隠した思いの黄金ハニートースト
悟郎の目覚めは決まって朝の5時だ。
この時間、まだ世界は夜に近い。窓を開ければ遠くの波の音がよく聞こえる。
真っ暗な空に無数の星空が輝いて、満月だと目にも眩しいほどだった。
悟郎は大きな欠伸と共に伸びをすると枕元のハンディラジオのスイッチを捻る。
それを握ったままキッチンにむかい、電気を付けると薄暗い室内に白い光が走った。
同時に、遅れて繋がったラジオ音声が大音量で流れ出す。
彼の住むアパートは、他に誰も住んでいないので、そんなことが許されるのだ。
(紅茶の用意に、パンを切って、それから珈琲を粉にして……)
悟郎は素早く顔を洗って髭を剃って着替える。そしてタオルを肩に掛けたまま鏡を覗き込む。
冷える朝なので、悟郎の息で鏡が一瞬で曇った。
鏡に映る自分の顔は、どちらかといえば童顔だった。それほど悪い顔でもない……と思う。
(よしっ)
気合いを入れて、悟郎は自分の頬を撫でた。ラジオからは古い歌声が響いている。
自分の立てる音とラジオの音。遠くに聞こえる海の音。音と言えばそれくらいなもので、悟郎は呑気に鼻歌をうたった。
(パンの耳が余れば、揚げるのもいいな。朝からはちょっと重いかもしれないけど)
古いアルミ缶から紅茶を取りだす。昨夜届けられたパンを切り分ける。
コーヒー豆を中挽き、粗挽き、三種類ほどの挽き方で用意する。
ほんのりと青い色が混じりはじめた、明け方の静かな時間。悟郎はこの瞬間が一番好きだった。
目を閉じると、喫茶店の壁の染みだとか、カウンター越しの店内の風景が浮かんでくるようだ。
大きくて重い、木の扉。ちりん、と鳴る鈴の音。
長いカウンターに丸い椅子。
扉を押して、朝の挨拶をしながら入ってくるお客さんの顔。笑顔、愚痴や自慢話や世間話。
ラジオから漏れる音楽は気持良く、珈琲の香りもいい。
(亜美さんは、中挽きで、川田さんは粗挽きで……)
悟郎はそうして考えるだけで楽しくなる。
いつもカウンターの一番隅っこに座る女性の顔を思い浮かべて、悟郎は思わず咳き込んだ。
肌の白い、背の小さな、笑顔の可愛い女性。
喫茶店の椅子に座るとき、案外器用に飛び上がって座る彼女。
必ずモーニングの絵をメモ帳に描きとり、そして美味しそうに目を細めて食べる彼女。
その白い首筋と、柔らかそうな頬に触れる色素の薄い髪の筋。
コーヒーのカップを持つ小さな指。
そこまで思い出して、悟郎は妄執を払うように首を振る。
(亜美さんはパンが好きで、サンドイッチも好きだけど……いや、まだ分厚いパンが切れるんだから、今日もトーストにしよう。バターと、蜂蜜もかけて……)
亜美のことを考え始めると、悟郎の心音がはねて頭の中が高速で動き始める。
(……亜美さん、いくつなんだろう。好きな色は、好きな音楽は、好きな場所は……)
彼女の顔と声とその唇を思い出し、悟郎は自分の口を押さえる。亜美のことを考えるときはいつもそうだ。
彼女のフルネームも、育ちも、仕事も、何もしらない。
分かることといえば、毎朝1時間程度、足を運んでくれる常連客。耳に蕩けるような優しい声をしている。その声はまるで海に打ち付ける波の音のようで、話をするだけで心がすっと軽くなる。
(顔が熱い……)
目の前の鏡に映る彼の顔はにやけ顔だ。真っ赤な顔を掌で叩いて、悟郎は慌てて荷物をまとめる。
そして悟郎は錆びたアパートの扉を肩で押し開け、まだ真っ暗な外に飛び出した。
朝7時。島に残された古いチャイムが時を刻むのと同時に、店の扉が開く。それは毎朝きっちり、律儀にこなされる儀式のようなもの。
