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豪雨とコーヒー 

「亜美さん、少しこちらへ」


 亜美のすぐ目の前。男から漏れる静かな声は、まるで急に降り出した雨のように亜美の体に冷たく突き刺さった。

 彼は冷たい目で無理やり微笑む。 

「こちらへ来てください」

「亜美さ……」

 前に出ようとする悟朗の体をとっさに押さえて、亜美は首をふる。

「悟朗さん、いいから」

「でも」

「ごめん、ちょっとだけ、あの人と話をさせて」

 悟朗の目は、暗闇でもわかるくらいに鋭くとがっている。

 しかし、その視線の先に立つ男は……河合はそしらぬ顔だ。相変わらず涼しげで嫌みな表情のままそこにいる。

 亜美は全身に水を浴びたような心地で、唇をかみしめた。 

 河合の登場のせいで、現実がまた亜美を襲ってきた。そんな気がする。


(逃げられなかった。逃してもらえなかった) 


 静かな音楽はまだ鳴り続けている。穏やかで心地のいい、月光のソナタ。しかし、その美しい旋律と異なり、今の空気は重苦しかった。


「ラジオ局って……」

「この島で起こることで、我々が関与していない事象は一つもありません」

 悟朗の動きを気にしながら河合に近づくと、河合は目を細めて亜美をみる。

 その目にはかすかな軽蔑の色が混じっていた。

 彼の後ろの建物からは、相変わらずかすかな音が響いている。

 こんな空気に似合わない、月のソナタだ。

「申し訳ないですが、誘導させていただきました。海の方へ行かれると警備が面倒ですし、万が一船で連れさらわれては困りますので」

 河合はじっと、亜美を見つめる。

 亜美は情けなさを押しつぶすように、拳を握る。

 道に置かれたいくつもの看板を思い出した。真新しいあの看板は、確実に二人の選択肢を奪っていたのだ。

 河合は面倒くさそうに腕時計を操作し、袖についた雨水を指先ではじく。

「雨ですので手短に。温情はここまでです……私は言ったはずです。島の中ならいい、と」

 ぷん、と小さな虫が二人の間を通り抜ける。

 島の空気は雨混じり。息苦しいほどにじっとりと湿っている。


 この空気の中、先程まで亜美と悟朗は二人だけで過ごした。

 絶対に許されない、絶対に逃げきれない、そんな逃亡ごっこ。

 二人で、二人きりで、暗い道を歩いた。まるで3年前に戻ったかのようだった。悟朗の広い背中も、優しい声も、亜美をみる優しい目も何一つ変わっていなかった。

 ……まるで夢の中のようだった。


「遠くに行くつもりなんて……ただの冗談で……」

「今のあなたは、記憶のない人ともう一度恋愛を楽しんでいる、そうとしかみえない」

 河合の言葉は、出会ったころと同じように、強い。

「記憶を揺さぶって、楽しいですか? 言ったはずだ。素人に手を出されては困ると……しかし温情で、少しだけ時間を与えてあげたんだ。それをあなたは破ろうとした」

 強い言葉に押されたようで、亜美は少しめまいを覚える。

 確かに河合は言った。日が変わるまでは二人で過ごすことを許すと。しかしその許しの中に、逃亡ごっこは含まれていなかった。

「なぜ外に行こうとしました」

「別に本気じゃ」

 ……嘘だ。

「本気じゃないです」

 自分は今、嘘を言っている。と亜美は唇を噛みしめた。 

 何の疑いもなく自分のあとをついてくる悟朗をみて、心が揺らめいたのはたしかだった。

 このまま、二人で、逃げることができたなら。

 連れ去ろうと、一瞬だけ本気でそう思った。

 海に着き、船に乗り、どこか遠くに……いけるのではないか。そう、考えた。

 そうすればあらゆる危険から彼を守れる……そんな、自分がヒーローにでもなったような気がしていた。

 中学生のころの家出と同じだ。ただの勢いだ。

 結局、あのころと同じで亜美の計画は失敗した。

「あなたはあの人を、守れるつもりですか。さらわれて、泣いてるような人が?」

