理由は花顔柳腰な美少女だから。単純に見た目と身体つきが好みだった。言うまでもなく一目惚れだ。声を聞いたらもっと魅力的に見えた。少し失礼な例えを引き合いに出すなら、綺麗な錦鯉を見つけて、それが金賞を取った個体だと知ったら箔がついて尚更輝いて見えるのと似ている。


「アリーフ君、ちょっとお手洗いに行ってきていいかな」


「何で僕に聞くの?」


「いや、アリーフ君がもしかしたら度し難いクレーマーで、客を差し置きバイト中にトイレとは何事だ!! って怒鳴られたら私も傷つくんで」


「いや言わないけど、ただ会計が出来ないから3時間とかはやめてほしいけど」


「じゃあ1時間以内に戻ってくるね、ありがとうございます」


 彼女は明るく笑う。

 健康的な白い肌と金髪、そして黄色い瞳。この三つの点だけ見ても彼女は十分値打ちのある美しさを持っているが、彼女はそれだけに留まらず、他にも魅力的な部分を兼ね備えていた。

 髪型はいわゆるポニーテール。つむじの後ろを淡い水色のリボンで纏められた金髪は、若さの象徴のように照明の光を吸って柔らかく光を帯び、後ろ姿を見ただけで期待が高まる。年は17らしいけど、年の割に胸は大きく、セーターの胸辺りの布地はその左右一律の大きさの乳房によってはち切れんばかりにとは言わないけれど、それでも子犬を押し込んだように膨れて飛び出ている。

 性格も天真爛漫というか、鼻につく計算高さがないというのが温かみがあって可愛らしい。僕は男の扱いを心得ている蠱惑的な女性より、あんな風に少し抜けた温かみのある子が好きだ。

  多分、僕は世間知らずな田舎娘が好みなんだろう。悪い言い方だが、人付き合いとは欠点を見つけてから始まると僕は考えている。人は金無垢の如き完璧な美しさを嫌うと誰かが言っていた。僕は欠点の多い人間だから、彼女もまた同じことを考えているだろう。それは仕方ないことと割り切っている。

 僕が一気に半分ほどソーダ割りを飲んでいたら、トイレから戻ってきた彼女が横の席に座った。見ると、さっきまで着けていたエプロンを外していて、衣服の上から胸の膨らみがはっきりと分かる。


「どうしたの?」


 僕が煙草に新しく火を点けようとすると、彼女は灰皿を指差した。


「それ、もういいの?」


 そうだった。ソーダを受け取る時に灰皿に置いた煙草を忘れていた。こういうことが割と僕にはよくある。僕も結構間抜けだ。僕はそれを咥え直す。彼女は僕の瞳を覗き込むように見ていたけど、僕は何だか気恥ずかしくて彼女の膝を見ていた。

 彼女は最近流行りの太ももの生地が破れた、いわゆるダメージ・ジーンズを履いていた。避けた箇所から露わになる白い肌を見て、僕は何となく自分の手を見つめてみた。彼女と同じく白いけど、僕の手は血に塗れている。爪を帰ったら切ろう。

 彼女は上は首まで隠したセーターで、下は露出しているというのは中々風変わりな服装だ。巷ではこういうのが流行ってるのか?


「どうかした?」


 彼女は僕の手を見て、怪訝そうに自分の手も見たが、己の手ほど見飽きているものも無いので、すぐに視線を僕に戻した。


「いや、太ももを見てて思ったけど、君と僕の肌って白いだけじゃなくてほとんど色が同じなんだね。多分、切り離してくっつけても違和感無いと思うよ」


 そう言うと彼女は小さく笑った。この笑い方、姿こそ違えど俯いて笑うところがクランストロ将軍と実によく似ているので、この子の笑い声を聞くと、僕は何故か将軍を思い出して発言に気をつけなければと思わされる。


「アリーフ君ってすごいかわいいのに、結構変わったことを思いつくよね。ほんとだ、全く同じだ」


 彼女は僕の手を取り、自分の手を重ねて指を組んだ。彼女の手は冷たく乾いていて、さてはこの子用を足した後手を洗ってないなと疑った。僕は潔癖症ではないが、それなりに清潔感には気を使う。

 僕の甘いマスクは清潔感があってこそのものだ。だから顎髭は毎日剃るし、乳液もつける。僕は容姿端麗。これは事実だし、僕の数少ない長所だからこればかりは声高に言わなきゃならない。僕から容姿を奪えば後は射撃の腕しか残らないが、射撃が上手いのと食えるかは別の話と僕は知っている。


「たまにはコーヒーとか飲んだら?私結構凝った淹れ方できるよ」


「コーヒーは苦いから嫌いなんだよね、冷たいのはまだ飲めるけど、熱いのは苦味が増すからもっと嫌い、出されても飲まない」


 やがて彼女の体温が手から僕に伝わると、僕は彼女のセーターに手を入れて、直に脇腹の素肌を撫でているような気持ちになった。何気無く彼女の顔を見てみると、彼女は唇を薄く伸ばして飲み込むような、とても愛嬌のある顔をしていた。