扉が開くと同時に、優しい声が響いた。
「おはようございます」
「亜美さん!」
その声を聞いて、悟郎は思わず飛び上がる。と、扉の向こうには二つの影があった。
亜美の後ろから、白髪頭の女性がひょっこりと顔を出して笑う。
「私もいるのよ、ごめんなさいね」
「な……何を言ってるんですか。いらっしゃい、葵さん」
亜美の背後にもう一人の客を見つけ、悟郎は思わず言葉を噛む。
少しだけ落ち込んだ心を押し隠して笑顔を浮かべる。
現れたのは、亜美と同じアパートに暮らす葵さんという老婦人。
もう随分背も丸くなり髪の毛は真っ白だが、杖があれば何キロだって歩ける元気なおばあさんである。
長生きのコツはブラックの濃い珈琲。そしてパンを耳まで食べること。という信条を持っていて、年とは思えない健啖家でもある。
「まずは珈琲をどうぞ。薄目と、あと濃い目。それと厚切りのトースト。今日はバターつきのハニートースト、それとゆで卵です」
二人の前に分厚いトーストを置くと、恭しく柔らかいバターを落とし、上からたっぷりの蜂蜜をそそぐ。まるで濁流のように流れた黄金色の蜂蜜が、パンを滑って皿を染める。
「まあ」
「すごい!」
二人は可愛い歓声をあげて同時に笑った。
「……あ。またこの歌だ」
カップを拭く手を止めて、悟郎は目を閉じて音に集中する。
相変わらず調子の悪いラジオからは、音楽が途切れ途切れに響いていた。
明るい旋律、掠れて柔らかい歌声。とつとつと、悲しい恋愛の歌詞を歌い上げる。悲しいが、しかしどこかに覚悟があるような、そんな歌だ。
遠く離れた恋人を思う歌だ。
「宇宙移住が本格化してから、こんな歌が増えて来ましたね」
「そうかなあ。陳腐だとおもうけど……」
亜美は始終、渋い顔をして音楽を聴いている。時折、細い指が首のネックレスを絡ませて遊ぶ。そのネックレスの先には大きな指輪が一つ、ついていた。
それを見るたびに、悟郎の口の中に苦いものが広がった。
彼女のネックレスには男物の指輪が一つ。そして彼女の左手の薬指には細い指輪が一つ。
それは何ですか。と、はっきり聞くほど二人の関係は深くはない。
亜美と悟郎は出会って、まだ半年。
ちょうど半年前、吹雪くような日に、亜美はこの喫茶店の扉を開いた。
マフラーで顔を半分も隠して、「コーヒー、やってますか?」と、小さな声で聞いてきた。手には大きなスーツケースが一つ。
先ほどこの島に越してきたのだ。と彼女は名乗った。
そして、「亜美っていいます」と、消え入りそうな声で言ったのだ。
ひどく悲しいことがあったようで、目の周りが真っ赤に腫れ上がっていた。
あの日、なぜ泣きそうな顔をしていたのか、その理由さえ、いまだに聞くこともできていない。
(我慢、我慢……)
悟郎は視線を落とし、まな板の上のパン屑を払う。
その中で、葵だけが楽しそうに体を揺らしていた。
「あら。若い人には受けない? 私はこういう曲好きよ。悲しいけど、覚悟があっていいわね」
葵は案外若い感性で、微笑みながら呟く。
「でも、この歌手の人。移住の順番が来ちゃったらしくて、この曲が最後らしいですね」
「残念。せっかく若い人の歌をいいって思えたのに」
「作詞作曲は別の人らしいですし、また誰かが歌いますよ」
とりとめのない朝の世間話。珈琲ポットの上げる湯気の向こう、朝の光に照らされた二人を眺めながらだらだらと続く幸せの時間。
その些細な世間話を止めたのは、やっぱり昨日と同じく突然の闖入者の一声だった。
