※未完 ②
その日の夕食はいつもより品数が多く、特にピンを使った料理に驚いた。ユノウが料理長に頼んで作ってもらったらしい。そして驚くことはもう一つ。ユセリアも一緒に食べるという。
「今日はユノウも座りなさい」
ユセリアの言葉にユノウは驚いたが、素直に座り三人で夕食を囲んだ。
ユノウから料理の説明や、二人の子供の頃の話を聞いたりした。頷いてばかりで会話らしくはなかったが、キアはいつもより多く料理を食べ、その日の夜はいつもより良く眠れた。
◆◆
それから半年以上の時間が過ぎ去った。
午前中は書物庫に篭ったり、ユセリアの時間が許す場合のみ、彼の講義を受けた。ユセリアは博学で、離宮から出られず本からしか知識を得られなかったキアとは「厚み」が違った。ユセリアとユノウの両親は商人で、小さい頃から各地を廻っていたのでその土地土地の話を聞くことで見識を広め、両親が亡くなってから親代わりになってくれた人が学者だったので、礼儀作法と共にみっちり教え込まれたらしい。
ある村に伝わる風変わりな儀式の話や、薬草の見分け方、海の向こうの異国の話…。全てがキアの興味を誘った。ユセリアも熱心なキアに惜しみ無く知識を与えた。最初はぎこちなかった二人も、いつしか師弟のような関係を築いていった。
午後はユノウと共にゆっくりお茶をしたり、庭園で花いじりをしたりして過ごした。
時には城の兵士達に混じり剣術や体術、乗馬を習い、汗をながす日もあった。
離宮と違い城には多くの人が働き、出入りしている。来たばかりの頃はユノウとユセリアとしか接してこなかったが、活動範囲が広がるにつれ、まだ会話とまではいかないが、挨拶を交わせるようにはユノウいわく、改善されてきた。
そして夜には、言われるがまま、人を切った。
三日と空けずの時もあれば、一ヶ月以上呼ばれない時もあった。
「呼ばれる」時は不思議とわかった。いつもより早めに仮眠をとり、黒装束を身に纏う。
迎えにくるのは必ずユセリアだ。夜の城内を彼について歩く。ユセリアもキアも一言も発しない。
外には馬と、自分と同じ黒装束を身につけた数人が待っている。時によって人数にばらつきはあったが、キアを背に馬に乗るのはいつも同じ男だ。顔まで布で覆ってあるのでそれぞれの人相はわからない。
馬上のキアにユセリアが剣を渡す。装飾を一切省いた実戦用の剣。鞘には背負えるように細工がしてある。ユセリアは此処までだ。男とユセリアが視線を交わし、闇夜に向けて走り出す。
この剣を手にすると記憶がなくなる。
自分の意識はある。人を切った感覚も自覚もある。生温い鉄錆の臭いも、相手の荒い息遣いも覚えている。とどめを刺してその息遣いが止まるまでを。
けれどいつも帰りのことは記憶にない。
気づくと城のベッドの上。朝陽が黒装束を着たままの自分を暴くように照らす。それ自体も気分がいいものではないが、自分に残った夜の残骸が真っ白のシーツを汚している……。それを見るのは一番嫌だった。逃げるように「黒」を脱ぎ捨て、用意してあるお湯で流す。終えるとユノウが控えている。着替えを手伝いながら、身体に傷がないかを確認される。普段は自分一人でするが、いつからだったか「この時」だけは手伝うと言って譲らなくなった。
傷があるとユノウは悲しそうな顔をする。
それを見たくなくて、傷が出来ないように気をつけるようになった。
新しく張替えられたシーツを見て、胸がいっぱいになって破裂しそうになる。その感情を「泣きたくなる」ことだと知ったのは随分後になってからだった……。
◆◆
穏やかな天気の中、ノース城内の庭園にてキアは草取りに励んでいた。
庭園は広く、草取りだけでも重労働だ。規則的に植えられた樹木の間に座り込み、根を残さないように雑草を抜いていく。土だけを払い落とし、穴を整える。乾いた土は硬く、草は引きにくいが土はすぐ落とせる。雨が降った後は柔らかく引き抜くのは楽だが、土を払い落としにくい。身体から汗が滲む。痛む腰を伸ばそうと体勢を変えようとしたら、離れた場所で剪定作業をしていた筈の老齢の庭師が近くまで来ていた。
「――キア様、あまり根を詰めなさるな。仕事は毎日続けることが肝心。そのように気張られては、明日寝込むことになりますぞ」
庭師は深い皺が刻まれた目を細めた。キアの足元の籠は雑草で一杯になっていた。
「キア様、この雑草も立派な肥料になるのですよ」
「これが…ですか?」
「これを干して、燃やした後の灰を蒔くのです」
驚くキアを見て、庭師は微笑む。
「自然のものは上手く循環できるようになっていますな。…雑草ですら無駄にはならないのですから」
一陣の風が庭園を吹き抜ける。
木々が、花が揺れる。
キアはその様を、美しいと思う。
庭師の耳に、目の前で土まみれになっている娘付きの侍女の、娘を探す声が届く。
「……お迎えが来られましたな。ではキア様、また明日――」
「はい」
庭師の目にキアは眩しく写った。
ユノウは土まみれのキアを見て目眩がしそうになった。けれどキアの様子がいつになく楽しそうなので、咎めることはせず、湯浴みの準備を始めた。
髪を丁寧に乾かされ、櫛で梳かれる。櫛はメルから貰ったものだ。
肩につくくらいだったキアの髪も、だいぶ伸びたが年頃の娘としては、まだまだ短いほうだ。
