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始まりの島イチゴジャムトースト

 ラジオから掠れるような歌声が響いてくる。

 去ってしまった恋人に切なく語りかける……甘い恨み言も混じっているような……そんな歌。

 ずっと大昔に流行った曲だ。CMに使われて、ほんの少しだけ話題になった。

 旋律と歌詞が奇跡のように混じり合う、そんな曲だ。

 亜美は切ない歌声の向こうに重なる、静かなピアノの音に耳を傾け目を閉じる。



「あー。懐かしい曲。小学校の頃に聞いてたなあ。歌詞の意味、分かってないくせに好きだった。親にねだってカラオケにつれて行ってもらってさ……」

 カウンター席の一番端。つるつるになった机の上を指先で撫でながら、亜美はうっとりと呟く。

「この歌うたったら、親から、もっと子どもらしい歌をうたえって怒られて……」

 亜美は目を閉じて、唇をしっかり締めて息を止める。

 そうすれば耳から入った音楽が、頭の中に広がって反響する、そんな気がする。

 亜美は音楽に浸る瞬間が一番好きだった。耳から入った音楽が、行き場所をなくして頭の中に留まり続ける。そんな気がする。

「……あ。僕、亜美さんの年齢分かっちゃいました。きっと僕と同じくらいだ。でしょ?」

 亜美の目の前、カウンターの向こう側で青年が一人、微笑みを浮かべる。

「それで、きっと亜美さん都会生まれだ。僕の町みたいな田舎には、カラオケ屋さんなんて今も昔もないんですよ」

 青年は、ゆっくりとコップを磨きながら嬉しそうに笑う。

 背は高く、腕も肩もがっしりとしていて、体の全体に筋肉が付いている。そのせいか、エプロンは似合わない。

(……腰に巻くタイプのエプロンの方が似合うのに)

 と、亜美は常々思っている。

 そんな体つきのくせに、顔は童顔気味で子犬のように人なつっこい。でも最近は少しだけ目の回りに小さな目皺が増えた。

 それを隠すために、わざと前髪を伸ばしていることも、縁の太い伊達めがねをかけていることを、亜美は知っていた。

 目尻に浮かんだ彼の皺を見つめながら、亜美は目を細める。

「……そういうのは本当失礼だからやめなね、悟朗さん。年齢のこと言うのは」

「一言多いってよくいわれます」

 彼は……悟郎は柔和にほほえんで、乾いた机の上を無意味に拭く。真っ白な布巾を掴んだ彼の手はがっしりと男らしい。

(……笑うと目尻が優しくたわんで、頬が少しだけ震えて)

 亜美は彼の顔をじっと見つめていたが、やがて眩しくなって目をそらす。

(まるで子どもみたいな顔)