「おおい、悟郎さん。すまんね、毎日毎日」
扉が開いてランニングシャツ一枚の川田が飛び込んでくる。外は冷たい風が吹いているというのに、彼は相変わらず暑そうに額を拭っている。
そんな川田は困ったように眉を寄せ、ため息をついた。
「川田さん、どうしました」
「配給車がアスファルトの溝にはまっちまって、横にぶっ倒れた。自動運転だから、どってことないけどよ、荷物出すのに手間取ってる。悟郎さん、手伝ってくれ」
「あ。行きます」
そういえば今日は配給の日だった。そんなことを思い出しながら、悟郎はジャケットを羽織る。最近は昼でもひどく冷え込むのだ。
「亜美さん、葵さん、悪いんですが、僕行きます。食べたらお皿、そのまま置いておいてくださいね」
駆け出した悟郎の背に、また先ほどと同じく湿っぽいかすれた歌声が響いた。
その声にのせて、歌い手と思われる女性が、案外高い声でインタビューに答えている。宇宙へ移住することが決まった、という報告。
そしてこの曲を作った……さんへの御礼の言葉。残念ながらその言葉を全て聞く前に、悟郎の背の後ろで喫茶店の扉が閉まった。
「持ち上げますよ!」
悟郎はシャツを袖までまくりあげ、大きな声を上げる。
川田のいうとおり、ちょうど島の中央道の真ん中で大きな車がひっくり返っていた。
それは黒塗りの自動操縦車で、まるで玩具のように倒れている。
地面の溝にはまり込んだのだろう。自動操縦車では滅多に起きない事故ではあるが、道の悪いこの島ではよくあることである。
「よいっしょっ」
悟郎は車の隅っこをしっかり握り締め、地面へ足を踏みしめる。
腰を落とし、車の向こう側を持つ人々に合図を送った。
腹に力を込める、目を閉じ、腕に力をかける。
車はやがて、ゆっくりと溝の上に持ち上げられていった。
車は数十人の人々の手によって、無事に道に戻される。幸い怪我人もなく、荷物も無事だ。
水に食べ物、ちょっとした生活用品など。箱に詰まった配給品は手分けして、すべてセンターへと運ばれていった。
「自動操縦車は事故がねえってのは嘘だね」
「溝とかね、見えてねえんだわ」
車も無事で、残されたのは、車を持ち上げた男達だけだ。
「まあ何にしても、食い物が無事で良かった……。さすがに食い物が途切れるのは死活問題だかんな。こういうことがあるなら、魚とか鳥とか、食い物を集める方法を考えておく方がいいかねえ」
「魚も船がな。網もねえし、釣り竿で釣ったところで、島の人間を全員食わすだけは難しい」
「もっと農業を頑張るしかねえか」
煙草を吸い、地面に腰を落とし談笑する人々の中で川田だけが顔色も悪く座り込んでいる。それを見て悟郎は汗を拭って彼に声を掛けた。
「川田さん、大丈夫です? どこか痛めました?」
「ああ。暑くてかなわねえわ。年を取ると、温度調整がうまくいかなくってさ」
川田の顔は、明らかに青い。
寒そうに見えるのに、彼は暑いといってシャツ一枚で過ごすのだ。上着をかけようとした手をとめて、悟郎は代わりにポケットにねじ込んでいた煙草を差し出す。
「もらい物です。よければ、僕は吸わないので」
「ん。ありがとな、悟郎さん。煙草の配給も減って来たから助かるわ」
差し出した煙草箱の底を指で弾いて一本取り出すと、川田は慣れた様子で火を付ける。目を細め、火に顔を近づける川田はふと、悟郎の腕に目を留めた。
「それより、悟郎さんのほうが腕にひどい傷があるじゃねえか、大丈夫か?」