「キア様のお気に召すかわかりませんが……」
綺麗な薄紫色のリボンがキアの手に渡される。リボンは滑らかな手触りで、白糸で繊細な刺繍がされている。
「侍女仲間に刺繍が上手な娘がいまして、その娘に習いました」
お守りだと、ユノウは笑って、そのリボンでキアの髪を首の後ろで結わえた。顔より小さめの鏡を持って来て、後ろのリボンがキアに見えるように合わせ鏡のようにする。
キアの艶やかな黒髪に薄紫が映える。
まるで月夜に浮かぶ竜胆のように。
「…ありがとう。ユノウ、ありがとうございます」
やっと零れた言葉は、ユノウの心に届き、キアの心を暖かくした。
◆◆
真夜中を切り裂くように馬車を走らせる。
こんな時間に出立するなど自殺行為だ。見通しが悪く道から外れ崖から落ちるかもしれないし、山賊に襲われる可能性もある。
それでもこの夜陰に乗じて逃げなくては、見つかってしまう。早く、早く……!!。
この数ヶ月の間に周りの人間が次々と死んでいった…。表向きは盗賊に襲われたとか、自殺だと言われているが、違う。――狙われてるのだ、誰かに。
馬車が激しく揺れ、中に積んだ鞄のフタが開く。男は慌てて、鞄から飛び出した宝石類をしまう。
クソッ…あんな世界に関わるべきじゃなかった。良い思いもさせて貰ったが、それも生きていてこそだ。
護衛に雇った盗賊達は金の為ならどんな非道も厭わない奴らだから、そう簡単にはやられないだろう。
朝までに国境を越えれば…。
馬のいななきと共に馬車が突然止まり、男は顔から馬車の壁にぶつけてしまう。なんだ!!と、前の従者に怒鳴ろうとしたら、背筋に汗がつたった。あまり高くないところから重い荷物が落ちる音がする。…違う、荷物じゃない。荷物は今、自分の乗る馬車の中にあるだけだ。…あれは、馬から人間が落ちる音だ――。
男の目の前で扉がゆっくりと開かれる。
ああ…、黒い、死神。
馬車から引きずり出した男は何かを言っていたようだったが、もう喋らなくなった。
キアの耳に男の怒鳴り声が届く。盗賊の中にも手練れの者がいるらしい。
数人の《影》が、男の退路を絶つように取り囲む。キアは剣に着いた血を振り落とし、その輪に入る。
この男が誰なのかキアは知らない。
そこに連れて行かれ、そこにいる人間を切るだけ。
キアからは殺気が出ていない。ただ、立っているだけだ。その目は何も映さず、男のことも視界に入っていないようだった。何も知らない者が見れば、ぼうっと立っているように見えるだろう。
男はその異様さに恐怖した。
男はキアに剣を振りかざす。…が、その剣先は空を切り、脇腹に熱線が走る。倒れそうになる身体を支えようと、視界に入った紫を掴む。
リボンが―…。
キアは油断した。
右腕が熱い。けれど次の瞬間、男の息の根を止めた。
自分の手の中に、リボンは戻ってきたろうか……。キアが思うのはただ、それだけだった。
◆◆
月が……。
今日はいつもと様子が違う。着替えを済ませベッドにいるらしい。右腕に包帯も巻かれている。身体も酷く怠い。
「キア」
そこで初めてキアは瞼を開けた。
「何に気をとられた?」
ベッド脇のランプがネイリークの顔を照らす。
その目に囚われる。
声が出ない。
目線がさ迷う。
何時かのように。
…あれはどうなった?
キアは探した。
キアの視線を追って、ネイの目もサイドテーブルに向かう。
急いで上半身を起こし、それに手を伸ばそうとするが、思うように動かず間に合わなかった。
「あっ……」
ネイの長い指に、リボンが囚われる。
「――返して、…返してくださいっ」
氷のような怒りを手元に向けていたネイは、もう一方の手をキアの首にあて、絞めるようにベッドに抑えつけた。
「ぐっ…」
気道を塞がれ、両手で外そうとしてもネイの腕はびくともしない。いつも屈強な男達を相手に剣を振り回しているのに、今この瞬間のキアは非力だった。あまりの苦しさに生理的な涙が浮かぶ。
「キア」
闇色の目に、情けなく泣いている自分の姿が映る。
「お前を生かすも殺すも、決めるのは私だ」
手元を緩められ、一気に入ってくる酸素に、キアは咳こむ。
「今後一切、私の許可なく傷を負うことは許さない」
何故…。それは声にならない。
「…ネイリーク…様」
どうして名を呼んだのかキアにも判らない。
扉の前でネイは振り返る。微笑を浮かべて。
「――私を失望させるな、キア」
音もなく、扉は閉じられた。
キアの部屋からネイが出て来る。目を合わせないまま、ネイは自室に向かう。それに俺も続く。
キアはまだ知るよしもないだろうが、アイツは丸二十日間、意識が戻らなかった。
原因は、賊の剣に塗られていた毒だ。
始めの五日間、キアを診ていた医師は六日目に驚くことを口にした。
「薬が全く効きません」
それが何を意味するのか…。医師が部屋を出ても沈黙したままの俺とユセの前で、ネイは笑い出した。
「…人ならざる力の代償が、これか……」
ネイのその言葉に、一番動揺したのはユセのようだった。握り締めた掌は血が滲んでるだろう。そういう俺も鉄の味が口に広がって、吐きそうだった。
解毒薬が効かない中、結局、本人の自然治癒能力しか頼るものはなかった。