 そんな顔が、亜美にすれば眩しくて仕方が無い。

 亜美はネックレスの先にぶら下げた大きな指輪を指先で弄り、カウンターに突っ伏す。

「……悟朗さん、いーっつもそう言って、怒られても直さないんだから」

 悟郎はマロンという小さな喫茶店を一人で経営するオーナーだ。この店はカウンターしかないので、オーナーと客の顔が近い。

 亜美は悟郎の目線を避けるようにガラスのコップに入ったぬるい水を飲み、のどを潤す。水は透明できれいで、何の味もしない。

 それをすっかり飲み下し、亜美は潤った唇を拭ってゆっくり周囲を見渡す。


 ……ここは古い古い、とても古い喫茶店だった。

 お店と同じく、百年以上の歴史があるという壁掛けの茶色い時計は、今の時代珍しい針時計。手巻きで直す時計なんて、亜美はこの店ではじめて目にした。

 それと同じく、店の中には古い年代物の調度品が多く並ぶ。机は一本木のカウンターのみ、7席だけ。

 カウンターの向こうには小さなコンロと冷蔵庫。その上の棚には、アンティークなカップがまるで美術館の展示のように並んでいる。

 棚の中にはコーヒー豆の入った瓶だとか、食パンの袋が大切に置かれているのだった。


 そして一番高い場所に鎮座しているのは、古くさい小型ラジオ。

 ぼろぼろのスピーカーにつながれたハンディラジオ。がたがた音を立てながら、音楽だとかニュースだとかを鳴らし続けている。

 調子が悪いのか音は途切れたり止まったり、急に大きくなったり。それでも一生懸命動く様子は健気でさえあった。

 そんなラジオの横には、雰囲気に似合わない手書きの紙が一枚。


『当店はモーニング専門店です。営業時間は朝6時から朝10時まで。

コーヒーと食事で配給チケット半分をいただきます(※日によって料理の内容は変わります)』


「はい、亜美さん。先にコーヒーです。今日も、いつもと同じ、ちょっと薄目で。あ、そうそう。手に入る豆の種類が変わったので、また感想を聞かせてくださいね」

「ありがとう。でも悟朗さん、配給チケットって半分で大丈夫なの? 一枚まるまる渡してもいいんだよ?」

「ご心配ありがとうございます。でも趣味みたいな店ですし。自分一人食べていけばいいだけなんで」

 来てくれるだけで嬉しいんです。そういって笑う悟郎の笑顔を見て、亜美は慌てて顔を俯ける。

 その頭上を、音楽がまた流れていった。

「悟朗さんのお店はいつも音楽番組を流すね」

「だって、最近のニュースは気が重いでしょう?……あ、パンが焼けた」

 ちん、と軽い音を聞きつけて悟郎はいそいそと、古いトースターのふたを開けて湯気をあげるパンを取り出す。

 良く切れるナイフをパンにそっと当てると、さくさくと暖かい音をたててパンが切れた。

 カウンター越しに見ても分かる、ふんわりあがる白い湯気。

 湿度を持ったその湯気が、悟郎の顔を優しく撫でるのをみて、亜美の腹が鳴った。

 悟郎の目が真剣にパンを見つめている。その揺れる前髪を、亜美はじっと見つめる。

 この瞬間は、どれだけ見つめても目が合うことがないので、安心だった。


「やっぱり焼き立てっていいですよね」


 悟郎の呑気な声を聞いて、亜美は慌てて目をそらす。

 その隙に彼は焼き立てのパンを大きな白い皿に盛って、冷蔵庫から取り出したきれいなものを、皿の上に取り分ける。


「今日のモーニングは?」

「厚切りバタートーストと手作りのジャムと、ヨーグルトです!」

 

 悟郎は宝物を披露するかのように目を輝かせて、カウンター越しに皿を差し出してきた。

 大きな皿の上には、驚くほど分厚い食パンのトーストと、ルビーみたいなジャムの小皿、その横には真っ白なヨーグルトが泳ぐスープ皿。

 パンの上には、白いバターがたっぷり塗られて、パンは黄金色に輝いている。なんてきれいで、なんて美味しそうなんだろう……亜美は溜息をつく。

「あーもう、久しぶりだなあ。この厚いの」

 亜美は感動に震えるように呟くと、鞄から小さなメモ帳とペンを取り出す。そしてサラサラと、モーニングの一皿を紙の中に描き出した。

 描くといってもまるで子どもの落書きだ。丸を描いて、パンの四角に苺を描いた小さな小皿。

 カウンター越しに覗き込み、悟郎が苦笑する。

「亜美さん、癖ですね」

「何が?」

「絵を描くの。普通、写真とかじゃないですか?」

 絵を描くのはほんの十秒くらいのこと。亜美は食事が冷める前にさっさとペンの蓋をして、メモ帳を鞄に突っ込む。

「カメラもあるけど、古すぎて充電もできないし、フィルムとか記憶媒体とかも持ってないから再生もできないし。電気だって、いつ無くなるかわからないし……あとで見返せないカメラより、見返せる下手くそな絵の方がいいじゃない」

 亜美が膨れるのをみて、悟郎は楽しそうに笑う。

「上手に描けてましたよ。パンがふっくら厚くて美味しそうなところとか」

「でしょ? そこはポイントだよね。こんなに厚いパン久々だもん」

「しばらく小麦粉の配給がなかったでしょう。最近、また復活したらしいんです。で。あの角のパン屋が食パンを作り始めたんですよ。パンはあそこが一番ですよ」

「最初はこのまま頂こうっと……いただきますっ」

 感動してパンを高く掲げる亜美を見て、悟郎は胸を張る。

「毎朝届けて貰う契約にしたので、しばらくは厚いパンを食べられますよ」

 亜美は恥も外聞もなく、大きく口をあけてパンを噛みしめた。

 さくりと、歯で軽快に切れるパン。熱い湯気の間から、バターの甘い香りが立ち上る。

 外のカリカリとした歯ごたえと、中のとろけるような柔らかさ。一口食べて、亜美はしみじみとパンを見つめる。

 噛みちぎられたパンの断面は、白くて肌理が細かく……とてもきれいで、とてもおいしい。

「すっごい……バターの味がする」

「最近は物資不足でしょ。だから知り合いの店でグループを作って、みんなで物資を共有するようにしてるんです。だから今のほうが何でも揃うようになりました。バターも前より手に入るようになったし、イチゴも昨年くらいからハウスが復活して、そこから分けて貰ったんです」

