一騎当京のクランストロ 4
アリーフはクランストロの脇腹に近い箇所の背に掌を置くと、体重をかけてそこを力一杯強く押した。 クランストロの身体は堅く引き締まっていたが、その筋肉の魁偉はいささか度を過ぎていた。
アリーフは腕に痛いほど力をかけているというのに、彼の背中から生き物の肉の弾力を全く感じない。持てる限り力を振り絞って、やっと微かな手応えを手首に覚えるほどに。まるで堅くつんだ樹木のようで、アリーフはどこが肉でどこが骨なのかがやがて分からなくなり、顔には出さなかったが大分混乱した。
「ジャケットくらい脱いだらどうだ?」
「はい」
「今日は少し雑務をこなしてたから疲れてるんだ。遠慮なく本気を出していいぞ」
「……了解しました」
アリーフは透き通るような声で返事を返す。彼はジェスタフの部屋に再び戻りたくなかったので、ダウンジャケットを着たままだった。しかし、流石に暖房の効いた部屋で外着のままでは暑くなり、言われた通りダウンジャケットを脱ぎ、テーブルの下に置いた。
アリーフは5分ほど同じ箇所をマッサージしていたが、少し柔らかくなった気がしたので場所を変えて反対側の部位をやろうとしたが、既に手首は毒を盛られたように青白くなり、指先は痺れて震えて限界に近かった。
内心、ビフテキの下ごしらえのようにトンカチや酒瓶で背中を叩いた方が効果的なのではないかとアリーフは思ったが、彼の場合、次の方策として肘をついて対象箇所をぐりぐりとすり潰すように力強く押すというやり方を心得ていた。
それをすぐさま実行に移すと、クランストロは疲労の解れを感じたのかただ眠くなっただけか、短くあくびをした。
「お前はマッサージがうまいな、女にやってやったらもてるぞ」
「そうですか?」
アリーフはきちんと返事をする。彼は昔から無視というものを嫌う。理由は単純に自分がやられて不快だからだ。己がいないものとして扱われるのを、彼はとても嫌がる。
「ああ、ところでお前はもう20歳だったな。どこかに言い寄ってくる女はいないのか? もし連れ込める雰囲気になったら、ホテルの金くらいは出してやる」
ジェスタフがいた時は厳粛な雰囲気を醸成していた益荒男だが、彼が退室すると急に気さくな様子に様変わりし、年が30近くも離れたアリーフに踏み込んだ話題を持ち込み出した。
「いやぁ……僕が釣り合わない人達ばかりで」
だが、アリーフがそう差し障りなく答えると、彼はアリーフの返事を予想していたのか、アリーフが言い終わる前に呆れたように鼻で笑った。
「お前ほどの美少年ならよりどりみどりだろう。さっさと適当な女子高生でも口説いてこいよ。ま、他人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて何とやらだ。俺が口を挟む権利は無いがな。よし、次は肩を揉んでくれ」
「え?まだ……?」
そう言われた時、アリーフはクランストロがうつ伏せなのをいいことにジェスタフに見せる愛嬌のあるしかめっ面では無く、恐らく本心から嫌そうな顔をした。それは、苦虫を噛み潰したような顔というのを忠実に再現しているようだった。
クランストロは起き上がると、のっそりとあぐらをかいて煙草の箱に手を伸ばし、再び背中をアリーフに向けた。
アリーフは頬をかいて露骨に躊躇したが、避けられぬと悟ると、腹を決めてフランネルシャツをボタンを指で外さず勢いよく脱ぐと、真っ白なシャツ姿になり、汗に濡れて照りが出た二の腕を晒してクランストロの肩を揉んだ。案の定レンガを掴んでいるように硬い。
袖を切ったシャツから覗く剥き出しのアリーフの腕にもまた、若くしなやかな白い筋肉が艶めかしく身にまとわりついている。アリーフは肘の内側に溜まった汗を口を付けて吸い取ると、玉のような汗をかいて再び肩揉みに邁進した。
「ところで、アリーフ」
「!」
ふと、クランストロが口を開いてアリーフに話しかけた。話し方を先ほどまでと意識的に変え、美人局の恐喝役がカモをなじるような粘液質で低く唸る声でアリーフに語りかける。その声色に自らの危険を素早く察知したアリーフの脳裏でジェスタフの言葉がよぎった。
『予め言っておくが、俺は今から将軍に思いっきりパチこく、でもお前は自分からは絶対に喋るなよ、何か質問されても俺の発言に合わせた言葉を返せ、苦しかったら俺が割り込むから安心しろ』
しかし、その本人が消えてしまったので助太刀も何もない。何が安心しろだ。アリーフは内心兄に毒を吐いた。
「何でしょうか」
アリーフも文章を読み上げるように淀みなく会話を成せるよう、頭の中で発言する言葉を考えてクランストロの問いに挑むことにした。
「ジェスタフのさっきの発言、嘘だろ?」
「いや、違いますよ」
クランストロはジェスタフが自身に虚偽の報告をしたことを勘付いていたのだ。アリーフは口を閉ざして舌打ちした。