キアが倒れたと《影》から知らされ、ネイと俺がノース城についたのは、キアが意識をなくして三日目の朝だった。
置いて来た山のような書類を此処まで運ばせ、即席の執務室を整え、日中は仕事をこなした。ネイの名の下に決裁された書類は早馬で届けさせた。
夜は僅かばかりの仮眠以外は、ずっとキアの側についていた。
ネイ付きの侍女達から懇願されたらしいユセが休むように言っても、一向に聞き入れない。それを見ていて痺れを切らしたのか《影》がネイに手刀を浴びせ、強制的に倒れさせた。(…その度胸を俺は誉めてやりたい。)
「…馬鹿が…私がついていないと、あれは目覚めない…のに――」
独り言のような、予言めいた言葉を吐き、ネイは気を失った。
…そのお陰で俺も久しぶりにベッドで寝ることができた。
目覚めるとすぐ、ネイは日付を聞いてきた。傍に控えていたユセが答えると、ベッドから起き上がった。
「《影》」
「――御前に」
足元に跪く黒装束の男に向かって、ネイは剣先を充てた。
「お前のせいで二日無駄にした」
「剣をお納め下さい、ネイリーク様っ」
ユセの制止を無視し、ネイは無表情で剣を振り下ろす。
――ガンッ
俺は鞘を抜かないままの剣で、ネイの剣を弾いた。今ので自慢の鞘に傷が入ったろうが、ネイに刃など向けられない。
《影》は微動だにしない。
「……ホーン、邪魔立てするならお前でも容赦しない」
「熱くなんなって、ネイ」
…勘弁してくれ。ネイの本気の睨みは身体に悪い。
緊張が続く。
その時、それまで動かなかった《影》が懐から小刀を出し、自分の右目を切り付けた――。
誰も動かない。
気を削がれたのか、ネイは剣を捨てた。
「……不手際の責任は全て私にあります」
それはキアに怪我を負わせたことか、ネイの命に背いたことか、もしくは両方か。
「足りなければ左目も……」
「もうよい。ユセ、医者の元へ連れて行ってやれ」
「はっ」
……それから七日後の今日、夕方から仮眠を取っていたネイは起きるとすぐに、キアの部屋に向かった。席を外すよう言われたユノウの顔も、かなり疲れていた。
一時間程たっただろうか、部屋の中の気配が動き出す。
まさか。
「ユノウ、ユセを呼んで来い」
「は、はいっ」
キアが目覚めたとユノウに呼ばれ部屋に向かうと、ネイがちょうど出て来たところだった。
ネイはユノウを見遣り、私に目配せしてきた。…話があるから連れて来い、と。
ネイの執務室には、私とホーンとユノウ。
かつては此処で四人、共に過ごしたこともあった。
ネイは彼の為だけの椅子に座り、机の上にそれを置いた。薄紫色のリボンは舞うようにネイの手から離れた。隣でユノウが小さく息を飲んだのがわかる。ユノウがキアの為に作ったもの。今、私がしている紅色のリボンもユノウの刺繍入りだ。わざとデザインを変えてあるので、気付かれはしないだろう。ユノウいわく、私のはキアの為の試作品らしいが。
けれどそれもネイには通用しないだろう。
ユノウはすっかり青ざめてしまっている。
――あの夜、見とれた。
月夜に、黒装束に黒髪に、薄紫は妖しいまでに映えて。確かに見とれた。
「申し訳ございません」
私は深く頭を下げる。
たとえ隙を作ったのがキア自身であったとしても、目立つものを身につけさせたのは完全に私の失態だ。
「戦闘中の怪我は全て自分の責任だ。後付けの理屈なんざ、意味はねぇ」
苦いものを吐き捨てるようにホーンが言うのを、私は頭を下げたまま聞いた。
「…ネイ様は、キア様をこのまま――」
「ユノウ止めなさい」
「許す。言ってみろ」
「…戻られた後はいつも酷い状態で、憔悴しきっておいでです…。兄からキア様の…お立場は聞いております。でも、このままだとキア様は壊れてしまいます!!」
相当な勇気を要したろう。声は震えていた。
「――で?」
柔らかいネイの声に、思わず私は頭を上げていた。
「壊れていくキアを見るのは辛いか?なら今すぐ此処を去って修道院に帰れ」
「…っ!!」
ネイの言葉にユノウはギリッと服を掴んだ。それに気付いてるだろうに、ネイは更に追い詰める。
「私に刃を飾って眺める趣味はない。刃は切る為にある。――ほうっておいては錆るだけだ」
「ネイ!!」
――パンッッ。
私は、悲鳴のように叫んだユノウの頬を叩いた。
「――言葉が過ぎる。どなたの前だと思っている」
目に一杯の涙を湛えてユノウの顔が歪んでいく。
「重ね重ね申し訳ございません。よく言って聞かせておきますので、私に免じてどうかご容赦を――。…下がりなさい」
ユノウはネイに一礼して退室した。
「…あそこまで言う必要あったか?知らねぇぞ、嫌われても」
ユノウが去った扉を見ながら、ホーンは呆れたように言う。
「全くですよ…。まぁ、覚悟は出来たでしょうが。昔から気が強いのはご存知でしょ?後でフォローする兄の身になって下さい」
「此処では他人を通すと言ってなかったか?」
私達からの厭味も、ネイには全く意味を成さない。
いつの間にか、場を支配していた緊張感はなくなっていた。…キアの意識が戻ったからだろう。
「それもどこまで通用しているやら…。キアには早々にバレましたしね」
ホーンが声をあげて笑う。ネイも僅かだが珍しく笑っていた。
◆◆