 亜美は真っ赤なジャムを、パンの上に慎重に落とす。顔を近づけ、ゆっくりと。

 苺のじゅくじゅくとした赤が、バターの黄色と一緒に混じって溶けるのが、なんともいえないくらいに官能的だった。

「おお……赤い……」

 噛みしめると、懐かしいイチゴの味がする。

 最近は季節感なんて消えてしまった。熱いか寒いか雨か晴れか、それだけだ。

 今の季節は暦でいえば初夏のはず。しかし気温は冬のように寒い。かと思えば急に暑くなる。最近は、そんな気候の繰り返し。

 痛いほど寒い季節にこんな綺麗なものができるのが不思議だった。

「なんだか最近は天気もいいし、配給も途切れないし、平和だね」

「とはいえラジオの調子は悪いですけどね……最近、つながりが悪いなあ……」

 パンを噛みしめて幸せに浸る亜美の前で、悟郎は必死にラジオと格闘していた。

「最近はラジオ局も消えちゃって、政府が一局持っているのと、残りは個人発信でしょう。ちょっと前までインターネット回線も生きてたみたいだけど、最近は……」

「つながらなくなったねえ。都会じゃまだ繋がるんだろうけど……」

「今じゃラジオが復権ですもんね。歴史の教科書、そのままの生活ですよ。案外原始的な生活も、悪くはないですけど」

 古いラジオは新しいものとは勝手が違う。小さな取っ手をかちゃかちゃと、回しては叩き、がーがーぴーぴーうるさいスピーカーをなでては揺らす。

 やがて、その努力が実ったのかラジオがかすかな音をたてた。

『……』

「あ。つながった」


『2XXX年、こうして人々は……』


 ラジオから聞こえてきたのは、静かな男の声だった。

 二人は口を閉ざし、その声に耳を傾ける。

 それは、この国の、星の、人間の、たった少しの間におきた、進化と退化の物語。


 地球はどんどんと資源を失った。

 だから誰もが、宇宙への進出を目論んだ。個人も、企業も、国も、何もかも。

 つまりみんな、地球に飽きてしまった。外の世界に救いを求めたのだ。

 その努力は多くの失敗と悲しみを重ねたが、やがて、人々は、宇宙で暮らす術を見つけだす。

 それは、一人の宇宙飛行士が宇宙で見つけた、とある素材。

 その素材を使うことで、宇宙技術はたった数年で一気に進み、20年も経たないうちに宇宙進出の夢は叶った。


『人々はこれを、飛行士の名を冠してクリタプロジェクトと呼び……』


 ラジオは淡々と、言葉を連ねる。亜美は左手の薬指に収まった緩いリングを指でくるくると回した。


『人々は、宇宙へ、惑星へ、夢へ、飛び出していく……新天地での新しい世界へ。しかし』


 ただし、この素材には難点もある。素材に適合する人間としない人間があるのだ。

 適合しない人間は、宇宙には飛び出せない。

 つまり適合しなかった人間は、この資源の乏しい地球に取り残される。

 それを尻目に、適合者は今日も毎日のように宇宙へ飛び出していく。

 残された人々は、この資源のない土地で生きていくしかない。

 資源は少なく、食べ物が配給システムにとなったのは数年前のこと。

 騒ぎになったのは一瞬のことだ。

 案外、この国の人々は辛抱強い。

 今では、なんとなく……なんとなく、この終わっていく青い星で皆が呑気に生きている。


『非適合者の怨嗟の声は、政府や、飛行士にまで向けられ……』


 亜美はきゅっと手のひらを強く握りしめる。

 飲み込んだコーヒーの味は、薄く、苦かった。

「ね。やっぱり音楽に戻さない?」

「これ、昔に作られた宇宙移住反対プロジェクトの番組ですよね。ちょっと前まで耳にたこができるくらい聞きました。宇宙移住反対運動の人達が時々、番組ジャックして流すんですよね。困ったもんです」

 悟郎はあきれ顔で呟くと、飽きたようにラジオを叩く。

 と、今度は比較的調子よく、音楽のチャンネルにつながった。

「あ。つながった、つながった。もう暗い話はいやですよね」

 悟郎は安堵したように、自分用にいれた紅茶をすする。

 粉のミルクたっぷりに、お砂糖は三杯。びっくりするくらい甘い紅茶が彼の好みだった。

「……資源がないとか、地球はもう駄目だとか、いろいろ言われてるけど、実際のところ酷くはないですよね……これから悪くなるって言われて、もう数年経ったし……。このイチゴですけど、最近は宇宙移住を諦めた人が田舎に戻ってきて、土地を耕して農作物を作ってるんですよ。特に若い人が。だから新鮮な野菜も手に入るんです」

 悟郎は目を細めて、店の玄関をみる。ガラス戸の向こうには、乾いた地面が見える。しかし、その向こうに緑色の畑の端っこが見えた。

 最近は、確かに緑の農地が増えてきている。

 一年前は見なかった、若い人も増えてきている。

「宇宙に移住する人が、喜んで人に自分の土地を渡していくんです。いつか……戻ってきたときに、もう一回、農地を使えるでしょ」

 悟郎の声が切なく震える。亜美は答えず、コーヒーを静かに飲んだ。

 飲み込んだコーヒーの苦みを誤魔化すように、亜美はコップに残っていた水滴を舐めた。

「このコーヒー豆、ちょっと苦いね」

 ……適合者の全員が、喜んで地球から離れるわけではない。

 家族が子供が夫が妻が、宇宙へいく。だから彼らもついて行く。地球に残したものに、後ろ髪を引かれながら。

 いつか戻ってくるといいながら、戻ってくることはない。


『こんな忘れ去られた場所で、私はあなたともう一度、恋をする』


 一瞬の静寂の中、透き通るような女性の歌声が響いた。

 それはまっすぐで綺麗な声だ。

 とうとうと歌い上げるのは恋の歌。それを聞いて、悟郎は目を輝かせる。

「あ、この曲最近よく聞きますよ。一時期は恋愛の歌って消えましたけど最近また増えてきましたよね。ここのサビのメロディー、綺麗ですよね」

「ねえ、ほかのにしない?……朝から湿っぽい歌はちょっと苦手かも。歌詞も陳腐だし、あんまり好きじゃないんだ」

 パンの残りを一口で食べて、亜美は指についたパンくずまで綺麗に食べてしまう。

 綺麗な声は、まだ切なく歌い上げる。こんな時代には、悲しすぎる曲だった。

 亜美のわがままにも、悟郎は怒らない。にこにこと、太い眉を下げて笑うのだ。

「ほかの邦楽チャンネルは調子が悪くて……あ。でも、クラシックチャンネルありますよ。たぶん、近くのラジオ局の跡地を誰かが利用しているんだと思います。うまく繋がれば一番音が綺麗なんです」

