絵に描いたリンゴ
それは昔か、はたまた未来か。
それは東にあるのか、西にあるのか。
誰も知らぬ、世界の話。
とある大陸の奥深くにある、鬱蒼とした森のさらに深く。
そこにはルディマーという名前の、小さな国がありました。
その国の人々は、決して裕福ではなく、決して楽な暮らしをしてはいませんでしたが、皆毎日楽しく、仲良く、手を取り合って暮らしていたのです。
近くに流れる小川には、魚は殆ど住んでおらず、また森にもあまり動物がいないため、彼らの生活を支えているのは、農業で得られるものでしたが、やはりこれも、あまり土地が広くないルディマーでは、国民みんなのお腹を一杯にすることはできませんでした。
なので、どうしても、という時は、別の国に行って、自分たちの国の特産品であるリンゴを売って、それでできたお金で、食料を買っていました。しかしその道のりは、行くだけでも半日、帰るのにまた半日かかるという、とてもとても長い道程だったのです。ですが、そんな長く、苦しい行商でしたが、彼らは誰一人として嫌な顔はせず、国に帰ってくる頃には皆、とても疲れてはいますが、とても嬉しそうな表情をしているのです。
この特産品のリンゴは、彼らルディマーの人々にとって、心身共に大きな支えになっていました。というのもこの地で作られるリンゴは、他の国、他の大陸のそれと比べても、一番美味しいと、食べた人なら必ず口にするほどの逸品だったからです。
そのため、隣国のお金持ちは、このリンゴを大枚をはたいてでも、買い占めようとします。中には別の大陸から、わざわざいらっしゃる王侯貴族の忠臣達もいました。ですが彼らは優しく、公平な性格だったためか、相手が例え大金持ちで、例え喉から手が出るほど欲しい人であろうと、同じ値段で、同じ個数を売りました。
勿論、彼らルディマーの人々もリンゴが大好きでした。皆子供のころから、そのリンゴを食べて育ったものですから、誰一人としてリンゴが嫌いな人はいませんでした。リンゴの味だけでなく、その愛さえも、世界一だと言っても過言ではありません。
そんな生活が数十年続いたある日のこと。
その国の、とある都市に住んでいる男が変なことを言うのです。
「この国のリンゴは確かに美味しい。しかし、リンゴは腐る。また自分好みのリンゴの味や見た目が必ずできるわけではない。その点"絵に描いたリンゴ"は良い。決して腐らぬし、自分好みのリンゴが、何個も作れる」
その男の言葉に同調する人は、全くいませんでした。いえ、耳を傾ける人さえいません。
彼の言葉を真摯に受け取るものはいません。最初こそ、少し話題にはなったものの、数日すれば誰一人として取り合うものはいなくなりました。
しかし、そんな誰もが元の生活に戻ろうとしたその時に、この国一番の画家がこう言うのです。
「彼の言うことは正しい。絵に描いたリンゴこそが、最高のリンゴである」
名前すら覚えてもらえないほど、平凡な男が言うのとは訳が違います。彼の名前は皆知っていましたし、彼の描く絵は、どれもこれも素晴らしいモノでした。そのため、彼の発言は瞬く間に国中に広まりました。
絵に描いたリンゴこそが一番であると言う人達。
本物のリンゴこそが、最高であると言う人達。
前者の方が少数で、後者の方が多数派ではあったのですが、そんな争いから、ルディマーのリンゴ好きは二つに分かれることになりました。
『本物のリンゴ派』が、
「絵に描いたリンゴなど食べられない。美味しくない。食べられないリンゴに何の意味がある」
ということを口に出せば、
『絵に描いたリンゴ派』が、
「本物のリンゴは美しくない。腐りもするし、病気にもなる。お金もコストも馬鹿にならない」
と反論する。
しかし、そんな口論が続く中も、冷静な目で
「何をつまらないことで言い争っているんだ」
と、見て見ぬふりをする人たちがまだ多くいたことも事実です。
あと数週間もすれば、言い争いも終わるだろうと、そんな楽観的なことを口にする人もいました。
ええ、もしこの通りであれば、言い争いはすぐに終わったでしょう。
しかし、そんな争いに追い風するように、ある日事件が起きました。
とある男が、隣の家の女性を殴って怪我をさせたのです。
彼は警察に捕まり、事情聴取を受けます。なんと彼が女性を殴ったのは、彼女が『本物のリンゴ派』であり、彼が『絵に描いたリンゴ派』だったからなのです。しかもなんと二人の関係は、二十年近い付き合いの幼馴染で、かつ恋人同士だったのです!
その事件を皮切りに、『絵に描いたリンゴ派』は、『本物のリンゴ派』に、あろうことか犯罪者扱いされるようになります。彼らは凶暴だ。絵に描いたものを好きになるから現実が見えなくなるんだ、などと、あることないこと、言い続けました。勿論『絵に描いたリンゴ派』も黙ってはいません。口論はより激化することになりました。
この国一番のお医者さまは、「『絵に描いたリンゴ派』は心に異常を持ったものたちだ」なんてことを論証し始めると、この国一番の哲学者さまが、「『本物のリンゴ派』は、他の嗜好を許容することのできない、心に欠陥を抱いたものたちだ」などと反論します。
彼らの論争は、見る見るうちに大きくなり、少し前までは一歩引いてみていた人たちまで巻き込み、やがて本当にその国を真っ二つにしてしまいました。
一昔前の、彼らの楽しそうな雰囲気は、もはや見る影も失い、ルディマーの人たちから笑顔が消え去りました。それどころか、彼らの優しさが好きだった隣国の人たちも、彼らの変貌ぶりに、驚きを隠せず、そして商売を断る人たちが増えてしまいました。
その国はどんどん貧しくなっていきました。
あるものは飢えて死に、
あるものは国を出て、他国で物乞いに身をやつし
またあるものは、国を出ようにも森の中で力尽きました。
この国を滅ぼしたものは一体なんでしょう?
絵に描いたリンゴを好きだと言った男?
それとも彼の意見を支持した画家?
それとも恋人の女性を殴った男?
それとも「絵に描いたリンゴ派」を異常者と言った医者?
それとも「本物のリンゴ派」を欠陥者と謗った哲学者?
今や誰もが忘れてしまった、森の中の小さな国。
その国に残ったものは、美しいリンゴの木々と、美しいリンゴの絵だけでした。