次に目覚めた時、あまりの陽の眩しさに、なかなか瞼を開けられなかった。ネイがいたのは夜だったのか……。ぼうっと目を慣らしながら考えていたら、目を真っ赤にしたユノウが視界に入ってきた。
「キア様…。おはようございます」
何故そんなに泣きそうなのか、聞きたかったけれど。
「…おはようございます、ユノウ」
医師の診断では、キアの受け答えや身体に異常がないことから、毒は抜けたようで後遺症も心配ないだろうと言われた。それよりも、二十日間眠っていたことで衰えてしまった筋肉を戻す方が大変らしい。右腕の傷も、完全には消えないだろうと言われた。どす黒い紫色の蛇が腕を這っているような跡……。皮膚に残った毒はいつか、牙を向けて来るかもしれない。
その後、医師はユセリアだけを呼んで部屋を辞した。
「ユノウ。…ネイリーク様は…」
侍女が運んできたスープを注ぎながらユノウは答える。
「キア様が一度目覚められた後、発たれました。ホーン様も一緒に」
ホーンも…。なんだか残念に思うのは気のせいだろうか。
「さぁ、少しずつで構いませんからお口に入れてください」
キアは頷いてスプーンを手にした。
ユノウとユセリアはやはり兄妹だと確信した。
怒る様がそっくりなのだ。日に日に回復してきて、さぁもういいだろう、と示し合わせたようにお説教が始まった。今はユセリアから。午前中はユノウから。
今、キアの黒髪を結うのは薄紫色のリボンだ。あの時…もう自分の元には戻らないと諦めていた。けれどリボンはキアの元に帰ってきた。
「……わかりましたか」
「はい…」
キアはすっかりベッドの上で小さくなっていた。
ユセリアはお茶を新しくするようにユノウに声をかけた。
「――薬が効かない体質なのは知っていましたか?」
てっきりお説教が続くものと思っていたキアは、反応が遅れた。
「……いいえ。大きな怪我はこれが初めてでしたから…」
診察の時、医師から言われた言葉を思い出した。
自分には薬が効かないのだと。今回のことはおそらく、身体が毒と闘う為に他の機能を一時的に止めたのだろう、とも。
「腕に痣が出来た時は治りが早かったように思いました。あの時は薬草が良く効いたのだとばかり…。変ですね…」
お茶をテーブルに置きながらユノウは首を傾げた。
薬は薬草から作られる。薬草の種類は膨大で、それを掛け合わせることで用途に合わせた薬が出来る。飲み薬も塗り薬も作り方は同じだ。
薬が効かないと判ってからは、腕の傷にも簡単な消毒だけで、ばい菌を防ぐ為に包帯をまいていた。それでも化膿することもなく、傷は塞がった。
「薬が効かない分、自然治癒能力が我々よりも高いのかもしれません」
ユセリアは眉間に皺を寄せたまま言った。
「……それは良いこと、でしょう?」
不安に駆られた為か、ユノウの口調は兄妹のそれだったが、ユセリアもそれを咎めることはしなかった。
キアはじっとユセリアの次の言葉を待った。
「――判らない。前例がないということは、予測も付きにくい。あの毒は致死量には達していたが、解毒薬が効いてれば二、三日で意識は戻った筈。それがキアの場合は二十日…。確かにここ数日の回復具合は普通ではありえない。こう言ってはなんだが、効率がいいのか、悪いのか…」
解毒薬がなかった昔はこの毒で亡くなる者は多かった。そこから生還したキアは奇跡と呼んで差し支えないだろう。
しかし今は薬学の進歩によって解毒薬がある。
「前時代の遺物か、お伽話か――」
ネイの言葉が蘇る。
「――とにかく、今は回復することだけに努めましょう」
いつもの丁寧な口調でユセリアは言った。
◆◆
王都の中でも王城に次ぐ、敷地面積の広さと豪華さを誇るガストン公爵邸は今日、白い花と祝いの言葉に溢れていた。
眩しい程の晴天の中、手入れの行き届いた庭園は今日の為に開放され、様々な種類の白い花で飾られている。中央には祭壇が設けられ、多くの招待客が見守る中、新郎新婦の誓いの儀式が執り行なわれた。場はそのまま宴へと移り、招待客の数も増える一方だ。
花嫁の父であるガストンはゲストからの挨拶の対応に追われていた。しかし本当の意味で末娘の結婚を喜んでいる人間は妻以外、皆無だ。此処に集まる人間は皆、王弟である自分の持つ権力に恐れているか、あやかりたいかのどちらかだ。
次から次へと訪れる祝辞の合間に、執事から耳打ちされる。この場を妻に任せ、ガストンは執事を伴い応接室に向かった。
応接室からは楽しそうな笑い声が漏れる。ノックの後、執事が扉を開ける。
「――これは、ネイリーク殿下。わざわざのお越し、ありがとうございます」
中央のソファーに座っていた甥は微笑みを湛えながら立ち上がった。その後ろには彼の腹心の騎士が控えている。
「叔父上、ご無沙汰しております。こちらこそ、主役のお二人を独占して申し訳ない」
これ以上はないと言える程の美しい所作で、ネイリークは礼をした。
ソファーにいたのは花嫁である娘と、やがて自分の跡を継がせる新郎で、それは楽しそうに笑っていた。
「お前達此処にいたのか」
「久しぶりですものね。子供の頃のお話をしていたの」
「ネイリーク殿下、是非またサラのお転婆話を聞かせて下さい」
「ええ」
ネイリークとガストンに礼をして、二人は部屋を辞した。
