13
13、
朝の務めが一段落すると、ヨキはイールの部屋にお茶を運ぶ。今日のお茶はイールの好きな薄荷茶だ。
イールは薄荷の香りを嗅ぎながら、ヨキに言う。
「ヨキ、悪いが、沐浴の用意を頼むよ。勿論、急ぎの用事が終わってからで良いのだけど」
「大丈夫です。すぐにご用意いたします」
「それから…午後からヴィッラに行くから、今日は戻らないつもり」と、瞳を少しだけ伏せた。
「はい、承知いたしました」と、ヨキもすぐに理解する。
アーシュ様がいらっしゃるのだな。
今朝、伺った時から少し浮かれた感じがしたのは、あながち間違いではないらしい…
ヨキは心が弾んだ。
昔話とはいえ、アーシュが居ない頃、見てはいられぬ程、哀れに憔悴していたイールを思えば、今のイールはなんと穏やかに幸福に満ち足りた姿なのだろう。
恋人を想い昂揚するイールは、ヨキをこの上もなく満足させる。
なにより、イールはアスタロトと一緒の頃よりも、すべてにおいて随分と若返った様子に見える。
千年の長きを生きてきたイールさえも、生まれ変わった新しいアーシュの行動や言動に引きずられているらしい。
アーシュ様を心から愛しておいでになるのだなあ…。
アスタロトに仕えていたヨキは、アスタロト以上の主の存在を認める気は無かったが、新しいアーシュは、こちらが構えるにはすべてが想定外で、それ以上に自身が魅力的で、存外何の憂慮もなく、ストンと認めてしまう事ができてしまった。そのあまりの拘りの無さに、自分で驚くほどに。
アーシュ様は良い。あの明るさと剛毅さ。それに妙に人間臭いところも。あの気質が、今のクナーアンに必要不可欠だったのだろう。
おふたりが未来永劫幸せに過ごしていかれる事を、祈らずにはいられない…
ヨキはまだ知らない。
イールとアーシュのふたりの神が、間もなくこのクナーアンから消え去る運命である事を。
沐浴を終え、神殿からは遠く離れたヴィッラで、還る恋人を今かと待つ。
灰桜色のリネンの生地にマナの花文様をあしらった更紗は、新しく拵えた衣着。
滅多にしないことだが、特別に注文した。揃いのデザインでアーシュの分も勿論だ。
部屋はちゃんと綺麗に、だとか、シーツは新しいものに替えた、とか、服はこれで良いだろうか…など、アスタロトが居た頃には無かった浮かれように、イールは自分自身に呆れてしまう事がある。
あの子の存在が、私の中でこんなに大きく育ってしまうとは…思いもよらなかった。
きっと消えてしまったアスタロトは、私を嗤っているだろうな。
…不思議だ。
愛する想いは同じ分重く深いと感じるのに、どうしてアーシュへの愛は、こんなにも浮かれてしまうのだろうか…
遠い昔…初めてアスタロトと出会った頃のようにときめき、この先の思いもよらぬ波乱をも、楽しもうとしている。
永遠の命を倦む意味が無くなったから?
