4
「もう止めときな」
そう言われてロミオは店の外に放り出された。まだ呑み足りなかったが尻を引っ叩かれてまで追い出されたのだ、自分では気付かないほど悪い酔い方をしたのかも知れない。
だが気分の悪さは少しも癒えておらず、無性に人肌が恋しい。自然と足は恋人のリタの元へと向かっていた。
付き合ってもう一年程になるが最近では月に二度会うかどうかになっていた、あれほど毎日入り浸っていたのに。別に飽きたとか面倒だとかそういう事ではないのだが時間が経つにつれ何故か足は遠のいていた、不思議とこんな時だけ、こんな時だからこそリタの顔を見たかった、声を聞きたかった、あの柔らかな肌に触れたかった。
アパートの入り口を抜け細い階段を登る、ほんの心持ち足が軽くなったような気がした、今では早くリタを抱きたくてしょうがなかった。時間といえばもう深夜といって差し支えない頃合だが構わずに呼び鈴を鳴らす。
びいい。
静かな夜に似つかわしくない程の大きくて無機質な音が響き、暫くしてドアの向こうから誰何される。
「やあ、リタ。今良い?」
「ロミオ?」
ドアのロックが外されリタが顔を出した、その表情はいぶかしむように眉根が寄り少しの驚きを含んでいた。どうやら迷惑そうな素振りはない。
「どうしたの?こんな時間に・・・入って」
「・・・悪い」
ドアをくぐりリタが鍵を閉めるがちゃりと言う音と供に後ろから抱きついた。
「もう。どうしたの?」
「ああ、ごめんリタ・・・」
このロミオの醜態から何かを感じたリタは、優しく手を重ね頬をくすぐるロミオの髪に触れて、いつもと同じように、二人のお決まりの文句をおどけて明るく振舞ってみせる。。
「だめよロミオ。あなたはロミオなんだから私はジュリエット。そう呼んでって言ってるでしょ?」
身体をロミオに預け飛び切りの笑顔でウィンクもサービスした。
リタに導かれベッドルームに移動して、抱き合ったまま倒れ込む。胸にわだかまっていたあのもやもやした気分がすっと軽くなっていくのを感じる。その心地よさ、安堵感にロミオはまた抱きしめる両手に力を込めた。リタの暖かな胸の中で小気味良い開放感に包まれ、いつの間にか意識の手綱を手放し深い眠りに落ちていった。
ぼんやりと天井を見ていた。
昨夜の事を思い出す。ここはリタの部屋、そのベッドの上。
酔っ払ってここに転がり込んだんだった、後で謝んなきゃな。
身を起こし見回してみる。リタの姿は無い。ベッドルームのドアの隙間から鼻をくすぐる香りが漂って来ている。
ベッドから降りてドアを開けるとリタがキッチンで鼻歌混じりに何かを調理していた。その後姿にえもいわれぬ幸福を感じ、自然と顔がほころんでくる。
「おはよう」
朝の挨拶をしておはようの返事を待つ。
さも可笑しそうな身振りで、こう返された。
「ふふ、もうすぐお昼よ?」
どうやら随分と眠っていたらしい。こんなに気持ちの良い目覚めは久しぶりかもしれない。
「お腹空いたでしょ?もうすぐ出来るから先にシャワー浴びて来て」
木ベラを片手ににこりと微笑みかけてくれる。フライパンの中身をそれで突きながら、腰を振り鼻歌を再開する。その景色に少しの間見蕩れてシャワールームへと足を向ける、自然と口元はふやけたように緩くニヤけていた。
壁に手を突いてぬるめの湯を浴びる、肌にまとわり付いていたべたつく汗を流すと随分とさっぱりした。気分の悪さもこうやってお湯と一緒に流れて行ってしまえば良いのに。そんな事をくるくる渦を描く排水溝ぼんやりと眺めながら思った、それでも昨夜よりいくらかマシになっているようだった。