「そんなこと」

「あなた、もしあの人が本気でさらわれたら、あなただけで助けにいけるんですか……こんな」

 河合の手が、不意に亜美の腕を掴んだ。

 思い切り捕まれ、揺らされる。ほどこうとすると、彼は冷笑を浮かべる。

「……ピアノしか弾けないような、お嬢さんの手で?」


「触るなっ」


 ずん、と熱い空気が亜美の体を包み込む。

 は。と顔を上げれば、悟朗が亜美の体を河合からもぎ取ったところである。

「悟朗さん!」

 彼の腕の中に包まれ、亜美は声が震えた。

 悟朗は亜美を抱きしめるように河合からはぎ取ると、鋭い目で彼をにらみつけた。

「亜美さんに触るな」

 河合はそんな悟朗をじっと見つめ、困惑するように眉を寄せる。

「私は別に、その人に興味があるわけじゃ……」

「僕の、亜美さんだ」

 悟朗の力が更に強くなる。きつく抱きしめられたまま、亜美は呆然と彼のシャツを掴んだ。

 亜美は河合に気を使う余裕も、悟朗を止めることもできない。急に、体が震え足がもつれるように絡まった。

「ちがうの……ごろ……さ」

「待って。亜美さん、すごい熱だ」

 ぽつり。と、雨の粒が亜美の顔をなでる。

 亜美は熱っぽい目を見開いて、空をみる。

 灰色の雲から、大粒の雨が降ってきていた。

 地面に、大きな水滴の跡が弾けるようにつく。

 黒い染みは、一気に地面に広がった。

 雨がふれた皮膚が心地よく、全身の熱をはじめて亜美は自覚する。

「熱が出てます。雨、降ってきましたし、帰りましょう」

 悟朗はもう河合をみることもない。河合ももう、何も言わない。

 ただ河合は少しいらだつように、腕の時計を何か操作してるところである。

(また……守られるんだ)

 しかしその視界は、悟朗の手で塞がれた。

 大きな手が亜美の顔を覆ったのだ。

(また……何もできなかった……)

「よそ見しないで、亜美さん。家まで、抱えていきますから」

 次の瞬間、体がふわりと浮かび上がる。

 悟朗に抱え上げられた亜美は、悟朗の指の隙間から濁った空を見上げる。

 彼に抱えられた思い出は、晴天の……そうだ、結婚写真を撮った朝のこと。

 あれから随分と遠い場所にきてしまった。と、亜美はただ呆然と島の空を見上げていた。



 家についたのは、もう深夜も回ったころ。

 熱は疲れのせいだろう。悟朗の腕の中で少しだけ眠り、目が覚めた時にはすっかり落ち着いていた。

 それでも悟朗は生真面目に、一度も亜美をおろすことなくアパートにたどり着いた。

 彼は亜美を亜美の部屋に運ぶと、心配そうに眉を寄せ膝を落とす。

「ごめんね、重かったでしょう」

「平気です。それより……」

 河合のことを聞きたいのか、今夜のことを聞きたいのか。悟朗は唇を少しふるわせ、やがて苦しそうにうつむく。

「僕は……」

 その前髪から滴が垂れるのをみて、亜美はあわてて彼の顔を指で拭った。

「悟朗さん、私のことはいいから、早く体を拭かなきゃ」

「いえ、なにか暖かいもの……そうだ、スープ作ります。冷蔵庫、借りますね。少し待ってて」


「……コーヒーが」


 亜美の部屋のキッチンに向かおうとする悟朗を呼び止め、亜美は少し言いよどんだ。

「コーヒーがいいな。悟朗さんの淹れた」

 コーヒーの豆は、悟朗のキッチンにしかないのだ。

 悟朗は一瞬、迷うような目を伏せたが、やがて諦めたのかため息をついた。

「じゃあ、ぜったい、ここから動かないでください」

 悟朗はラジオのスイッチを入れ、亜美の体に布団をかぶせる。そして震える手で、亜美の頭をそっとなでた。

「絶対、動かないで」

 悟朗の背が、キッチンとキッチンの間に登場した扉の向こうに吸い込まれていく。

 暖かい布団をきゅっとつかみ、亜美は情けのない気持ちを喉の奥に押し込んだ……転がったラジオを指先でつつく、するとラジオが数回、音をにじませ、やがてそれは一つの曲となった。