 多分、羞恥心を隠しているのだろう。彼女の身体は細く、今日は体型が比較的分かりやすい服を着ている。そのためかいつもよりも僕は彼女を熱っぽく見ていた。

 ソーダ割りの中の氷はすでに溶けてなくなり、炭酸も抜けてガラスに佇む気泡は次々と上に昇って消えてゆく。

 僕は兄貴の部屋からくすねた避妊具を財布の中に入れていることを思い出した。窓はブラインドが閉まって外から中は伺えないようになっているし、鍵は内側からなら施錠はドアのツマミを回すだけだ。

 誰が見ても間違いなく、彼女は僕に好意を寄せている。だから相思相愛ということなのだが、僕には恋愛というものがどのようなプロセスを経て構築されていくのか、いかんせんよく分からない。花を渡しても最近の女は喜ばないと兄貴は言っていた。

 僕は彼女の名前も知らない。僕も彼女に自分のことを話したことはないし、聞かれても嘘を言った。僕は中学校すら出てないが、彼女は恐らく現役の女子高生だろう。彼女とは恋仲にはなりたいが、自分の素性が割れた時、僕はきっと下に見られるだろう。そうなった時、僕は果たしてそれを甘受することができるだろうか?

 僕は香水だ。香りは良くても原材料を調べれば清冽なものはほとんど無く、得体の知れない化学薬品が無数に使用されているように、僕は容姿は整っていても、中身は全てにおいて未熟で不完全だ。

 自分の子どもが欲しいと常日頃から思っているが、この調子ではいつの話になることやら。何より、男として女を満たせる自信が僕にはない。


「熱っ」


 色々考え込んでいたせいで、指に挟んだ煙草の火口が皮膚を焼き、思わず声を上げてしまった。


「大丈夫ですか?」


 それなりに痛かったが、僕の場合すぐ治るから問題ない。でも、それを知らない彼女は火傷を心配して、手早く氷を入れた袋をくれた。その心遣いはありがたかったが、触れ合った手が離れた時に戻る空気の冷ややかさに僕は微かな寂しさを抱いた。

 僕は残ったソーダ割りをぐいぐい飲むと、立ち上がって、ウールのジャケットの内ポケットから革財布を取り出した。


「帰るの?」


 彼女はそう尋ねるものの、答えは分かっているので足はレジの方に進んでいる。


「うん、だってエプロンを脱いでいるってことはもう勤務時間じゃないんでしょ? 長居したら店を閉められないから」


「いいよ別に、私もアリーフ君みたいな美人とは話してて楽しいし。しかし鋭いね」


 話が上手いのではなく、 美人と言われたのが胸に刺さる。


「アリーフ君の財布、すごい年季入ってるね」


「これ? 僕の兄貴のお下がり、兄貴が僕と同い年くらいの時に使ってたヤツだよ」


「アリーフさんのお兄さんなら、きっとすごい美形なんでしょうね、会ってみたいです」


 だから、弁が立つ兄貴は絶対にこの店には誘わない。彼女は兄貴の方に目移りするなんてことだけは避けたいからだ。ただ、兄貴は美形かと言われたら美形だが、最近少しずつ顎が割れてきて、髭を伸ばそうか迷っていることを僕は知っている。

 僕は代金を支払って財布を懐にしまっても、ドアの方へは向かわず立ち尽くしたまま動かなかった。彼女の方は代金をレジスターの中にしまって僕に近寄り、そうして僕らは店に誰もいないのをいいことに互いに抱き締め合った。僕は変に思われたくなくて、ただ背中に腕を回すだけで力は入れてないが、彼女は逆に痛いくらい力を込めて僕を抱擁する。


「アリーフ君煙草の匂いキツいなぁ」


「……我慢してほしい」


「アリーフ君も私のことで何か我慢してくれるならいいよ?」


「言ってみなよ」


「……特にないな」


「何それ」


 彼女がもっと首筋の見える服を着てくれたら、こうやって密着してる時にブラジャーの紐とか胸の谷間とか見れるのかなと漠然と思いながら、胸板に顔を擦り付ける彼女の押し潰れた乳房を見ていた。最初の頃はこうすると呂律が回らなくなるくらい緊張して固まってしまったものだが、最近はもう何も思わない。

もしかしたら彼女は僕に気はなくて、これは色恋営業の演技なのかなとも思うのだけど、偽りでも彼女の温もりを感じられるならそれでいいと思っている。


「……?」


 僕はどさくさに紛れて彼女の尻を撫でようと手を下に下げたが、別の彼女の視線をどこかに感じたので、すごすごと諦め、手を振って消えるよう促した。

 2分ほど抱き合って僕から先に手を解くと、それから間もなく彼女も僕から離れた。僕らは数秒互いに見つめ合っていたが、何を言ったらいいのか分からず気まずくなり、僕が黙っていると彼女が先に口を開いた。


「……それじゃ」


「あ、うん。また来るよ」


 そうして僕はそそくさと、やましいことは何一つないのに逃げるように店を後にした。歩きながら、せっかく彼女が渡してくれた氷袋を店に置いてきたことを思い出した。他人と接するのは気を使うし難しい。でも恋人は欲しい。難しいところだと毎回僕は思う。

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