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閑話 それぞれの朝 前編

 セシリア・ハーモニックの朝は早い。

 太陽が山嶺から顔を覗かせる前に起床し、窓の外を一瞥して雨が降っていないことを確認すると、身嗜みを整えて外へ出る。

 その足で向かうのは寝起きする山小屋から少し離れた湖畔。

 早朝の澄んだ空気を大きく吸い込み彼女は歌う。

 それは雨や強風の日を除けば、日々の習慣と化している日課であり、歌声からその日の体調を把握する事が可能だった。


 セシリアは時に舞台の上に立つオペラ歌手のように力強く、時に神事に挑む舞姫の如く神聖さを秘めて歌い上げる。

 朝靄に包まれた湖畔に透明感のある歌声を響かせ、程なくして姿を見せた太陽の光を浴びて輝く彼女の姿は神秘的なものだった。

 誰もが心奪われ、魅了される。

 その結果、死に至るほどに。

 まさに陸のセイレーン。

 現にこの日も運悪く呪歌の効果範囲に入ってしまった狩人の男が、殺人鬼へと強制クラスチェンジを果たし、得物に呪いを宿すほどに堕ちてしまうのはまた別の話だ。


 ひとしきり歌い終えたセシリアは心地良い疲労感を感じながら滲む額の汗を拭い、胸元を弛めて身体の火照りを冷ます。

 夏場なら湖の水面に脚を浸けたことだろう。

 そして今日の体調もまずまず悪くない、これならば彼女がいつ訪ねてきても問題ないと頷いた。


「ん……いつ?」


 疑問を呟き、それにより天気と同じ晴れやかだった気分が、曇天に閉ざされたかのように暗くなっていく。

 約束通り定期的に訪れてくれている彼女だが、本当はもっと頻繁に、それこそ毎日だって来て欲しいというのがアリシアの本音だった。

 また自分から会いに行こうかな、と考えるもすぐに首を横に振る。


「わがまま、ダメ」


 彼女の下を訪れれば、少なからず彼女に迷惑が掛かることをアリシアは理解していた。

 自分の歌を聞いてくれる、自分の歌を褒めてくれる。

 そんな相手がこの世に存在することが、どれだけ幸運で奇跡的なことなのかも痛いほど判っている。

 だけど最近ではただ彼女の来訪を待っているだけでは、どこか物足りなく感じる事が多くなってしまった。

 我ながら強欲だとセシリアは自嘲する。

 それでも────


「……羨ましい」


 最も彼女が心を許し、共にあることを認めている存在=駄エルフさん。

 彼女達の付き合いの長さを考えれば致し方のない事であり、いつかは自分もそうありたいと希うが、あらゆる面で劣る自分では到底叶わない願いだという諦観があった。

 隣に立つには圧倒的に力が足りない。

 力が欲しい。力があれば、力が、チカラが……。


 セシリアは自らの身体を、纏う──彼女が自分を守るために用意してくれた──黒きドレスを抱きしめる。

 まるで彼女が守ってくれているかのようで安堵できた。


「……歌う」


 自分にできることはただそれだけ、そう言い聞かせるようにアリシアは再び歌い始めた。

 先程までとは違い、叫びにも似た荒々しい歌声。

 そこには同じ空の下にいる彼女に届けという強い想いが込められていた。


 しかし彼女は自らの力を未だ理解しきれてはいなかった。

 呪歌のなかでも最上位に位置する力。

 それを長い間、毎日のように聞かされ続けてきた森に、大地に、湖に如何なる影響を及ぼしているのかを。






     ▼






 イリス・フレサンジュの朝は……その日終ぞ訪れなかった。

 いや、別に彼女の身に何か事件が起こったわけではなく、単に昼過ぎまで目覚めなかったというだけのこと。

 翌日が休日なのを良いことに、昨晩は遅くまで同僚と飲み明かしていた。

 しかしながら色恋に発展するような甘い展開はなかったようだ。


 いや、例え発展していたとしても、今現在の彼女の姿を見ては一夜の過ちだと醒めてしまったことだろう。

 それ程までに彼女の寝姿は酷いものだった。

 だらしなく開かれた口から涎を垂らし、最早ネタであろう「もう食べられないかな?」なんてお約束の寝言や「いやん……遂に……耳ペロだなんて……へふぅ~」などと口にしながら頬の筋肉を緩ませまくり、あまつさえ身悶えしてクネクネしている気持ち悪さ。


 そこにはかつて『風を纏う者』や『疾風剣』の二つ名で呼ばれた面影も、ヴァレンティア国内のギルド職員から選ばれる『お嫁さんにしたい女性職員ランキング』の首位を長らく守り続けている憧れの受付嬢としての面影もなかった。

 幻滅も良いところだ。


 余談だが『愛人にしたい女性職員ランキング』では惜しくも二位となっている。一位は査定及び鑑定係のサキュバス、ロクシーヌさん(年齢非公開)。何でも納品数や討伐数を上乗せすることで、夢の中で色々とサービスしてくれると、パートナーがいないけど色街に行く勇気のない男性冒険者から人気を集めている。