『こんな忘れ去られた場所で、私はあなたともう一度、恋をする』


 漏れてきたのは透き通るような、女性の歌声。

 その声を聞いて、そのピアノの旋律を聴いて、亜美は痛いくらいに唇をかみしめた。

 静かな歌声の後ろに、泣くようなピアノの音が重なる。

 静かに盛り上がるその旋律は、亜美の気持ちの代弁だった。

 つま弾くように、跳ねるように、なでるように。

 音は歌詞以上に、訴えかける。

 次にどの旋律がくるのか、どんな音が乗るのか、亜美には全部わかっている。

 亜美の頭の中に五線譜が浮かぶ。音が踊り、歌詞が重なる。


 あの人が好きだ。あの人の声が聞きたい。あの人の手に触れたい。あの人を抱きしめたい。


 これはまだこの島に来たばかりの時に、作った曲だった。

 亜美の曲を好きだと言ってくれた若いアーティストに提供した。彼女の伸びやかな声と、こんな時代の背景によく似合う歌詞のおかげで、軽くヒットとなった。

 歌手が別の惑星に旅立ってなお、まだこの曲はラジオで流されている。


『けして、この手を離さないで。この場所で私はあなたと』


『最後の恋をする』


 亜美は布団をはぎ取ると、立ち上がる。音をたてないように、棚を探って小さな付箋を手の内に握る。そして、キッチンの横をそっとすり抜けた。

「……」

 キッチンの壁にあるのは、先日悟朗が無理矢理開いた扉だ。

 あの日、突然壁がこじ開けられて、何事かと震えたものだ。

 その隙間からのぞいた悟朗の顔は、照れるような焦るような……自分で穴をあけておいて、彼は子供のように言い訳をした。

 それをみて、亜美は思わず笑ってしまったのだ。

 あの日のことは、忘れられない。

 そんな扉のすきまから、悟朗の横顔がみえた。

 あの時のような笑顔はない。彼は迷うような苦しむような表情でコーヒーを注いでいる。

 透明感のあるコーヒーの香りが、湿度に紛れて亜美の鼻に届く。

 悟朗の顔を少しだけ眺めたあと、亜美は静かに玄関から抜け出した。



 雨は本格的に強くなっている。

(本当に、最悪だ)

 亜美は傘ももたないまま、ひたすらに道を駆けた。

(私はなんて……バカで、ほんとうに……全部、全部裏目にでて……)

 足下の水たまりがはじけて、亜美の足をぬらす。足だけではない。頭も肩もぜんぶぜんぶ、濡れきっている。

(悟朗さん、悲しませて……怒らせて……迷惑かけて……)

 しかし亜美はそんなこと気にもならない。ただ、後悔と苦しさだけが胸を締め付ける。

(みんなの仕事も、じゃまして……)

 浮かぶのか悟朗、河合、そして東京にいる、川岸という男の顔だ。



 亜美は崩れかけたひさしの下に駆け込むと、そこにかけられた小さな電話ボックスに向かう。

 公民館。とかかれた看板はもう半分もずれている。

 今年の台風で屋根が飛んでしまった公民館は、今は小さなひさしだけが残る裸んぼうの状態だ。

 そのひさしの下には、電話が一台置かれていた。

 震える手に握りしめたままの付箋には、いくつかの数字が刻まれていた。

「ぜろ……ろく……さん……」

 電話など、この時代、ほぼ風化した。公共の番号しかないこの時代、この四角い箱はただの飾り物となっている。

「ちゃんと……動くかな」

 今ではほとんど使われることもない機械。

 亜美も、受話器を手に取るのは数年ぶりのことだ。

 そっと持ち上げて耳にあてると、静かな電子音が聞こえてきたので亜美は安堵の息をつく。


『緊急ダイヤルだ。何かあれば、お金はいらない。この数字を打ち込みなさい』


 人の良さそうな顔をした川岸は、そうささやいて亜美の手にこの付箋を握らせた。


(おひさしぶりです。こんな夜にすみません。私、決意しました。東京に帰ります)