リビングに戻るともうすでに支度が調っていた。テーブルの上には小さな花瓶にあざやかな色彩の花が活けられており、白ワインのボトルもコルクを抜かれるのを待っていた。
流石に港町と言うべきか、大皿の上には魚介を中心とした料理が湯気を立てていてどれも美味しそうだ。まずはトマトとモツァレラチーズを交互に挟んだカプレーゼ、トマトソースをベースにした烏賊と貝のパスタ、こんがりとしたバケットも添えられている。そして・・・。
「さあ、席について。腕に縒りを掛けたのよ」
そしてイワシのベッカーフィコ。
そのイワシの丸々と太った鳥のようなフォルムを見ると、今まで頭の片隅に追いやっていた昨夜の光景が一瞬でフラッシュバックしてくる。あのミンチを撒き、それに群がってくる無数の小魚の群れ。ばしゃばしゃと海面を揺らし我先にと胃の中に流し込む、あの絶景を。
「このイワシなんか今朝あがったばかりの新鮮なものよ」
知らずロミオは口を押さえ前のめりにテーブルに片手をつく。
「どうしたの?」
その姿をみてリタは声をかける。こみ上げてくる吐き気を押さえ込むのに必死で碌な返事は出来ない。
この小魚は・・・。
ぐ、ぐぐ。喉を鳴らしながら耐えていると膝の力が抜け、そのまま床に崩れ落ちて尻餅をついた。
「ロミオ大丈夫?」
目にはじわりと涙が溜まっていた。暫くじっとしているといくらか呼吸も落ち着きリタに謝辞を述べる。
「リタ・・・悪い・・・」
「なあに、具合でも悪いの?」
体調も悪くないとは言えないが、それよりも精神的に参っている。それを伝えようとしたがなかなか言葉が出てこない。
「いや、体調は悪くない」
ようやくそれだけを搾り出すように言う。
「じゃあ、どうしたの?食べたくないの?何?」
少しリタの言葉に棘がついている。
「今日は・・・その・・・」
とてもこの調子じゃ物を食べることなど出来ない、それもあのイワシだけは絶対に。今朝あがったばかりなら間違いなくこの港に根付いて回遊している魚のはずだ。ならば当然あのミンチを餌にしていない訳は無い。そう思えた。
突然。
「いい加減にしてっ!」
ばん。とテーブルを殴りつける音。
「なあに?放っておけば1ヶ月も連絡もよこさないでいきなり来て、久しぶりに顔を見たと思ったら酔っ払ってて、ベッドの中でもただ眠るだけ!この間もそう!その前も、その前も!それで何?私一人朝早く起きて買い物して作った料理も食べたくないの?一体どういうつもり?どうしたいの?私って何!?」
一息にまくしたてた。
今日もそうだが今までに積もった不満や寂しさを、その怒りを目の前でへたり込む恋人に思いつくまま言い放った。
その剣幕に圧倒されロミオは何も出来ないでいる。
ただ豹変した恋人に目を向けることしか出来ない。その変貌振りにえづきも止まり呆然としているのみだ。
「私は、あなたのママじゃないの。・・・都合のいい女になんかなりたくないわ」
シャツの襟をつかまれそのままずるずると引っ張られて行く。抵抗することも言い訳することも出来ず、されるがまま引きずられるがままに。
ドアの外に放り投げられ、壁に頭をぶつけるがリタから掛けられた言葉は取り付くしまもなかった。
「もう二度とその顔を見せないで」
強くドアが閉められ、がちゃりと鍵もかけられる。
「・・・」
何かリタに言おうとするが丸で纏まらず声にならない。
がしゃん。ばりん。
花瓶か、ワインか、皿か、或いはそれら全てか。なにかが割れる音が何度か聞こえてきた。相当頭にきてるらしい。
今は何を言っても無駄だろう。
立ち上がり服の汚れを払う。隣の部屋のドアが少し開いていてそこの住人がこっそり見ていた。へらと笑うとドアが閉まった。
煙草に火を点けため息をつき、その場から立ち去った。