「サラ嬢は綺麗になられましたね。花婿も実直そうで、叔父上も安心でしょう」
ガストンは執事に新しくお茶を煎れ替えさせ、下がらせた。
「中身は子供ですよ。婿も世間知らずですから、まだまだ楽隠居は先ですな」
ネイは笑ってお茶の香りを楽しんだ後、口に含んだ。
「――それに、本当ならあの子は貴方に嫁がせたかったのですがね」
「…相変わらず、叔父上は手厳しい」
ガストンはネイの言葉に大きく笑った。
「祝いの席にお茶など無粋でしたな、ワインを用意させよう」
「いえ、今日はこれで――。叔父上まで独占しては、ゲストに叱られます。叔母上にご挨拶してから帰ります」
「そうか、残念だが…楽しみはまたの機会に取っておこう……ああ、ネイ――」
ネイはガストンに一礼し、扉に向かうところだった。
「ますます――義姉上に似てきたな……」
先程までの紳士的な笑みを消し去り、ガストンは舐めるような目でネイを見た。
ホーンが扉を開ける。
「――お酒は程々に、叔父上」
ネイは最後までその微笑みを崩さなかった。
長い廊下を歩いていると、前を歩くホーンが止まる。
「一言でいい」
人々の笑い声が此処まで届く。
「一言、お前が命じてくれたら、今この場でもあの男の首を切り落として、汚らわしい目を潰してやる…」
ホーンの声は僅かに震えていた。
「――駄目だ」
視界に入る、眩しい程の白い花が、ネイには赤く染まって見えた。
「あれは、私の獲物だ」
「自分の娘の結婚式に、甥殺しか。……つくづくだなぁ、公爵様は」
馬上でホーンは剣を抜いた。
ガストン邸を出てから暫くして人通りの少ない林道に入ってすぐ、武装した数十人もの兵士達に囲まれた。ガストンが仕掛けてくることには気付いていた。
先程出されたお茶に薬が入っていたことも。飲んだふりをしたが、ネイは幼い頃から毒に耐性がある。
ネイは自分に向けられた鋭く光る剣先を前にしても、その表情を変えることはなかった。
――ガギィィンッ
跳ね返された剣は弧を描き、地面に突き刺さった。
「……なっ」
先陣をきろうとした兵士は、思わず声を漏らした。
現れたのは黒装束だったが、姿を確認する前に視界は真っ赤に染まった。
兵士が倒れたのを合図のように、一斉に馬上のネイ目掛けて襲い掛かった。
自分の傍でホーンが剣を振るう中、ネイの視線はただ一点に注がれていた。
次々と切り捨てる姿は、もはや人間のそれではなかった。
舞うような血飛沫の中、黒い獣が牙を剥く。首元には艶やかな、薄紫。
「――殺すな」
寸での所で剣を持つ手が止まる。
最後の一人となった兵士は、全身を震わせながら、腹の傷のあまりの痛みに気絶する。
数十人いた兵士達はこの者以外、皆、絶命していた。
剣の血を払い、ゆっくりと視線を馬上のネイへと向ける。
「その男には、此処であったことを伝えさせる」
けれど長くはもたないだろう。
息一つ乱れることなく佇むキアは、その目だけをギラギラと光らせていた。
ネイも、ホーンもその目に魅入られる。やがて瞼が閉じられるまで。
「――おっと」
気を失ったキアを、控えていた《影》とホーンが支える。
「…まだ不完全か」
頭の上から聞こえた声に、ホーンは顔を上げた。
ネイの視線の向こうで、夕陽が暮れようとしていた。
陽も明けきらない刻限だった。
「……目を、どうされたのですか」
いつも馬上でキアを背にする男は、右目に眼帯をしていた。
「なにも。キア様がお気に掛けることではありません」
キアはユセリアに視線を移すが、彼も何も口にしない。
当初心配された程には、身体の回復に時間はかからなかった。身体に不安はなかったが、片目を無くした男の姿は、キアの心を波立たせた。
否定したいのに、出来なかった。
「私の…せいですね」
男の目は揺るがない。 …ああ、おそらく一生、この男は認めないのだろう。
「不安ですか」
ユセリアの言葉に反応したのは、男の方だった。
「足手まといと判断された時は、どうぞ切り捨てて下さって結構です」
そう言うと男はキアの足元に跪いた。傍に控えていた者達もそれに倣う。
「それでもキア様の不安を拭えないのでしたら、今此処で、この首撥ねて下さい」
黙ったままのユセリアは、この成り行きを静観するつもりらしい。
……何故、自分に対してそこまで。
そう聞こうとしたのに、零れた言葉は全く違っていた。
「――名前を聞いても?」
「…我らは俗世の名を捨てました。ただ《影》と」
「……ではいつか、その名を教えて下さい」
男は息を飲んでキアを見上げるが、もう何も口にせず、深く頭を下げた。
ただユセリアだけが、苦く顔を歪めていた。
馬に乗り、いつものようにユセリアから剣を渡される。
「今日おそらく、ネイ様はお命を狙われます」
ユセリアの目は少し青みがかっている。深い、まだ見たことのない、海。
「どうかあの方をお護り下さい」
言葉にする代わりにキアは頷いた。
走りだすとユセリアの姿もノース城も、小さくなっていった。
さっきまで香っていた花の香りは、鉄錆の匂いにあっという間に打ち消された。
「――殺すな」
ドクン。
目を閉じたくはないのに……。
それなのにいつも身体は、言うことを聞いてはくれない……。
いつの間にか慣れてしまった部屋で目覚める。