 浅い呼吸の中、亜美は心の中で言葉を紡いだ。

(もう、そちらに帰ります。これまで仕事を邪魔してごめんなさい。もう二度と邪魔しませんから。だから)

 数字を打ち込み、息を吸い込む。

(悟郎さんを、お願いします)

 濁ったようなコール音が一度響くなり、すぐに誰かの息づかいが受話器の向こうに聞こえた。


「おひさし……ぶりです。こ……こんな夜に……ごめんなさい」


 何かの声が聞こえる前に、亜美は必死に言葉を紡ぐ。頭の中で練習したはずの言葉は、声にならない。

 こぼれた言葉は涙のようにほろほろと、止めどなく流れる。

「亜美です……栗田……亜美です……ごめんなさい川岸さん。せっかく、骨を折ってくれたのに。私……私」

 喉の奥が震え、我慢しなければ嗚咽になりそうだ。必死に耐え、電話の向こうにいる男の顔を思い浮かべる。

 年輩の、優しそうな男だった。亜美と同じ年齢の娘がいたのだと彼は寂しそうにいった。過去形であることに、悲しみがにじんでいた。 

 雨で滑りそうになる受話器を必死に握りしめ、亜美は浅い息を吐き続けた。

「川岸さん」

「栗田さん。大丈夫ですよ、落ち着いて」

 川岸の優しい声が、亜美の耳を包む。

 静かな、穏やかな声だ。

「川岸さん……」

「話は聞いてます。河合が迷惑をかけているようで、申し訳ない。あれも悪い男じゃないんだが、どうも融通のきかないところがあって……今、ちょうどそちらに向かおうとしているところです」

 川岸は移動中なのだろう。がたがたと、大きな音がする。

「明日の朝には、つきます。河合は私から叱っておきます。許してください。とにかく朝、お話をしましょう。そちらは雨ですか。すごい音がする。早くお戻りなさい。大丈夫、大丈夫だから」

「……ごめんなさい。河合さんの言うとおりです。私ここに来ちゃいけなかったんだ。せっかく、せっかく川岸さんが連れてきてくれたのに」

 川岸の声を聞くと、気持ちが一気に溢れ出た。この島に来て半年以上。蓋をしておいた悲しみや思いが、一気に口から溢れ出す。

「……私……私帰ります。東京」

 雨がまた強くなった。

 ひさしから垂れた雨粒が、亜美の頭も顔もぬらしていく。

「このまま……ここには居られない。河合さんのいうとおり、帰ります……どこの惑星でも、行きます……できるだけ、遠く。明日でも、今夜でも」

「落ち着いて、栗田さん。今日は、いい。いいから早くおうちに戻りなさい。風邪を引いてしまう」

「いいんです……はな……話を、聞いて……ほしくて、私」

 亜美は受話器を強く握りしめたまま、せき込むように言葉を吐く。

 指に水が伝わり、滑りそうになる。それは雨ではない。涙のせいだ。涙が、受話器を伝わっていく。

「……だめなんです……どうしても、悟郎さんが好きなんです」

 吐き出したのは、半年以上言いたくても言えなかった一言。

「どうしようもなくって、好きで、だから」

 雨の音が強い。だから亜美の声も大きくなる。

「このままじゃ私、きっと、悟朗さんを悪い方に……悪い方に……」


 急に、雨の音が途切れた……いや、雨がとまった。

 亜美に、傘が差し掛けられたせいである。


「亜美さん」


 声に驚き、亜美は振り返る。


「亜美さん、今の」


 そこに、呆然と悟朗が立っている。

 亜美の手からこぼれ落ちた受話器からは、川岸の心配そうな声だけが響いていた。

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