……袖をめくりあげたその腕に、深い傷が残っている。
左腕の、手首から肘に向かって、まるで雷がそこに落ちたようなぎざぎざの傷だ。
皮膚が引きつれて、そこだけが妙に白い。幅が数センチもあるその深い傷は、肘の向こうまで続いていた。
悟郎は慌ててシャツを戻し、腕を後ろに隠す。
そんな風にしても、もう痛みは無い。古い、古い傷だった。
「見苦しいものを、すみません、すごく古い傷なんです、痛くもなんともなくって……」
「ガキみてえな顔してる癖に、悟郎さん、力はあるんだよな。それに立派な傷持ちとはね。前はどこで働いてたんだ」
川田がにやにやと、悟郎の顔を覗き込む。その空気を察したように、周囲の男達が近づいて来る。様々な煙草の匂いが混じり合った。
「悟郎さんがこの島にきたのは……ええっと」
「一年と少し前ですね。ほら、宇宙計画で何か失敗があって……その時、反動で一気に田舎ブームが起きたでしょ。アレです。僕、案外、ミーハーなんで。それに元々、僕、高校生までここで暮らしてたんです」
男達の真ん中に囲まれても、悟郎は動じない。彼らは皆、店の客たちだった。
威勢のいい顔をして、食べるものはアイスクリームだったり、砂糖を入れなければコーヒーを飲めなかったり、そんな裏の顔を悟郎は知っているのだ。
「へー。島民かい。じゃあ帰ってきてがっかりしたろ、元々の島民、誰いねえんだもん。で、仕事やめて戻ってきたのかい」
「仕事で大けがしちゃったんです。半年以上、面会謝絶状態なくらいで。生きかえってみたらもう都会が嫌になっちゃって」
悟郎は草の生えた車止めに腰を下ろして、腕を押さえる。
……数年前のことが、まるで遠い昔のようだった。
東京の煩い町で暮らしていた悟郎は、ある日、仕事中に事故に巻き込まれた……らしい。
「事故?」
「詳しくは覚えてないんです。上から鉄板が降ってきて潰されたとかなんとか」
悟郎の記憶は、古くなればなるほど曖昧だった。まるで灰色の雲に覆われたように、ぼんやりとしている。
目が覚めた時、目の前にいたのは白衣を着た医師と看護師だけだ。悟郎の親はもうすでに亡い。家族もなく、友人もいない。
……と、医師から憐れむように言った。
一ヶ月ほど経ったあと、外出許可を得てアパートに戻ってみたが、そこは恐ろしく殺風景な何もない部屋だった。
写真も何もない。ただ建築について書かれた綺麗な本と、綺麗なシャツが数枚。作られたように綺麗な部屋に違和感を覚えたが、それよりも寂しさが募った。
事故に遭ってはじめて、悟郎は自分の寂しさに気がついたのだ。
残されたのは手の傷だけだ。
悟郎は目を細めて周囲を見渡す。
「もともと体は強いので、怪我は大したことないんですけど」
男達は煙草を手に持ったまま、真剣に悟郎の話を聞いている。まるで息子を見るような目で、切なそうに目尻を押さえる男もいた。
「……事故のせいで記憶まで曖昧になって、そのせいでリハビリが長引きました。そうするうちに元いた会社は潰れたらしく、少しだけお金を貰ってそれでおしまい」
悟郎は、世界に一人、取り残されてしまった。
「ひでえ話だ。裁判でもなんでもすりゃ良かったのに」
「ちょうど、移住計画に何か欠陥的なミスが見つかったかなにか……集団訴訟がどうのとか、そういう騒ぎがあった頃なんです。弁護士も裁判所もいっぱいで、何もできなくて」
悟郎は薄く笑って頭を掻く。
実際は、裁判なども考えていなかった。都会では毎日のようにデモが起き、裁判所の周囲はごった返していた。