さっぱりした感覚に、身を清められ着替えも済まされたとわかる。…最近こんなことばかりだと自嘲していると、ノックの音がした。
「キア様、おはようございます」
眩しい程のユノウの笑顔に救われる。
「…おはようございます」
ユノウはカーテンを開ける手を休めずに言った。
「今日の朝食は別室になります」
「?……はい」
悪戯っぽく微笑まれて、キアは戸惑った。
「さあ、参りましょう」
初めて入ったその部屋には、二十人くらいは楽に座れそうなテーブルが置かれ、侍女達が配膳の用意をしていた。
ネイは、その長い指で繊細に柄が描かれたカップを持ち上げるところだった。
「おはようございます。キア、貴女はこちらに」
ネイの斜め前に座るユセリアが、自分の隣の席を指した。
思考は停止したまま、侍女に促され席についた。
「キア」
「はいっ」
思わず、大きな声を出してしまい、顔が赤くなるのを感じた。それを気にもせずネイは続けた。
「私からの言伝を覚えてるか?――それともホーンの怠慢か?」
「俺は伝えたぞ、きっちり」
いつの間に来たのか、ホーンは眠た気にユセリアの向かい側に座った。
…言伝…?キアは、はっと立ち上がった。
「ネイリーク様、おはようございます。ユセリア様もホーンも、おはようございます!」
終いに向かう程声が大きくなっていくのを、キアは止められなかった。
固まる三人。
「――ふっ」
堪らないと言うようにユノウが吹き出すと、それを合図に侍女達も小さく笑い出した。それは嘲笑ではなく、ほほえましいものを見ると自然に出る笑みだった。
「あぁ、朝から腹痛てぇ…。張り切り過ぎだろうよ、お前」
ホーン以外は。
「気にしなくていいですよ、キア。さぁ、座って」
「はい…」
また間違ったらしい。気落ちしたまま再び席について、そっとネイの様子を伺った。
「…及第点は、くれてやる」
表情も言葉もぞんざいだったが、声音は柔らかかった。
「あ」
ホーンがキアを見て、スプーンを空中で止めた。
「今……笑った」
「?」
キアは小首を傾げた。
ホーンやユセリア、ネイまでにも注目され、キアはいたたまれなくなる。
「ホーン様、女性に対して失礼ですよ」
ユノウが助け舟を出す。気付けば、他の侍女達は皆下がっていた。
「私は何度も拝見してます」
何故か得意げに言うユノウに、ユセリアが苦笑する。
「気に入らねぇ」
「ホーン…。大人げないですね、そんな笑顔くらい」
「違う!ネイが『様』付けなのは良いとして、ユセに付けて、俺に付けないのは気に入らん!」
ホーンはスプーンを振り回しながら訴えた。その剣幕にキアは圧され、ユセは呆れ、ユノウは吹き出し、ネイの眉間には皺が寄った。
…確かにユセリアからは再三のように、敬称付けは要らないと言われた。先程の挨拶はつい出てしまっただけで、ユセリアとホーンを区別した訳ではなかったのだが。
「キア!言っとくが位でいったら、ユセより俺のが上なんだからな」
「そうなんですか!?」
「位よりも人徳でしょうね」
「んだと?…キア、目ぇ真ん丸くして驚いてんじゃねぇぞっ」
「あぁ駄目、可笑し過ぎて我慢できない」
「――お前達、煩い」
最後はネイが、ユセリアもホーンも敬称不要、とキアに命じて、この場は収束した。
流れる雲が月を掠めていく。
キアは夜中の庭園を、一人歩いていた。こんな時間に一人で、寝間着の上に薄手の毛布をかけただけの姿で、ユノウやユセリアに知れたら大目玉だろう。
夜目がきくキアは、迷いなく歩いて行く。庭園には警備上に必要な最低限の松明が、等間隔に焚かれていた。ここに来るまで見回りの兵士一人とも、会うことはなかった。
やがて六角形の屋根が見えた。壁のない東屋には、休憩が出来るようにテーブルと椅子が置かれている。
短い階段をあがると、椅子に誰かが座っていた。
気付けばキアは足を止め、月明かりに淡く照らされたネイに見入っていた。
ここに彼が居る気がした。知っていて来たにも拘わらず、いざ目の前にするとすぐにでも引き返したくなった。そんな自分の意気地のなさを見抜いているように、ネイは言った。
「座ったらどうだ」
こう言われては、もう逃げることは叶わない。キアは覚悟を決めて東屋の中に入った。
テーブルにはネイが持って来たのだろうランプが置かれていたが、灯は消されていた。雲がきれた月明かりは庭園に、東屋に降り注がれる。
沈黙が場を支配するが、キアにとっては不思議と苦痛ではなかった。
ネイには怖い思いをさせられたというのに。
一度目は、喋れ、と。
二度目は、怪我をしたことを。
そっと隣のネイを見る。
寝間着だろう白いシャツの上に、黒いマントを無造作に羽織り、黒髪と相俟ってその姿はまるで、闇の使者のようだ。
けれど、決して闇には溶け込まない。
「やっとか」
ネイの呟きは耳に届いてきたが、その意味が判らず戸惑う。
「聞きたいことがあるのだろう」
月を見上げたまま、ネイは言った。その表情までは判らない。
聞きたいことは山ほどある。
「何故、誕生日を?」
「お前のことは先帝から聞いた」
思いがけない名が出てきて、キアは聞き返した。
「先帝…様?」
「私の祖父だ」
言葉が出ない。
では、ネイは現皇帝の子……?
