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アーシュの話は、神也には驚き以外の何ものでもなかった。
おかげでせっかくの夕餉を前にしても、中々喉に通らない。
隣に座すエノクが、食の進まない神也を伺い「どうかしたのか?」と、聞くが、何とも答えようもなく。
「神也は、今日初めての事だらけで、ちょっぴり疲れてしまったのだよ」と、お茶を配るルシファーが助け舟。神也も素直に同意する。
「エノク、心配かけて悪かった。明日はまた元気に頑張るつもりだ」
「うん、明日は果樹園を案内するよ。取り入れの仕事はキツイけど、もぎたてのフルーツを好きなだけ食えるから、得した気分になれるぜ」
「こら、エノク、取り入れた果実は食卓に並んでから、食すもので、勝手に食べたらいけません」
「すいません、ルシファー先生…」と、しょぼくれるエノクに、
「でも、ひとつふたつなら、ね。何しろ果実は取り立てが一番美味しい。…特に水蜜桃はね」と、ルシファーは、小声でウィンクをひとつ返し。エノクの顔に花が咲く。
それを見た神也もつられるように、やっと頬を弛めた。
部屋に戻り、寝衣に着替え、ベッドから窓の外を覗く。
紺青の夜天に、大小の二つの月、そして星々がさんざめく。
数え切れない煌きに、神也はいつしか、見たことも無い両親を思い描く…。
アーシュに言われるまでは、両親の事など、真面目に考えたことも無かった事だ。考えても顔も名前も存在すら知らない神也に、想像する余地は無い。
だが、アーシュは、はっきりと…
「おかーさん…私を産んで喜んでくれたんだ…。なんだか…不思議…。なんだか…」
様々な想いが胸一杯に満ち、締めつけ、溢れ出し、身体が震える。瞼が熱くなる。
「泣くなんて…変だ。悲しいわけでもないのに…」
理解できない感情が、口唇を震わせ、神也はとうとう泣き出した。
一旦堰を切った涙は止むことを知らず。
「…神也。大丈夫かい?」
いつの間にかすぐ傍で、背中を撫でながら、優しい声を掛けてくれるルシファーが居た。
「ルシファー…。なんか、なんかね、涙が止まらないんだ。おかーさんやおとーさんの事…聞けて嬉しかったけど、ね…もう、逢えないから…。一度くらい、逢いたかった…って…」
「うん、わかるよ、神也。今は…泣いていいんだ。スバルの代わりにもアーシュの代わりにもなれないけれど、今晩は僕が傍に居るからね。存分泣けばいいよ」
神也はルシファーにしがみつき、声を上げて泣いた。
「おかーさん」「おとーさん」と何度も声に出し。
思う存分泣いた後、心が軽くなった。
「ルシファーは心配して、来てくれたんだね。ありがとう。私はいつも皆に迷惑を掛けてばかりだ」
「迷惑だとは思っていないさ。皆、神也が好きだから、神也の為に役に立てるのが、嬉しいのだと思うよ。神也には人徳があるのだろうね。私も最初は少し不安もあったりしたけれど、君を知っていく度に、アーシュの見立ては正しいと思うんだ」
「『天の王』の後継者の事?まだまだ皆が期待できる者には遠いのだろうけれど。…時々思うのだ。何故、アーシュが無力な私を選んだのかを。多分、無力だからこそなのだろうな。何もないことが私の強みなのかもしれない」
「神也は…無力じゃないさ。それだけは私にもわかる」
「そう?」
「そうだよ」
ブルっと震わす神也の肩に、ルシファーは自分の肩掛けを被せた。
「でもね…でもなんか変よね。アーシュは不死なのだから、別段後継者選びを急ぐ必要はないと思うのだ。そのうち私より相応しい力を持った者が現れるかも知れないだろ?もし、私が後を継ぐとしても、私が大人になるまで、待ってから決めても、充分間に合うのではないのかな」
「そう…だね」
「何か急ぐ理由が、アーシュにはあるんじゃないかと、私は思うのだ。ルシファーはどう思う?」
「…」
アーシュの後継者の選択について、ルシファーは詳しい話を聞いてはいない。
ルシファーは、自分をクナーアンの人間だと思っている。だから、あちらに居る時は、あちらの世界の決め事に倣おうと心掛けている。
もし、アーシュが「天の王」の学長を神也に譲り、このクナーアンに還る時が来たら、自身もあちらに居る理由はないだろう、と、思っている。
だから、いつその日が来ようとも、ルシファーは選択する道を知っている。だが、その日が何時なのか、その理由が何なのかまでは、判らない。
「スバルは知ってる気がするけど、ああ見えて、口は堅いからなあ…。きっと本当の事は言わないだろう」