 ちなみにこの裏オプションは彼女個人のお小遣い稼ぎではなく、実はギルドが正式に認めている隠しサービスだったりする。

 もちろん発案者は当然みんなの知っているあの似非幼女だ。


 さらに言えば全身からは未だに酒と香辛料の臭いが漂っている。

 脱ぎ散らかされたギルドの制服が床に転がっている事からも分かる通り、きっと帰宅するなり風呂やシャワーどころか身体を拭くことすらなくベッドに倒れ込み、そのまま熟睡してしまったのだろう。

 よくそんな泥酔した状態で何事もなく無事に帰宅できたものだ。

 さすがは元高ランク冒険者だと褒めるべきか、それとも呆れるべきか。

 残念なことにディアーナとはまた違った駄エルフであることは間違いない。


 何れにしろ今日もヴァレンティアの帝都クルキセスは平和だった。






     ▼






 シオン・ローレシアの朝は早い。

 いや、早すぎると言っても良い。

 早朝と呼ぶよりはまだ深夜と呼ぶのが相応しい時間に彼女は目覚め、身を清め、身嗜みを整え、一日の始まりに祈りを捧げるのだ。

 さすがは枢機卿の地位に就く聖職者。

 他の信者の模範となるべき存在である。


 自室の奥の奥、隠し扉の先に設置された祭壇の前に跪き、頭を垂れ、祈る姿はまさに敬虔な信徒。荘厳なる神官服やその美貌、場を満たす神聖な空気も相まって、まるで絵画に描かれる聖女の如く。

 もっとも彼女は自らを聖女とは絶対に認めないだろう。

 彼女にとって聖女の称号は、この世でただ一人が冠することのできる唯一無二のものなのだから。


 日の出と共に夜が終わり、人々が活動を開始し、やがて喧騒が生み出されることだろう。

 そこでようやくシオン・ローレシアの長い長い祈りの時間は終わる。


「いって参ります」


 そう告げて彼女は祭壇に一礼し、名残惜しそうな様子を見せながらも隠し部屋を後にした。

 この後、シスター達と食堂で食事を取り、朝の礼拝に臨まなければならない。

 世界最大の宗教=アレクシエラ聖教会の枢機卿である彼女は忙しく、分単位でスケジュールが組まれている。

 故に彼女は自らの信仰心を示す個人的な祈りの時間を捻出するために、睡眠時間を削っているのだろう。

 もちろんそれによって業務に支障を来すことはなく、他に影響を及ぼすこともない。

 自他共に狂信者である事を認めている彼女にとって、信仰の対象を想い、祈りを捧げることは人の三大欲求にも匹敵する当たり前の行動なのだから。


 しかし狂信者と呼べるレベルの敬虔な信徒である彼女の信仰には些か疑問を感じずにはいられない。

 まず祭壇の置かれている場所が隠し部屋となっている点だろう。

 いや、自室に隠し部屋が存在すること自体は別に珍しい事ではない。むしろ貴族社会では一般的なことであり、枢機卿の多くは貴族家の出身だ。

 では何が問題なのかと言えば、祭壇に奉られているべき品が女神アレクシエラを模した聖像や教典と呼べる代物ではないという事実。

 枢機卿ともあろう存在が所属する教会の崇める信仰対象以外に祈りを捧げている。

 もしその事実が他者に知られては教会内部の勢力図を大きく揺るがすスキャンダルとなることだろう。秘すべきには十分すぎる理由だった。


 だったら彼女は毎日長い時間を掛けて、何に祈りを捧げていると言うのか?


 祭壇の上、聖水らしき液体が詰められた瓶、最後の晩餐に使用されたかのような銀食器やグラスの数々。まるでメインディッシュを思わせるかのように、それらの中心に置かれた小箱。

 聖骸や聖遺物が収められているとでも言わんばかりに厳重な封印が施され、強固な造りをしている事が窺い知れる。

 確かに聖教会は女神アレクシエラが遺したとされる品々を聖遺物として保管している。

 ただしそれらは枢機卿と言えど一個人でどうにかできる物ではない。

 何より敬虔な信徒なら家宝とすることすら畏れ多い女神の聖遺物であるが、この部屋の主はまるで興味を持っていなかった。


 ならば箱の中身は何なのか?

 それを知る者はこの世界でシオン・ローレシア以外には存在せず、彼女が箱を開けることのない限り、永遠の謎となるだろう。


 ただこの隠し部屋に祭壇が設置される少し前、因果関係は不明だが、とある貴族の屋敷で小さな騒ぎがあった事を記しておこう。

 とある貴族が一人の幼女を晩餐に招いた。

 その幼女は当然行きたくなかったのだが、本当に不本意ながら招待を受けることになる。

 歓待は夜遅くまで続き、当然今夜は泊まっていって欲しい、その為の準備は既にできているという話になった。

 慣れない環境に疲れていた幼女は渋々その申し出を受け入れる事にした。

 そして就寝前に向かった浴場で事件は起こる。

 何と幼女の下着が紛失したのだ。

 代えが用意されていたとは言え、気持ちの良い話ではないだろう。

 その時の下着は未だに見付かっていないという。


 ……うん。なまじ神聖に見えるだけに質が悪い、悪魔崇拝よりもおぞましい光景が脳裏を過ぎったかも知れない。

 それでも敢えてもう一度記すが因果関係は不明である。


アイナ「やっぱりお前か!」

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