誰もそんなこと言ってなかった。教えてくれなかった。いや、違う。知ろうとすれば気付けた筈だ。
ホーンも、ユセリアも、ユノウも、……ネイだって、私が聞きさえすれば、きっと答えてくれたろう。
「皇帝は認めたくはないようだが、一応、王位継承権、第一位だ」
では、長子。今、何かあれば、彼が次期皇帝――。
驚いたが説明もついた。ネイの、人を従わせる力、周りとは違う洗練された、たたずまい。そして、威圧感。
本当なら、こんな風に隣に在ることなど、許されない人だ……。
キアはそれまで、ネイの横顔を見つめたまま話を聞いていた。その視線をずらそうとした時、今度はネイがキアに視線を寄越した。その冷えた目にあっという間に捕らえられ、息苦しさを覚える。
「お前の両親、兄弟、祖父母、一族を殺したのは皇帝と側近達だ」
あまりにも唐突な言葉に、すぐには理解出来なかった。
「先帝が救えたのは、産まれたばかりのお前だけだった」
寒くもないのに、背中に何かが這うような感覚がして震えた。指先も凍えたように冷たい。
ネイは静かに語り出した……。
先帝と息子である皇帝とは昔から確執があり、その座を狙っていた息子にとって、先帝に仕える一族は邪魔だった。
代々、王にのみ仕えてきた、「人ならざる力を持つ」闇の一族。決して表には出て来ない、王しか知り得ない忠実な僕。
地位を追われ幽閉されながらも、先帝は一族の生き残りの赤子を息子から護ろうとした。いよいよ自分の命が危ないと感じた先帝は、側近達に赤子を託し、かつて建てた離宮に、その身を隠すよう命じた。
先帝の遺言は二つ。
一つは秘密を守ること。
一つは訓練を施すこと。
たとえ一族の子として産まれたからと言っても、その素質を持っているだけで、訓練を積まなければ才能は開花しない。
――遺言は忠実に守られた。
「先帝は死の直前、私に約束を誓わせ、一族に関することと、お前の存在と、そしてあの離宮の場所を教えられた。――六歳の時だった」
キアもネイも、気付けば欠けた月を見上げていた。
「《影》」
風が動いたかと思うと、ネイの背後に《影》が跪いた。一瞬、光ったのは片方だけの目。
「離宮でお前を訓練していたのは、先代の《影》。その長だ」
「先生が。いつからか、来なくなったのは……」
「病に臥され、そのまま――」
覚えているのは老齢の男性で、とても厳しかったことだけだ。剣の持ち方から算術に至るまで。「先生」と呼んで…。
「お前達一族と、《影》達は似ているようで全く違う。一族は、仕える主を自分達が選ぶ」
「選ぶ?」
「仕えるに値するか。たとえ王であっても値しないと判断されれば、彼らは現れない。先帝の話では、選ばれる王の方が少なかったらしいが」
自嘲するネイに《影》は眉を寄せた。
「では、先帝様は」
「選ばれた……。一族を得た王は例外なく、後に賢王と呼ばれる偉業を成し遂げる。開国当時、属国に過ぎなかった我が国が、今は帝国となったのがその証拠」
近年、長く続いた戦乱を治めたのは先帝だった。先帝の指揮の下、闇の一族は敵国の指導者達を一掃した。それは凄惨をきわめ、人々の反発心をも、根こそぎ奪い去った。
「一族達の……最後は」
キアの掠れた声がネイに問いかけた。
「人が近付けない山深くに一族は隠れ住んでいた。彼らが飲み水としていた川に、毒を流したんだ」
月が雲に隠された。
闇がキアを飲み込む。ネイの声だけが辺りに響く。
「毒で弱ったところに兵を送られ、抵抗する間はなかったろう……。何故彼ら程の者達が毒に倒れたのかずっと不思議だったが、先日のキアを見てようやく理解出来た」
薬の効かない身体。
「裏切り者がいたか、騙されたか――」
完璧な強者などいない。それが人であるかぎり、綻びは避けられない。
賢王が、我が子に殺されたように。
「ネイリーク様は、私を使って皇帝になられますか」
キアは不遜な言葉だと自覚しながら、覚悟を持って聞いた。
ネイがこちらを振り返る。風が出て雲が流れ出すと、それに合わせゆっくりとネイの身体を照らし出した。徐々に浮かぶその顔は妖艶な笑みを湛えていた。
「――私はまだ、お前に選ばれてはいない」
穏やかな陽が木々や花を彩る。
数時間前、ネイと過ごした東屋にも陽が差し込む。
ネイは今朝早くノース城を発った。
キアはあれから一睡もしないまま、東屋で朝を迎えた。
キアの姿を探しに来たユノウに声を掛けられるまで、朝が来たことにも気付いていなかった。
ユノウもユセリアも、東屋でのことを知っているのか、常とは違うキアの様子を見ても何も言っては来なかった。
この城に連れて来られて数日後、ユセリアに黒装束と剣を渡された時、自分はこの為に喚ばれたのだと理解した。だからネイは自分を「キア」と呼ぶのだと。
古代語で「刃」の意を持つ「キア」。
自分に名がないことを自覚したのは、あの時だ。あの日、離宮でホーンに名を聞かれた時。