病院には適合検査を受ける人の列や、非適合に印を押された人々の泣き叫ぶ声、怒鳴る声が交差している。
吊り下げられた大きな液晶からは賑やかな歌と、惑星の賃貸住宅を紹介する番組が交互に流れる。
街角には怪しげな適合手術を案内する男達がいて、彼らは悟郎にひどく付きまとった。
病院から病院服のまま、真っ青な顔で出て来たのは非適合だったせいだ。と思われたのだろう。
耳に纏わり付く雑音と、雑踏の音。人の泣き声、笑う声、どれもこれも煩くて、悟郎は耐えきれない。
「適合はどうだったんだ。えっと……駄目だったか」
「さあ……手術のあたりで適合検査もしたと思うんですが……移住の連絡が来なかったので。多分、駄目だったんでしょう」
気遣うように言葉を選ぶ男達に、悟郎は平気で首を振る。
あんな東京の騒ぎを見ていれば、たとえ適合者だったとしても移住するのは嫌だった。一秒でも早く、あの騒ぎの中から逃げ出したかった。
「で、島に?」
「ええ。この島ならきっと静かだ、そう思って」
今、耳を澄ましても海の音しか聞こえない。穏やかな島の言葉と、草を撫でる風の音。静かで、穏やかで……全てが優しい。
潮風と少しの煙草の匂いと土の香り、それだけだ。
廃墟となりつつあるこの島は、世界から忘れ去られようとしている。
こんな穏やかな場所が世界の中に残っていてよかった、と悟郎は思う。
「ここはもともと両親の故郷です。母も父も亡くなって、まあ家もないんですけど」
悟郎はそう言って笑ってみせる。
そんな嘘を吐くと、腕の傷跡が少し痛んだ。
……悟郎は、今自分が座っているこの場所に、何があったのか知らない。
「自分の実家」が島のどこにあって、どんな形だったのかも知らない。
記憶が全て曖昧なのだ。曖昧、というのは可愛い言い方だ。
(僕は、何も、覚えていない)
悟郎は腕を強く押さえる。
事故に遭ったというが、その瞬間も、その前も、悟郎の過去の記憶は泥に飲まれている。
この傷は、事故の時に付いた傷だと教えられた。
建築会社に勤めていたと医師からは説明を受けた。
確かに、そんな記憶はうっすらとある。巨大建築に取り組んでいた。そんな記憶だ。
彼らが語る悟郎の半生はシンプルだ。
菊池悟郎、30歳。
海側町出身、大学は東京。父と母は相次いで亡くした。
その後、建築会社に入社し順当に数年間勤め上げるも……そこで事故に巻き込まれた。そんな風に言われれば、確かにそんな気はする……気がするだけだ。
しかし、記憶はない。
腕の傷は最近できたにしては古い傷跡だ。
友人が一人もいない、というのも変だ。
家族を亡くしても親戚の一人くらいは居るだろう。しかし、家にあったメモ帳にも記憶媒体にも、誰の連絡先も記載されていなかった。
しかし医者も看護婦も、頑なに悟郎に嘘を吐く。その理由が分からず、悟郎は退院後に一人、町を放浪した。
パニックを起こして街頭に座り込んだ悟郎に声を掛けてきたのは黒スーツの男であった。
悟郎の職場の元人事だった、と男は語る。
会社は潰れたが、悟郎のことを心配して探していた。と彼は真剣な顔でそう言った。
彼は悟郎を助けおこし、近くの喫茶店で3時間も4時間もかけて話を聞いてくれた。何杯もコーヒーと紅茶を飲んで、「ああ自分はコーヒーより紅茶が好きなんだ」と、それだけを思い出した。
男は旅費代わりのチケットと食べ物と服、それと何枚もの配給チケットを融通してくれた。そして言ったのだ。
「……君は島へ……故郷に戻って、少し静養すべきだ」
ちょうど、島への移住募集が上がったところだ。と、男は言った。
