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イールの日々の主な仕事は神事や祭祀で、それ以外は自由。何をしても、何処に居ても、何もしなくても誰も口を挟む者は居ない。
愛しいアーシュが居れば、他に望むまいと思うものの、結構な割合で単身出張のアーシュの居ない時をひとり過ごす日々は寂しく。
クナーアンの神様だから、住人たちの生活をリサーチするのも仕事のひとつではあるが、いちいち気に掛けてやる性分でもない。
アーシュもイールも悟りを知る者ではなく、クナーアンを好き勝手にしてよい者達なのだ。
だから気にかかるものが居たら、贔屓にするし、許せない者が居たら、容赦なく痛めつける。
ただアスタロトと居た頃のイールは、彼に比べたら人々の前に現われる機会が少なかった為か、アスタロトのように人間の諍いや揉め事に関わりあうのを避けたい性分。
雲の上に浮かぶヴィッラでひとり過ごす時間が多くなる。
だが、神也が神殿に来てからは、アーシュに頼まれた所為もあり、神殿で過ごす日々が多く、暇を見つけては神也が入り浸る図書室にそっと忍び込み、神也の臨時講師となる。
好奇心旺盛な神也は、大喜び。これ幸いとありとあらゆる疑問をイールに問う。
イールに答えられぬものは無く、彼は少年の為に、わかりやすく教え。
目を輝かし、素直に応え、機知に富み、臆することない神也はイールにとって新鮮だ。
クナーアンの住民はすべからく、クナーアンの神に傅く魂を持って生まれてきた者達だ。善人であろうと悪人であろうと、イールとアスタロトへの従属は植えつけられたもの。
彼らの二神への信仰は、生きる為の糧、至高の宝、救いの道標そのもの。だからこそ、クナーアンはイールとアスタロトの為の惑星なのだ。
だが、神也はクナーアンの者ではなく、何事にも囚われる事も無くイールと接している。
彼のイールへの敬意、信頼、友情は、イールの心を優しくさせる。
信仰心の無い温かな感情が、心地良いのだ。
神也は無口なように見えて、意外とお喋りだ。特に「山の神」であった頃の話をイールに聞かせたがる。
「こうやって気兼ねなく『山の神』であった頃の話ができるのが、ちょっぴり嬉しいのだ」
「何故?」
「う…ん。私がレイやスバルに話し出すと、なんだかねえ…。困った顔をするのだ。私を心配しての事なのはわかっている。私が『山の神』の役目を終えた時に、それまで守り役だった者達から殺されかけたから…。それを思い出させるのが可哀想だと思ってくれるのだ。でも、でもね、私は可哀想でもなんでもない。殺されかけたとはいえ、私はこうやって元気で生きてるし、『山の神』として生きた十二年間は、私の大切な思い出なのだ。どれもこれも思い出しては、懐かしさで一杯になる。そりゃ、埋められた時は怖かったけれど…。時々思う。柩の中で死んだと思っている巫女や世話人たちが…私を…死んでないのに死んだと思って悔やんでいないだろうか、とか、何年かたって柩を開けた時、私の死骸が無かったら、どんな想いをさせてしまうだろうかとか…そちらの方がちょっと心配。私は元気に生きていると伝えたいなあ。あ、でもそうなるとあの村のしきたりが破られることになるから、私は生きてちゃ駄目なのか…」
「彼らには…おまえの事は過去の思い出になっているだろうと、私は思うよ。人間は良い思い出だけを記憶したがる。そして都合の悪いところは忘れる。それが人間の良いところ。きっと神也が立派な『山の神』であった事だけが残るだろう」
「…私は良い神ではなかった。イールやアーシュみたいに何かの力があるわけでもない。村が嵐で家々が壊れた時も、雨続きで作物が取れなかった時も、病気の人々の祈りも、僅かな願いさえも、私は何も叶えることはできなかったんだ。でも村人は一心に祈り続けた。…多分、私が居てもいなくても彼らは、あの社に祈り続けたのだろう。そうなると私の存在は一体なんだったんだろうなあ…」