「個人のラジオ局で、クラシック?」

「著作権も切れてますし」

「こんな時代に著作権とか」

「大事でしょ」

 悟郎がもう一度ラジオを叩けば、重厚な音楽がじゃん。と流れる。

 それは遙か昔のクラシック音楽、確か『惑星』とそういった。



「おおい、悟朗さん。ああ、亜美さんも来てたんだ」

 曲が激しく盛り上がる……その直前。喫茶店の扉が開いてちりんと鈴の音が鳴る。

 顔を出したのは、黒い肌にてかてかと汗を光らせた中年の男だった。

 手には土がつき、こんな寒いのに上半身はランニングシャツ一枚きり。

「川田さん」

 悟郎は濡れた手を拭きながら顔をあげ、亜美はコーヒーの最後の一滴を飲み終わって振り返る。

 川田は手の甲で汗を拭いながら、暑そうにぱたぱたとシャツの前を開けては閉じる。

「どうしたんです?」

「また、町の見学者が来てるんだ。俺はこのとおり、まだ仕事が残っててさあ。どっちか、来てくれないか」

 川田は近くの小さな農場で、今でも農作物を作っていた。

 なぜこの地に残るのか……聞けば教えてくれるかもしれないが、亜美はそれを口にしない。

 いまだに田舎町に残る人間には、何かしらの理由をもつ人達が多いのだ。

 少なくとも川田には悲痛な色は少ない。いつでも元気いっぱいに土をいじっている。動いていると暑いのか、真冬でもシャツ一枚で過ごすような人だった。

 亜美は川田に向かって手を振りながら、急いでコーヒーを最後まで飲みきる。

「じゃ、私がいきます」

 亜美がそう言いながら立ち上がれば、悟郎はまるで捨てられる犬のような目で俯く。

 睫毛が長いので、震えると哀れっぽく見える。それを見て、亜美は苦笑した。

「悟郎さんはみんなのためにモーニングを作らなきゃ。また明日くるからね」

 配給チケットの半分を裂いて机において外に飛び出すと、亜美は川田が運転するトラクターの後ろに飛び乗る。

 トラクターはエンジン全開、遠慮無くすぐに動き出す。

 激しく揺れる荷台の上、亜美は思い切り腕を広げて息を吸い込んだ。

「ああ。海の香り、海の音!」

 口から入って喉に滑り落ちた冷たい空気。それは海の香りをまとってる。

 耳を澄ませば、静かで穏やかな海の音が聞こえる。

 ざぶん、ざぶん。それは宇宙が地球を引っ張ってる音である。海は揺れる、音をならして水を跳ねさせて。

 ……亜美と悟郎、川田の住むこの海側町は、広い海にぽつりと浮かんだ、小さな離島の上にある。


「ゆれっから! 亜美さん、口閉じてろよっ」


 車の窓から顔を出して、川田が叫ぶ。亜美は手を大きく丸の形にして子どものように笑って見せる。

 激しく車が揺れるのは、地面が恐ろしくガタガタだからだ。

 配給が始まるよりずっと前から、公共工事は全てストップした。

 アスファルトの工事も、建物の補修も、何もかも。ずっと昔に消えてしまった。

 今はゆっくりと皆、土に戻ろうとしている。その最中。

 亜美は頬に打ち付ける鋭い風を感じながら、空を見上げる。

 真っ青で美しい空。目の前に広がるのは、乾いた大地に、壊れた標識、崩れた家。

 その合間に、ちゃんと残っているアパートや、家。看板の傾いた商業ビルに、シャッターの壊れた古い電気店。

 そしてさびて倒れたバス停の、その横に上品そうな婦人が一人、立っていた。


「こんにちは」

 声をかけて、亜美はトラクターの後ろから飛び降りる。

 川田は盛り上がった筋肉を見せつけるように、腕を窓の外に出したまま去って行く。ぼこぼこと、黒い煙を吐き出すトラクターのお尻が、やがて道の向こうに消えていった。

「あなた島の方?」

 綺麗な紫のコートに身を包んだその女性は、もう70歳をこえているだろうか。

 亜美は彼女の横に立って、微笑む。

「見学の方ですよね。この辺りは足場も悪くなってますからお一人では危ないですし、ご案内しましょうか」

 彼女は優しそうに目を細め、悲しそうに周囲を見渡す。

「ええ、お願い。私ね、40年前に嫁いで、島を出たの。父も母も亡くなって、お墓も兄の住む東京に……だから島に来たのなんて、本当、40年ぶりで……だめね、こんなに離れてると、まるで知らない町みたい」