悟郎は呆然と、何も考えられないままに飛行機と船を乗り継いだ。
(……それ以外道はなかった)
男の言うがままに、悟郎は島に戻った。
しかし、記憶はぴくりとも反応をしなかった。
夕陽や海を見ると、胸が締め付けられるが、それはただの一般的な郷愁だろう。映画の風景を見て感じる、擬似的な懐かしさと変わらない。
「一年前、変わった男がきたもんだ。って島じゃ話題になったんだ。いきなり島にきてさ、何か商売をしたいから空き家を借りたいなんていって」
川田は調子がよくなったのか、赤い顔をして笑う。
「別に家賃もなにもねえわな。こんな誰もいねえ島。で、適当にすればいいっていったら、生真面目にチケット全部差し出してきて」
「俺たちそこまで悪人ヅラだったかねえ」
ど、と男達が笑う。悟郎は顔を赤くして、首を振った。
その時のことはしっかりと覚えている。
船を下りた途端、男達に囲まれたのだ。元の住民はほとんど消え失せ、今、島にいるのは東京からのドロップ組だ、とその時初めて教えられた。
だから却って気楽だった。初めての顔で、悟郎はすっかりこの町に溶け込んだ。
記憶の無い苦しみはまだ時折、悟郎を襲うが、それも段々薄れつつある。
海の音が、悟郎を癒し悟郎を支えた。
そして亜美の存在も、密かに支えになっている。
「本当、古い喫茶店を居抜きで使わせて貰って感謝してます」
「若い子は呑気だねえ」
「まったく、人の減った田舎に戻ってきてさあ。借り手のない古い喫茶店改築して、モーニングだけでも喫茶店やるなんて、酔狂だよ、すいきょう!」
川田や男達は煙草を美味しそうに吸い込みながら、笑う。
それを見て、悟郎も笑う。
喫茶店を始めようと思ったのは、単なる思いつきだ。黒スーツの男と過ごした数時間の喫茶店。その記憶が鮮烈だったせいだ。
それに偶然にも、数年前に廃業した喫茶店が、道具もそのままに放置されていた。
壁も床も食器も綺麗に洗い、キッチンも整備すれば喫茶店は見事に蘇った。
あとはパン職人や農家と話を通し、まともなメニューを出せるようになったのは半年前のこと。
とはいえ、食材の数は限られているのでモーニングだけの提供だ。それでも毎朝、多くの客が押し寄せる。それが悟郎の慰めになり、東京の記憶はもうすでに遠くへとかき消えた。
「まあ俺等はおかげで珈琲飲めるわけだし、ありがてえが。でも若い子は、都会とか宇宙がいいんだろうよ」
「別に出て行きませんよ。それに僕はもう30過ぎてますし、若いってほどじゃ」
「若い若い。ガキみてえなもんだ」
川田が口をとがらせ、他の男達が彼を肘で突く。
「あの亜美さんも呑気だろ。若い奴らはみーんな呑気だ。で、俺等もお前さんたちみたいな若い子見習って呑気でいこうって、そう決めたんだ」
「……で。だ」
川田は煙草を思いきり吸い込む。
そしてちらりと、悟郎の顔を覗き込む。
「へ?」
「付き合ってんの、亜美さんと」
ふ。と息を吐くと白い煙がもくもくとあがった。
それをまともに受けて、悟郎は思わず数歩退く。煙ではない、川田の言葉に動揺したのだ。
「な、なななな、何いってるんですか」
「年齢は丁度じゃねえか。どっちも30歳そこそこだろ? 性格だって合いそうだ。まあ、他にも似た年齢の奴等はいるが、何より亜美さんと悟郎さんは毎朝あってんだからさ、で。付き合ってんの?」
「いや、だって。亜美さん、ほら、左手に、薬指に」
「ああ。指輪ね。でも夫なんざいねえだろ。一人暮らしだ。この町が旦那の故郷だったから、戻って来たつって言ってたっけ。離婚かね?」