「おまえは『山の神』だったのだよ。人々の祈りを聞く。それがおまえの役目だったのだ。おまえが居たから救われた者も居る。それが事実だ」
「そうかな」
「おまえは何もしなかったというが、昔ね、アスタロトも同じことを言った。民が望むのは、神がそこに居るというという事だと。それだけで十分だと…」
「何もしなくても?」
「私は些か異論があったが、案外真意かもしれないね。だが今のアーシュにはそれは当てはまらない。あいつは、自分の能力をフルに使い、あちらこちらと伝説を打ち立て、瞬く間に民衆の英雄だ。神様業だけでは事足りないらしい」
「アーシュはあちらでもヒーローなんだ。サマシティだけじゃなく、あちこちと飛んでいる。まさに文字通り空を飛んでね。空を見上げてアーシュの姿を見かけると、子供は手を振り、歳を取った者は、手を合わせて祈るんだって」
「似たり寄ったりだな。中身が一緒だから仕方ない」
イールはあちらでのアーシュの様を想像して笑う。神也はこちらのアーシュを想像して笑う。そして、お互いの顔を見て、更に大きく笑った。
まるで同志だな。このような人間に接したのは、初めてかもしれない。
神也は人間の質が良い。
何事にも囚われず、己の見たままを己の中で真理を求め、消化しようと努める。
簡単に見えて、難しい。
それにしても 「山の神」として生きてきたこの少年に、信仰心が皆無とは面白い。
あちらの世界では、このように自由でシンプルな者ばかりなのだろうか?
そうだとしたら…アーシュがあちらに執着する気持ちもわからないではないけれど…。
アーシュも…去りがたかろう…。
「ね、イール。ここはどんな意味なのかな?」
気にする風でもなく、イールの腕にすがったり、白絹の手に重ね合わせたりと、以外にも神也は甘えたがる。それには性的なものは一切なく、雛鳥が親鳥に温められたがるような。
「そろそろホームシックかい?それとも恋人が恋しいのか?」と、問うと、神也は少し恥らい「うん、スバルはセックスしない日も、必ず一日一回は強くハグしてくれるのだ。何も言わなくても、スバルの想い…今日も一日、元気で、病気にならないでとか、事故に遭わない様に、残さない様に沢山食べて、友達と仲よくして、愛してる、大好きだよ…って、聞こえるのだ。私はスバルの気持ちが嬉しくてたまらなくなる。それがないと落ち着かなくなる。スバルが仕事で居ない時は、寂しくて泣いてしまう時もある。いつまでもそんなんじゃ駄目だなって思っているけれど…。ごめんなさい。イールに甘えたいわけじゃないんだ…」
少しだけ寂しく俯いた神也の身体を引き寄せ、イールは優しく抱きしめた。
神也も嬉しくなり、両腕をイールの腰に巻きつけた。
イールからは懐かしい…春の香りがした。
「スバルは良い人間なのだな…」
「うん、とても優しい」
「神也を一生守り続ける覚悟がある」
「うん、とても強いんだ」
「神也だけしか恋人にしないと心に誓っている」
「うん、絶対に浮気はしないんだって…。全部わかるの?」
思わず顔を上げ、イールを見上げる。
「おまえの頭の中のスバルを見ているだけだ。本物はどうか知らないけれど…」
「本物はもっと素晴らしい。いつか、イールに会ってもらえたら良いのだけど…」
「そうだね。そんな日が来ると良いのだけど…」
神也はイールの胸に顔を埋め、深呼吸をする。
昔を思い出す…
春になると、山肌が一斉に桜色に染まり。
散っていく花弁を、社の奥の小さな庭で追いかけた。
転んで泣いた私を、年老いた巫女が慌てて起こし、土を払って、「怪我はないか」と思わず問うた。
私は普段口を利かない巫女が喋ったのに驚いて、嬉しくて、巫女の胸に飛びついたのだっけ。
思い出はいつでも愛おしく懐かしい。
ホントだね、イール。
嫌な思い出は、いつしか薄れて、忘れてしまうんだね…