そう、命に限りがあると知ったからなのだろう。
限りある日々を、時間を、アーシュと共に生きる幸福に、私は酔っているのだ。
アスタロトが望んだことを、アーシュと共に現実にすることができる。
私はなんと幸いな者なのだろうか…
「死」は、私達をハーラルの元へ送る道標。
そして再びハーラルによって、生み出される新しい命にさえ、私はこの喜びを伝えたやりたい気分だ。
窓の先、庭の中央に立つマナの木が目に入った。
アーシュの為にマナの実を捥いでやろう。
抱き合う為の儀式のようなものだが、アーシュはマナを食べると大胆になる。
そうさせているのはイール自身。アーシュの乱れる姿を眺めるのは、イールの特権だから。
手に届く枝に生るマナを捥いでいると、木の上から銀色の光が輝き出した。
慌てて籠を地面に置き、両手を広げた。
同時に木の枝と葉を散らしながら、アーシュがイールの元へと落ちてくる。
「ぎゃーっ!」
「ア、アーシュ!」
何とか受け止めはしたが、アーシュの頭にも身体にも枝と葉が引っ掛かっている。
「なんという場所に落ちてくるのだ!還る場所ぐらい少しは考えろ!」
「だって、イールの居るところって念じてたら、マナの木の上だったんだもの。こんなところに居るイールにも責任があると思ってくれよ」
そう言って、袖に引っかかった枝を取りながらウインクをするアーシュに、イールは呆れた顔で、でも嬉しさを隠せず、優しく頭の葉を払ってやる。
アーシュは子犬の様に従順なフリでイールを見上げた。
「…あれ、イール、それって新しい衣だろ?ああ、淡い色がイールに似合って、良いね」
「そう?」
裏の無い言葉は、こそばゆい限りだが、イールは口元が緩むのを止められず、かと言って気づかれるのも少しだけ癪だったから、アーシュの頭を抱き寄せ、見られぬ様にした。
「ふふ…、やっぱりイールの匂いは愛おしい。寂しい時は思い出すだけじゃたまらないからね。桜の香水を枕に付けて眠るんだ」
「私だって…。薄荷茶を飲むたびに、おまえの吐息を思い出すよ」
「ホント?」
「本当だ。おまえはいつも私を置いて行ってしまうから、寂しいのは当然だろう」
「それを言われると言葉がないけどさ。会えない時間が愛を育てるって言うし」
「勝手な解釈はいらない。今更…ね、愛する者が傍に居ない寂しさを、おまえに理解してもらおうとも思わないさ。おまえはどこに居ようと、愛する者に囲まれて幸せだろうから」
「あれ?嫉妬?うれしいな。でも、俺はイールを選んでいるから安心して」
「わかっている。だから許しているだろう?おまえが何をしても、私はおまえに結ばれている」
「イール…。ねえ、早く、したい。もう、ここでする?」
「いや、寝室に行こうよ。おまえの好きなマナもあるし」
「でも、今は要らないや。もう充分に、俺はイールに酔っぱらって、後は君に身を任すだけだもの」
イールはその両手で軽々とアーシュを抱き上げた。アーシュも嬉しそうにイールの首に両手を巻きつけ、口づけを請う。
繰り返される愛の行為をふたりは飽きもせず、求め合い、深く深く、情感の赴くままに身を一つに…
「ね、神也はどうだった?」
イールの腕枕に凭れながら、裸のアーシュはマナを齧りながら尋ねる。
「そうね。まあ、…楽しかったさ。君の言う通り、神也は後継者に相応しい人格だと思うよ」
イールは他人が居る時は、一応クナーアンの神であるアーシュに対して、「君」と呼びかけるように心がけているが、ふたりきりの時は「おまえ」と呼ぶ。ただし、愛の語らい以外では、気づかずにかしこまるらしい。
そもそもふたりきりで愛し合っている時ぐらいは、他の事など考えて欲しくないと思うのが、イールの本音。
「だろ?神也は良い子なんだよなあ~。なんつうかのほほんとしているようで、しっかり芯があってさ。先導者としての能力もあるし」
しかし、恋人は相手への気遣いは少なく、単純で、それもまたイールを呆れさせつつ、面白がらせるのだ。
イールは身体を起こし、アーシュの話に付き合った。
「でも、神也に君のような能力は無い。それにあの子が大人になるその時には、私達は…いないはずだ」
「まあね、多分そうなるだろうけれど…。まあ、色々と神也の守護者を育成中って事で、そちらの方は準備を整えているんだけどね…」
「どうした?」
「ベルの子供が生まれるんだ。俺に名付け親になって欲しいってさ」
「…」
「素直にね、嬉しいよ。大好きなベルの子供が、俺達の望みを叶えるのだから」
「アーシュ…」
「俺はうまくやるつもりだ。何もかも…。だから、イール、どうか許してやって欲しい、すべてを」
「わかってる。わかっているさ。アーシュが望む未来は、私も望む未来だからね」
恐ろしくは無い。
ただ、寂しいだけ。
こうやって、君を見つめ、君の肌を感じ、抱き合えない事を思うと、寂しさに辛くなるだけ。
「運命が俺とイールを結びつけた。終わる時は、俺とイールが決めたんだから、後悔はさせない」
「わかって、いる」
その強さが愛おしい。
愛おしさに胸が詰まる。
永遠など求めてはいない。
ただあと少し、あと少し…と、願わずにはいられないのだ。