「い~や、離婚したとかなら、旦那の地元に帰ってくるわけねえべ。死んだんだろ」
「死んだって聞いてるけどさ、そんな感じがしねえんだよなあ。俺の勘だけどよ」
「たぶんだが、夫が適合者で亜美さんが駄目だったんだろ。で、そいつだけ宇宙にいっちまったんだ。俺らの世代からすれば妻を残してはいけねえよ。亜美さんの夫ってのは、どうせその程度の男さ」
色恋の話となれば、男達は一気に顔が明るくなる。誰しもが皆、悟郎をにやにや顔で見上げてぐいぐいと体を押しつけてくる。
「それに名字を明かさないのが変だ。亜美、としかいわねえだろ。名字を名乗るのが苦しいってやつだ。離婚して旧姓に戻ったか、それとも離婚できないまま相手が宇宙にいっちまって、旦那の名字を名乗るのが苦しいのか……」
その声に、顔付きに、悟郎はどうしていいか分からず座り込む。顔を覆って小さくなる悟郎の周囲を取り囲んで、彼らははやしたてる。
皆気が良い人間だが、こういう遠慮の無さはいつまでも慣れない。
「や、でも、僕はそんな」
「押してけ、押してけ。ばればれなんだよ、悟郎さんはさ」
川田は楽しそうに笑う。
「女の落とし方を教えてやろうか、悟郎さん」
「男はさ、こういうときはさ、ぐっと行くんだ。それが一番いい」
遠くで配給を知らせる音楽が、掠れながら響きはじめた。その音を聞いて、男達はよっこいしょ、と立ち上がる。
配給の食べ物がセンターに揃った音だ。週に一度の配給日。島民が集まる日でもある。
皆が伸びをして、悟郎を突いてはそれぞれのトラクターに乗り込んでいく。
「アプローチのやり方わかんなかったら俺等にききなよ」
「おいおい、若いもんに任せなきゃなあ、爺が出しゃばって良いことはねえよ。ほれ、運んでやっから、後ろ乗りな」
川田は真っ赤になった悟郎の手を引いて、自分の軽トラの荷台に載せる。
ふと、荷台を見るとそこに小さなメモ帳が落ちていた。見慣れたメモ帳だ。
(……亜美さんの)
拾うつもりはなかったが車が揺れたその拍子に、手がメモ帳に触れる。
そうっと中を覗き込めば、まだ新しいメモ帳だ。最初の5枚くらいに、ボールペンの絵が載っている。
厚切りパン、目玉焼き、サンドイッチにおにぎり。
どれも細い線で描かれていて、緻密ではないが味のある絵だった。絵の隅っこには、アルファベットや記号が羅列されている。
(D7……D#……なんだこれ)
まるで書き殴ったような暗号のような、そんな羅列に悟郎は首を傾げる。しかし強い風に煽られて、慌ててメモ帳から目をそらす。そして急いでポケットにメモ帳を滑りこませた。
暗号よりも何よりも、これで亜美と話すネタができたという喜びの方が大きい。
(別に亜美さんと、どうかなりたいとか、そういうんじゃなくって……)
顔を上げれば、潮風が真っ直ぐに悟郎の顔を撫でる。木々が揺れ、廃墟となった家に小さな雪混じりの風が吹き付ける。
(もう少し、近づきたいだけだ)
しかし、穏やかだった。
全てが穏やかだった。
「そういや悟郎さん、公民館の跡地なら、まだ広場も残ってるし、あそこなら結婚式もできるぜ。この島にゃ幼稚園も小学校もないが、子どもができたら、俺等が勉強を教えてやる。俺、こうみえて算数が得意だぞ」
「川田さんっ」
トラックの窓を全開にしてまだ冷やかす川田に悟郎は怒ってみせる。しかしそれも温い怒りだ。
やがて恥じらいの赤い熱は、潮風に冷やされいつも通りの一日が過ぎて行こうとしていた。