「そうか? さっきアイツは喋る間は俺にしっかり目を合わせて、更に発言の前に一呼吸置いて、その後は宴の口上みたいにスラスラ喋っただろう? あれな、人が嘘をつく時の仕草って言われるのと真逆の動作なんだわ、完璧にな。だからかえってそれが怪しい。普段あの野郎は俺の顎か喉見て喋るしな」
酒焼けした声で、しかしそれでいて鋭く人を見ていたクランストロは、淡々とジェスタフの報告への疑問をアリーフに語る。アリーフはクランストロを温床に周りの空気が重く鈍色に染まっていくような気がした。 それは不安となってアリーフの頭に冷たい鎖を巻きつけた。
「もっと言うなら、アイツは俺がいくつか尋ねた時、その質問に対して否定しか返さなかった、無いですございません......とな。まるで色々と探られないよう予防線を用意していたようだった」
「でも実際にその通りだったと思います」
アリーフが頼りなく言い返すと、クランストロは苦笑して顔を身体ごとアリーフの方に向け、俯いてアリーフの頬に額が付きそうなほど顔を近づけた。そして、手探りで抜いた煙草を彼の口に入れると、咥えた煙草の火口を擦り付けて火を灯した。
煙草の匂いと加齢臭の悪臭が混じり、屍臭のような臭いがアリーフの鼻を刺した。そして立ち上がり、壁にかけた古びているがかなり手が加えられたドラグノフ・ライフルを手に取った。
「思いますって何でそんなに自信がないんだ? まぁいい、俺も職業柄猜疑心が人一倍に過剰なのは分かってる。だが、仮にジェスタフが嘘をついているなら、真実を俺に伝えられるのはお前しかいない。まぁいるっちゃあいるが......。だが、そういうのはどうでもいい。お前は俺の息子だ。お前が話すことなら俺は疑わない。例えお前がジェスタフをかばうため、嘘を重ねたとしてもだ」
アリーフは自分がジェスタフに代わってやんわりと問い正されていることは分かっていた。知らぬ存ぜぬを突き通すのはお前の今後に暗い影を落とす行為だということを、クランストロは彼の罪悪感を煽りつつ伝えた。しかし、それと同時にアリーフを己の息子とも言っている。それがアリーフにはくすぐったかった。
それだけで、大分気持ちが揺らいだ。実際彼はジェスタフが知らないことを知っており、それを自分の胸の内だけに留めておく気はなかった。
「兄に懲罰を与えたりはしませんか?」
あまり使い慣れていない、子どもが使うような稚拙な敬語で心配そうにアリーフは尋ねる。
クランストロは煙草を咥えたまま歪な笑みを浮かべて彼を見下ろし、アリーフの顔面に煙を細く噴きつけた。
「もちろんだ。だが、アイツにそれとなく言っとけ、俺にそんな振る舞い方じゃ出世できねぇしさせないぞってな。ところでお前髪が随分汚れてるな、早く終わらせてシャワーを浴びた方がいい」
アリーフはそれを聞いて唇を窄め、緊張が解れたのか煙草を口から離して煙を吐いた。口が裂けても言えないが、クランストロのは苦味が強くてあまり彼が好きな銘柄はではなかった。
アリーフは一連の流れをクランストロに話した。彼は黙って何も言わずにただ彼の目を見ながらメモを走らせていたが、アリーフが話し終えると、ジェスタフの時と同じ流れでいくつかアリーフに尋ねた。
きっと彼の中では相手が話し終えるまで待ち、それから質問をするというプロセスが知らず識らずの内に体系化されているのだろう。また、アリーフは自分のせいで実験が切り上げられたことだけは、姑息にも黙っておいた。
「なるほど分かった……ところで広場でお前達と戦って、酒かけられて燃やされたヤツだが、道具は真っ白い大鎌でそれを袖口から出したと……」
「はい、僕はソイツに首を刎ねられました」
クランストロは吸い殻を灰皿に捨てると、新しく吸わずにこめかみを指で叩きながら、目を細めて何かを考えていた。
アリーフは体育座りでそれを見つめる
「ソイツとはコダテロハ軍の最高幹部だ。お前の予想は正しい。アイツはお前と同じ力を持っているぞ、焼け死んでるかいないかと言ったら、まぁそんな簡単にくたばるはずねぇな」
アリーフは目を見開いて、視線でクランストロの顎鬚からもみあげにかけてなぞって彼の燻んだ瞳に自分を写した。
「それは、いずれ僕が戦わなければならないということでしょうか?」
アリーフが不安そうに膝に顎を乗せて足を小さく抱きしめると、それを見たクランストロはドラグノフを元の位置に戻し、低く喉を震わせるいびきのような笑いを部屋に響かせた。
「フン、お前じゃヤツには勝てん。しかし俺達の計画が滞りなく進行したなら、その内会うこともあるだろう。その時は俺が斃す」
クランストロは眉を寄せ、視線をアリーフから逸らして真後ろに向けた。つられてアリーフが首を動かすと、壁にかけられたドラグノフの真下に大きな銃剣が紅の鞘に納まって飾られているのが見えた。それは真上の狙撃中に装着されて戦場を疾駆し、敵を無数に屠る日を待望していた。