 彼女は目を細めて、道を見つめる。

「それに40年前なんて、まだ宇宙移住なんて無かった頃でしょう。あの頃は、もっと島には人が多くて……商店街なんかも、あったのだけれど……」

 彼女の見つめる先には、もう何もない。つるつるの大地があるだけだ。

 彼女は少し笑って、首を傾げた。耳に付いた綺麗なイヤリングが音を立てて揺れた。

「ごめんなさいね、べらべらと一方的に……斉藤といいます。よろしくね」

「私は……亜美っていいます」

 亜美。と斉藤さんは口の中だけで呟いて、また寂しそうな目で周囲を見渡した。

「あなたもこの町の出身?」

「ええ……とはいっても中学校の時に一年だけ。その後、父の転勤で、またすぐに東京に戻りました。で、今度は逆に半年前に東京から島に戻ってきたんです」

 亜美は伸びをして、太陽の光を浴びる。

 冷えるが心地のいい天気だった。

 少しべっとりとした潮の香りがする。耳を澄ませば、海の音も聞こえる。

 この町は、朽ちていく様子も美しい場所だった。

「だから最近の島にはむしろ詳しいくらいです。ご案内しますよ、どうせ暇ですし」

「……すっかり、変わってしまったわね」

 斉藤の隣には、レンガの薄い壁が立っている。

 雨よけというにはあまりに頼りない小さな屋根が付いた、不思議なものだ。

 潮風で白くなったそれを撫でて、斉藤は目を潤ませる。

「ここね、昔はバスの……待合所だったはず。もう、バスも走っていないのね」

「バスは十年前に、もう止まったと聞いてます。でも自転車がありますから、後ろに乗ってください」

 亜美は近くに転がっていた自転車を起こす。ブレーキやタイヤをざっと見て、後ろの荷台を袖で拭く。

「みんなが置いていってくれたのを修理して使い回してるんです。バスが無くても……ほら、レンタサイクルがたくさんあるから大丈夫」

 自転車は、立派に大きいものだ。亜美はそれにまたがって斉藤を手招きする。

「自転車なんて、何十年振りかしら」

「運転は私がしますので、ご安心を」

 彼女はおそるおそる、荷台に横向きに腰を落とした。そして亜美の腰をそっとつかむ。

「ここ、さわっても?」

「どうぞどうぞ、もっとぎゅっと、抱きしめてくれていいですよ。落ちると危ないので」

 そういうと、彼女はころころと鈴が鳴るように笑った。

「こんなの、娘時代以来だわ」

「進みますね」

 自転車をゆっくりと発進させる。ぎしぎしと、金具が擦れ合う音が響いた。潮風を遠慮無く受けた自転車はすぐに錆びる音を立てる。しかし、壊れることはない。

 ようやく出て来た日差しが、黄色い地面に薄く影を伸ばした。

 この古い乗り物は、ハイテクの乗り物よりずっといい。単純で、わかりやすくて、使いやすい。

 今、この島にはそんなものだけが残っている。

「ここまで来るのに、東京から4時間かかっちゃった」

 風を受けながら、斉藤はつぶやく。

 二人の目の前に広がるのは、ところどころ生き残った農地と、崩れた建物だ。

 真っ白な道の左右には緑の雑草が、古いアスファルトを突き破って伸びている。

 古い電柱は傾きながらも天に向かって真っ直ぐ手を伸ばす。蔦のような植物が電柱を巻き取るように伸び、蔦の上に小さな鳥が止まっている。

 その向こうに見える空は悲しいくらい真っ青で、白い雲が浮かんでいる。

 彼女は、そういう風景を見るたびに、悲しそうに亜美の腰を強く握り締めた。

「ここ、交通アクセスが悪いですもんね。まず近くの島まで飛行機で、そのあとは船だし……港から中心街までも、ちょっと距離があるし……」

「この町には、今、何人くらいが暮らしてるのかしら」

「50人もいないんじゃないでしょうか……引きこもってる人もいるので、全員とまだ挨拶はできてないんですけど。でも昔からこの島で暮らしてた人は、居ないみたいです。皆、ここ数年で越してきた人ばっかり」