「スバルが?…アーシュが学長を辞める理由を知ってるって?」
ルシファーは少し驚いて、神也の顔を覗き見た。
「わからないけれど、そんな気がする。レイもね…。多分アーシュは、その日が来ても大丈夫なように、準備をしているんじゃないかな」
「…」
「ルシファー?」
ルシファーを見上げる神也の瞳が、カンテラの灯を反射し、赤く光っている。
恐れを知らぬ真っ直ぐな瞳と魂。
今のルシファーには、慈しみの感情しか沸いてこない。
ルシファーはふうと息を吐いた。
「まあ、先の見えない未来をあれこれ言っても仕方ない」
ルシファーは自身に言い聞かせるように呟いた。
「さあ、もうお休み、神也。今日は色んなことがあって疲れただろう」
「うん。一杯泣いたからすぐに眠れそう。ありがとう、ルシファー。おやすみなさい」
「おやすみ、神也」
ベッドに潜り混んだ神也の毛布を直し、カンテラを手にルシファーは静かに部屋から出ていく。
アーシュ…スバルにもレイにも話して、僕には何も言ってくれないっていうのか?あんまりじゃないか!そりゃ「天の王」の未来なんか、僕には関わり様はないけれどさ、それでも、一番の親友の僕が、君の秘密を共有できないなんて…。プライドが傷つくな。
「…君が僕の事を思って、喋らないんだろうけれどさ…。ちょっぴり腹立たしくて、情けなくて、寂しいよ、バカアーシュ」と、独り愚痴る。
帰り道の欄干で、夜天を見上げ、そろそろ『天の王』に着く頃だと、アーシュの無事を祈らずにいられない我が身の性分を笑った。
でも、きっとアーシュはこんな僕を「大好きだ」と、返してくれるんだ…。
だから僕はいつまでも、君に囚われ人なのさ。
不幸だとは思わない。惨めだとも思わないよ。
愛する豊かさを、今の僕は知っているからね。
どうか、君の想いのままに時が流れますように。
どうか、御無事で戻られますように…。
神也のクナーアンでの日々が、恙なく過ぎていく。
早朝の神殿の掃除から始まり、朝食後の従事は、田畑と果樹園の体力仕事が主で、陽が傾き出すと、それぞれに自分のやりたいように過ごす。
エノクは夕食の足しになると、近くの川で魚釣りをするのが日課だ。神也も誘われて試してはみたが、どうも魚釣りの才能はないらしく、エノクに邪魔になるだけだと、追い出されてしまった。
クナーアンの本を読む為にと、学校の授業を受け、ルシファーの指導もあって、ある程度のスクリプトを学んだ神也は、クナーアンの本を読みたいと、ヨキに強請った。
ヨキは「学校の図書室も良いけれど、神也には少し面白い場所を教えてあげましょうかね」
「ホント?」
「特別ですよ」と、神也を奥の院へ案内してくれた。
奥の院はイールとアーシュの寝所だけでなく、彼らが使用する様々な部屋がある。
そのひとつが、図書室。昔は、二神が家庭教師と共に学んだ部屋でもある。
八角形のさほど広くない部屋で、天上はドーム形、天辺からハーラル系の惑星の模型のペンダントランプが、吊り下げられ、それぞれ八つの壁面に書棚とすりガラス窓が交互に並んでいる。
「ここの書物はアスタロト様が、色々な星々から持ち込まれた物が多いのです。多分、アースの本もあったと思います。え~と…ああ、これだ」
ヨキは棚から薄い本をひとつ取り出し、神也に差し出した。
「ああ、これはサマシティでも使われている言語で書かれている」
「それから、これも」
「あれ?これ…私の国…ニッポンの本だ」
「ひとつの星で色々な言語があるのは、私達には理解できませんけど、そちらの惑星では、場所ごとに言葉も違うと聞いて、驚いた事がありますからね」
「うん。面倒だけど、自分の国の言葉は、皆特別な想いがあるのだと思う。…ああ、これは、昔語りの本だ。所謂御伽話だな」
「神也の国の御伽話か…。面白そうだな」
「今度、ヨキにも聞かせてあげる」
「楽しみにしてます。では、夕食までゆっくりと、お過ごしを」
「うん、ありがとう」
中央のテーブルにランプがある。
紐を引くと灯りが点いた。
他とは違い、二神の住む場所では電気が使える。発電所がどこなのか、神也には分からないが、勿体無いと思い、すぐに消した。
小さなテーブルを窓の下まで運び、手に取った本を開く。
「昔、我が朝のことなるに、天地開けし此の方は、神国と言いながら…。へえ、なんかスバルに聞いた話と違うな」
神也は文字を追いながら、声に出し、そして、面白さに笑った。
聞き知らぬ自身の故郷の草紙を、見知らぬ惑星の片隅で読む、摩訶不思議さよ。