「まぁそれはいい。お前がヤツと戦って捕虜にならなかったのは僥倖だった。ところで、ヤツは油断してたのか知らんが、変なことを口走ったらしいな。ジェスタフは恐れをなしていたようだが、お前はそれが何なのか見たんだな?」
「はい」
「話してみろ、落ち着いてな」
アリーフは体育座りに疲れたのか姿勢を正座に変えた。だが、それは背筋を曲げて膝の上に肘を置いた、崩れたみすぼらしい正座だった。
「はい、僕の『レ・ミゼラブル』は僕と分離して蔓になっても、意識したら視力を頭から蔓に移すことができるので、首を落とされた時に1本をソイツが言った場所に向かわせたんです。そこには切り口がまだ真新しい丸太がありました」
「ああ、切り株が大量に見つかったから、何らかの用途で実験に丸太を利用してると踏んでるんだったな。にしてもお前は器用なことができるな」
「その丸太が変だったんです。丸太は二つ……いや、二本あって……それが互いにぶつかっていたんです。かち合い弾のように。相当な速度で衝突させたのか、かなり太い丸太が半分くらいは潰れて、合わせて一本分くらいの太さに縮んでました。なのに、皮には荒縄や鎖に結ばれていたような痕が全くありませんでした」
アリーフの報告を聞き、クランストロは足元の絨毯の繊維をしげしげと見つめ、掌の下の硬い部分で顎髭を弄んで物思いに耽っていた。かち合い弾とは、気の狂いそうなほど激しい銃撃戦でごく稀に起きる、弾丸同士が正面衝突する現象である。
ここで少し、クランストロとアリーフの関係性について述べておこう。
「ダメだ、考えたが全く分からん。更に情報を集める必要があるな。だが、朧気ではあるものの情報を集めなければならない存在が明らかになったことはお前の功績だ。よくやったアリーフ。流石は俺の息子だ。今後も手を尽くせ」
実はこのクランストロ・サルディニアという男。アリーフの事実上の養父である。
母親から捨てられたのを、彼の実父と交流があった縁で引き取り、アリーフが14歳の時からの付き合いである。クランストロはアリーフを息子として信頼しており、そのためかアリーフはクランストロに対して絶対的とまでは言わずとも心酔し、高い忠誠心を抱いていた。
アリーフが正座したまま頭を礼を言う。
「ありがとうございます」
クランストロは立ち上がって棚から淡い水色の帯封を取り出すと、アリーフの前に差し出した。
「お前ももう休め、ほれ、マッサージ代だ。これで高い肉でも食え」
「いただきます」
アリーフはまた礼を言って帯封を受け取ると、指で分厚さを確かめつつ、フランネルを着て、ジャケットを小脇に抱えて立ち上がった。ソファに座ってやすりで爪の形を整えながらアリーフの動きを見ていたクランストロは、また低く笑った。
「お前がシャツ姿で服をそうやって抱えていると、お前の親父の若い頃と本当によく似ている」
アリーフが首をかしげる。
「そうでしょうか? 僕は母親似です。父さんの容姿はどちらかと言ったら兄の方に受け継がれている気がします。それにどちらも法学部卒ですし」
アリーフがそう言うと、クランストロはまた低く笑うだけでそれ以上は何も言わなかった。豪快に笑わないのは、酒で喉を潰しているので喉に圧をかけると痛みを感じるからだろう。
アリーフがドアの前に立って退出のお辞儀をした時、彼に向かってクランストロが言った。
「アリーフ、小蝿も耳をすませれば羽音で位置を探れるように、嘘なんて考える隙を与えたらあっさりバレるもんだ。お前は俺を騙そうとするなよ」
アリーフはなんと返事したら良いか分からなかったので、とりあえず分かりましたとだけ言って部屋を出た。
部屋には暖房が入っていて暖かったが廊下にはそれが入っておらず、唐突な冷気に全身の毛穴が開くような思いがしたアリーフは、両腕を擦りながら駆け足で自室に戻った。
そして、部屋に入ってシャワーを浴びると、服を着るのも面倒だったので、髪を乾かしただけで全裸で毛布に包まりベッドに入った。下腹部に触れる衣に妙な気持ちを覚え、クランストロも警戒する人間に捕虜にされかけた恐怖を思い出して震えたが、図太くも疲労が勝って、そのまま泥のように眠ってしまった。
***
この部屋には窓がない。それはクランストロの部屋もジェスタフの部屋もそうだった。彼らは海中にいる。ゴキブリの腹のようなのっぺりした黒い楕円形の潜水艦に乗り、そこを根城にして頻繁に違法活動を起こしている。
彼らの名はヴォロシャ団結軍。構成員はかつては全員軍人だったが、今は祖国を失い、その領土すら追われて敗残兵どころか罪人にまで身分を落とされた。彼らの本懐は祖国を滅ぼした敵国に然るべき責任を取らせ、その雪辱を濯ぐこと。
しかし、護衛兵アンドレイ・アリーフは正直なところ、それに関してはあまりやる気がなかった。というよりも、彼にはやりたいことが特にない。