 非適合だった人、宇宙移住の反対者。何かの事情で宇宙に行けない人。

 そんな人々を、政府はできるだけ一つの場所に集めようとした。

 工事や配給の問題もあるのだろう。ここ、海側町もそんな地域の一つだ。

 国内の色んな所で暮らして居た人達が、今はまるで家族みたいに一つの島で暮らしている。

「そう……昔は何百人も居たのだけど、皆、宇宙に行っちゃったのかしら」

 亜美は周囲を見渡す。

 遠くに低い山がある。

 青空があって、乾いた田圃の向こうには原生林みたいな森もある。

「あの森……中にね神社があるの。かわいい狛狐がいたような……」

「今もありますよ。名前も知らない神社ですけど、皆で定期的に掃除してるのできれいです。夏祭りなんかも、するみたいで」

「じゃあ、その向こうの山をこえたところは……」

 山の向こうには、海が広がっている。

「ええ、きれいな海です」

 そう言うと、斉藤は小さく息をはく。

 島は一周で40キロほどあるが、森と山が浸食しているせいで人が住める場所は中心街だけだ。

 昔は整備されて美しい田舎町だった……と亜美は記憶している。

 しかし、人々が宇宙を目指し始めた頃から、島から人が消えた。皆がこぞって都会に出て適合の検査を受け始めたのだ。

 受かった人はそのまま都会に残り、移住の順番を待つ。落ちた人々もまた、適合手術を受けるために都会に移り住む。都会に出た人たちは、もう帰ってこない。

 斉藤は、ふう。と小さな溜息をついた。

「適合手術なんて嘘ばっかりって聞くわ。事故も多いし、手術をしても検査に落ちるって……」

「怪しい商法が一気にはやった、って聞きました」

「そうよ……適合手術、サプリメント、違法な商売……」

 彼女は風ではためく裾を上品に押さえながら悲しそうにつぶやく。

「私の友達も、適合手術で失敗して、命は助かったけれどもう二度と口をきくことができないの」

 適合検査に落ちた人々は、狂ったように悲しんだ。怒った。

 それにつけ込んだ人々が、怪しい薬や手術を売り出した、と聞く。

 しかし海側町は、忘れられた土地だ。悲しみは、ここまで聞こえてこない。

 斉藤はしばらく口を閉ざしていたが、やがて亜美を気遣うように優しい声音となった。

「島に……配給はきちんとくるの?」

「ええ。週に一回、きちんと届きます。飢えて困るってことはないですよ。井戸はもう涸れたので、水はもう出ませんけど……雨水を再生する機械を今、実験的に動かしてます。そうじゃなくても、飲料水と塩と簡単な食事はチケットがなくても全員に配給されますし。チケットを使うのはほんとう、贅沢品くらいなもので。案外、のんびり暮らしてます」

 忘れられた土地でも、死ぬことはない。それは配給チケットと呼ばれる、チケットのおかげだ。

 地球に残らざるを得なかった人々には月に一回チケットが配られる。もちろん最小限なので、残りは働いて手に入れるか、物々交換になるのだが。

 週に一度、島には食べ物や水が届けられる。

 そこでチケットを使って、食べ物と交換する。

 どこかへ食べに行くときも、お金の代わりに使うのはチケットだ。

 もう、この地区では金銭というものは何の意味も持たない。

 こんなチケット制度、ひどい混乱になる。と最初はひどく危惧されたらしい。実際、ひどい混乱となった場所もあると聞く。

 しかしこの島は平和そのもので、案外このシステムがうまく動いていた。

「そう、都会で聞く……田舎の噂はその……ひどいものだから」

 斉藤は言いにくそうに呟いて俯く。声が悲しそうに籠もった。

「……田舎では人が争ってチケットを奪い合って、子どもや年寄りが飢えている……ですか?」

 亜美は笑って、重い空気をかき混ぜた。

「私も聞きましたよ。私、東京からのドロップアウト組なので」

 亜美の呑気な言葉を聞いて、斉藤の手が震える。

 今の時代、東京から田舎に越す若者はほとんどいない。田舎に戻る人は、適合検査で落ちた人間か、さもなくば変わり者か犯罪者、そして事情持ち。

「……そう」

「田舎も実際は平和なものです。噂なんて当てになりませんね、この島が特別なのかもしれませんけど」

 斉藤は口を閉ざす。目の前の風景を食い入るように見つめていた。

 先ほどまで何もない一本道だったが、角を曲がればまた住宅街に飛び出した。

 住宅街と言っても、今ではほとんど誰も住んではいない。崩れた壁には蔦が這い、庭の大木は屋根を突き破っている。

 ただ所々、電気が付いている家もある。窓に配給品の洗剤の影が映り、人の気配が横切ることもあった。

 それを見るたびに、斉藤は切なそうに瞼を震わせるのだ。

 時折、斉藤のような人が、この島に足を運ぶことがあった。 

 島を捨てて、都会に出た人々だ。

 最後に……この星を離れる前に、彼ら、彼女らは、故郷に足を運んで風景を目に焼き付けていく。そのための「見学者」はあとを絶たない。

「都会では、まだ移住待ちをされてる人が多いんですか?」

「ええ。でも以前よりは回転も早くなってきたわ。適合検査の列も短くなったし」

 彼女は言葉を止める。そして言いにくそうに、つぶやいた。

「私ね、移住が決まったの。遠い……どこだったかしら、綺麗な星らしいけれど。もう整備されて長い星だから、住みやすいんですって。娘夫婦と、孫も一緒よ」

「良かったですね」

 明るく声をかけると、彼女はほっとしたように顔を上げる。

「そう思う?」

 気遣うように声が震えるのは、亜美に遠慮しているせいだろう。

「ええ。みなさん一緒に移住できるのは、一番幸せなことですよ」

「……でもねえ。いざとなると、故郷のことばっかり浮かぶの」

 斉藤が肩をたたいたので、亜美は自転車を止める。

「ここにね、学校があったの。小学校と中学校が一緒になった……あなたもきっと、見たことがあるわよね。私も妹も、兄も通った学校よ。その横に、私の家があったの。父と祖母とその前の……ずっと古くからあるおうち」

 彼女が指した場所は、何もない。広い広い平地だ。

 崩れた廃材と、その隣にかつての講堂と思われる崩れかけた建物だけが残されている。

 そして、道の端には大きな木が一本だけ。

 彼女がかつての自分の家だ。と言った場所にももう、何もない。

 亜美は自転車を乗り捨てて、地面に足を降ろす。目を閉じれば、小さな子どもの声が聞こえるようだった。

 中学校の頃、亜美はこの島に越してきた。

 ここにあった背の低い門をくぐった時のことを、亜美は今でも覚えていた。

 多くの子どもの声と大人の声、綺麗なチャイムの音に、綺麗な建物。

 ……亜美ちゃん、と名を呼ぶ、懐かしい声。

 亜美は残された木をそっと撫でる。大きな木だった。暖かくなれば、葉が恐ろしいほどに茂る。

 この木の下から見える学校の校舎や街の風景を、亜美はいまだに覚えている。

「ありました。私も、一年だけ、通ってたから」

「……あったのよ」

 彼女の声が少しだけ、湿り気をもっていた。

「あの、斉藤さん。こっち」

 亜美は堪えきれないように、彼女の冷たい手を引く。亜美が彼女を導いたのは、崩れた講堂の裏だ。

 木と雑草が生い茂るその中に、まるで冗談のように青い固まりが、鎮座している。

 それは雨よけの青いシートをかけられた、巨大なピアノなのだ。

 斉藤の目が大きく見開かれた。

「……ピアノ!? 本物の?」

「もう潮風にやられて、音なんてカスカスです。でも木の根っこがピアノの足下に絡みついてて、引っこ抜くのも可哀想なので、このままに」

 亜美は笑いながらピアノの前に置かれた椅子に腰を下ろす。

 塩で白く傷ついたピアノの足には、木の根や雑草がしっかりと絡んでいる。もうまもなくで、風景と一体化してしまいそうなピアノである。

「ほら、本物のピアノですよ」

 上にかけてあったビニールシートを取り払うと、黒い巨体が顔をみせる。亜美は優しく鍵盤の蓋を開ける。すっかり黄色く色が変わっているが、ピアノとしての形は整っている。

「調律は時々してるから、音だけはとれますよ。なにかお弾きしましょうか」

「まさか、あなた弾けるの?……こんな……古い、楽器を」

「ほんの少し」

 斉藤は少し戸惑うように胸を押さえていたが、やがて小さな声で何かを歌いはじめる。

 最初はたどたどしく、ゆっくりと、噛みながら。

 それでもそれは何度も繰り返す内にひとつの旋律になる。繰り返される音に耳を傾けながら、亜美はゆっくりとピアノに指を乗せる。

 音は、亜美の中に染みこんでいく。それは五線譜になり、頭に広がり、カスカスの鍵盤がカスカスの音を奏でる。

 しかしそれは、確かに一つの音楽となる。斉藤の歌声とピアノの音は混じり合い、広がり、何もないその場所に確かに合唱が聞こえた。

 多くの子ども達が奏でる合唱が、確かに聞こえた。

「校歌なの」

 歌い終えた斉藤が顔を手で覆って、笑う。

「私も、弾きながら思い出しました。懐かしいです」

「卒業してもう何十年も経つのに、まだ歌えるなんて。こんなに離れていたのに、びっくり」

 彼女の手の隙間から涙が零れてピアノに散る。 

 それは先ほどの湿り気とは違って、幸せな涙の音だった。



「近くに喫茶店があるんですけど、珈琲でも飲んでいきませんか」

 亜美は斉藤を最初の場所まで運んでゆっくりと下ろす。そして声をかけた。

「美味しいですよ。豆なんか自分で炒ってるんです。お迎えの車までもし時間があれば、よければ」

 斉藤は里内町の中心に向かって歩いていく。そこに迎えの車が来るのだ。

 こんな風に、故郷を巡るツアーというものがある。故郷へ「見学」に戻る人々を車にまとめて各地に下ろし、また数時間後に回収。そして都会に戻るツアーだ。

 車には運転手はおらず、だからこそ時間通りに迎えにくるのだそうだ。

 斉藤は名残惜しそうに目を細める。

「せっかくだけど、もう時間が無くて」

「残念」

 亜美は本心から、心をこめて言う。

「私も……あら。この石碑、はじめてみたわ」

 斉藤は足の疲れを取るように、近くの壁に手を突く。と、その下に比較的小綺麗な石碑を見つけて目を丸める。

 それは、ちょうど幅15センチ、高さ1メートルくらいの灰色の石碑だ。

 雨に濡れて少し色は濃くなっているものの、くっきりとした文字が刻まれている。

 それを読んで、斉藤は頷く。

「ああ、クリタプロジェクトの……」

 クリタとは、宇宙で素材を見つけた宇宙飛行士のことである。

 彼は宇宙での作戦遂行中、とある素材を発見した。

 その後、宇宙服の不具合に見舞われた彼は、素材を手放して単身で船に戻るか、それとも素材だけを船に運ぶかの選択を迫られる。

「宇宙飛行士の……ああ、そうだった。この島のご出身だったわねえ。直接お話をしたことはないのだけど……小さな頃から随分賢くって、確か大学は海外に行かれたんじゃないかしら?」

 ……その賢い彼は、大学を出て宇宙飛行士になり、夢だった宇宙に飛び出し素材を発見し……そして、素材だけを、船に返した。

 仲間によると、彼は黒い空間へ静かに落ちてやがて消えていったそうだ。今も、彼の体は宇宙のどこかにある。

 それは、多くの人々が船に乗って宇宙を行き来する今も変わらない。彼だけは船に乗ることもできず、どこかで漂っている。

「今から思えば、この人もかわいそうな人。宇宙船が飛び交うあんな場所で、一人放流しているなんて」 

 斉藤は石碑をそっと撫でた。

 クリタ宇宙飛行士は戻ることはできなかったが、功績は大きい。その功績をたたえて、虚しい石碑がこの島に立てられたのは10年前のことだったらしい。

 彼が宇宙に消えて、10年もたってからのことである。

「……やっと、戻ってこられたのね」

 斉藤は羨ましがるような、そんな口調で優しく呟いた。

「有難う、亜美さん。もう少し、ゆっくりしたかったのだけど」

 斉藤は目尻を指で拭って立ち上がる。都会では人前に立つ仕事をしていたのかもしれない。背が自然に伸びる、立ち姿の綺麗な人だった。

「私も……もっと、この町のこと、聞きたかったです」

「お会い出来て良かったわ。もう……」

 彼女はまた、言葉に詰まる。

 しかし、彼女が言い掛けた言葉を亜美は自然に察した。

(二度と会う事は無いけど)

 ここに来る人たちはみな、そう心の中で思って去っていく。そして本当に、二度と会うことはない。

「亜美さんは、結婚をしていらっしゃるの?」

 彼女は亜美の左手の薬指に目線を落として、ほほえむ。そこには、シンプルな銀の輪っかがはまっている。

 が、亜美は明るく首を振った。

「夫は……今は、いないんです」

「……ごめんなさいね」

「あの……気にしないでください……っていったら変だけど、でも私ももう、吹っ切れてるので」

 あわてて謝る彼女を制して、亜美は大きく腕を広げる。

 冷たいが、心地のいい風が吹いていた。

「……元々この場所は、夫の故郷でもあるんです」

 亜美の周囲に広がる風景は、亜美自身にとって懐かしいものではない。

 そこにあるのは、亜美の記憶になじみのない風景だ。

 子どもの頃、この島で暮らしたのはたった1年。

 その後に続く東京の記憶にその1年の暮らしは塗りつぶされて、今はふんわりとした思い出しか残っていない。

「だから、戻ってきたんです。東京以外のところに、いきたくって」

 元々、ここは亜美の夫の……かつての夫の、故郷なのだ。

 数年前、亜美は結婚の報告にここを訪れた。

 たった数年だというのに、その頃と島の風景は随分変わった。もう少しだけ人が多かったはずだ。廃墟ももう少し少なかった。

 あのときは、優しい義母が迎えてくれた。もう亡くなっている義父の墓に報告をして、おいしい海の幸を食べ、珍しくお酒なんて飲んで酔ってしまって、翌日は夫の入れてくれたおいしいコーヒーで目を覚ました。

 ……数年前が、亜美にとっては遙か昔に感じられる。義母は二年前に亡くなり、思い出は一つ途絶えた。

「世界は凄く大変ですけど、でもおかげで……夫が大好きだった故郷に帰ってくることができました」

 微笑むと、斉藤も釣られて笑う。

「あなたの……声、すごく素敵ね。引き込まれるみたい。もっと話をしたかったわ」

 斉藤の皺の寄った手が、亜美の手を撫でた。

「有難うございます。そんなふうに言ってくれるの、二人目です」

「あら?」

「夫です。斉藤さんが二人目」

 斉藤の手がきゅっと、亜美の指を掴む。

 柔らかい、手だった。

「……行かなきゃ」

 彼女を迎えにきたと思われる大きな車が、道の向こうにみえた。

 自動運転らしく、ぶれもなくまっすぐに無感動に向かってくる。

 亜美は数歩、道から退いた。

 斉藤のちょうど目の前で、車は止まり音もなく扉が開く。

「ありがとう。少しの時間だったけど楽しかったわ。ねえ。あなたは、ここで」

 車に乗り込みながら、斉藤は目を潤ませて亜美をみた。 

「もしかして最後まで……?」

「ええ。最期まで、過ごす予定です」

 しかし、扉は遠慮なく閉まり、亜美の言葉は冷たい鉄に跳ね返る。

 もう、斉藤の顔を見ることもできない。車は情緒もなく走り出す。

 ガソリンの煙も吐き出さない巨大な車を見送って、亜美は大きく伸びをする。

 顔を上げれば、そこにはもう夕暮れの色。

 赤く染まる空の中に、かすかに見える星の数々が亜美を見つめている。

 あの星に、どれだけの人たちが暮らしているのか。

 どんな暮らしをしているのか。

 それを聞くことができるのは、きっと百年もあとのことだ。

(さあ、おうちにかえろう。そして明日朝起きて、またおいしいモーニングを食べて、悟郎さんの顔を見て)

 亜美のこれからの生きる日々は、毎日寝て起きてモーニングを食べて仕事する。それだけだ。

 そして、それだけが、ひどく「幸福なこと」に思えるのだ。

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