それまでは、呼ばれる必要がなかったので意識することもなかった。
名付ける前に襲われたか、それを知る者がいないからか。その後、先帝も側近達も名付けないまま。
「キア」とは一族の総称で、《影》と同じようなものなのだろう。
「……はっ…」
そこまで考えて掠れた笑いが零れる。
自分だって知らないじゃないか。
かつての主の遺言とはいえ、毎日、毎日、何年も自分の世話をしてくれていたというのに。
親も兄弟も自分にはない。
ネイから話を聞いてからもその事実は変わらない。そのはずが……。
花の間に座り込み、土に置いたままの手の上を蟻が這う。蟻は易々とキアの手を越え、餌を探しに行く。
もう、認めてしまおう。
求めて、焦がれていることを。
会いたい。名を知りたい。その名で呼ばれたい。
無駄なことと笑う自分がいても、それを求めてやまないことを。
「キア様」
見上げると庭師がすぐ側まで来ていた。穏やかな笑みは、見ているだけで安心出来る。キアは草を抜く手が長い間止まっていたことに気づく。
庭師は、また顔を伏せてしまったキアを見つめた。
「すべて……貴女のお心のままに」
キアは頭上を見上げた。キアを見る庭師の目は、いつもと同じで強く、暖かい。長い間、様々なことを見聞きして経験してきたからこその目。キアは立ち上がった。
「名をお伺いしていませんでした」
キアは少し顔を赤らめた。庭師は更に笑みを濃くし、
「ハンツと申します」
「ハンツ様」
「――私は、赤ん坊の頃の貴女にお会いしたことがあります」
一瞬、ハンツは顔を歪めたが、皺が深く刻まれた顔の変化にキアは気付かなかった。
「ご立派になられて」
眩しげに見つめてくるハンツに、キアは胸がいっぱいになった。その時ふと以前聞いた会話を思い出した。
「果樹園のピンをホーンが盗んで、ハンツに叱られ、ネイとユセがその巻き添えを…」
ハンツは目を見開きながら大きく笑った。
「ハッハッ、そんなこともございましたな。子供の頃のあの三人には手をやいたものです」
そう言いながらもハンツの顔は優しかった。
「ユセリアは、ハンツ様の口調を真似ているのですね」
ハンツは再び破顔した。
「良い観察眼ですな」
親を亡くしたユセリアとユノウを引き取った学者。……王子の教育係。
「あれ達の父親とは古い友人でしてな」
遠い目をしていたハンツはキアに向き直り、悪戯っぽい目をした。
「ホーンのあの口の悪さは、昔のネイリーク様を真似ているのはご存知かな?」
「えっ?」
「いろいろあったのですよ。いろいろ…」
意味ありげに呟きながら、ハンツは笑った。
その時、急に強い風が庭園を駆け抜け、キアは毛が逆立つのを感じた。
「……キア様?」
気遣うようなハンツの声に、キアは笑うことは出来なかった。
「――《影》」
凜としたキアの声に応えるように、木々の間から黒装束の男が現れ一礼すると、姿を消した。
「ハンツ様、城の中に居て下さい」
一瞬で様子が変わり、キアの静かな目に力が宿りだすのを、ハンツは見ていた。
「城門は越えさせません」
何も知らないように、花が可憐に揺れていた。
皇帝からの呼び出しを受け、王城に着いたのは夕方近くだった。
従者達を伴い、ネイは皇帝の執務室へと、長い廊下を進む。広い城内は静まり返り、隅々まで磨かれた様は、人というものをを拒絶しているよう感じられた。
皇帝が過ごす私室や執務室のある棟は城の奥にあり、限られた者しか入ることは許されない。
ネイも普段は王城内で暮らしているが、この棟に入ることはほとんどなかった。後ろに続く従者達も緊張しているようだ。
「ネイリーク殿下」
振り返ると叔父のガストン公爵が、その顔に笑みを貼付け立っていた。
「お父上は不在ですぞ。先程、視察に向かわれました」
「視察は明日からでは?」
「彼の国へは途中、悪路ですからな、余裕を持って早めに発ってはとご助言致しました」
ネイは無表情のまま、ガストンの話を聞いていた。
「そうですか。皇帝は私を呼び出したことを忘れて仕舞われたらしい」
「それは残念な。皇帝は常にお忙しくしておいでですから」
「では、私は戻ります」
礼をすると、ネイは引き返そうとした。――が、次の瞬間自分の近くにいた従者の胸倉を掴み、盾にするように引き寄せた。
――ダァンッッ 。
「!?っ」
従者の背中には矢が刺さっていた。
残りの従者達は驚きながらも素早く剣を抜き、護るようにネイの前に立つ。
周りは兵士達に囲まれていた。
ネイは掴んでいた従者の胸倉を離した。従者はそのまま崩れ落ちる。
ネイはこの従者の様子がおかしいことに気付いていた。皇帝の棟に入ったからかと思っていたが、ガストンが現れてからそれは酷くなった。
襲われることを知っていたからだろう。
「なんと運のいい。いや、こうでなくては」
何が楽しいのか、ガストンはネイを褒めたたえるように言った。
「なんの真似です、叔父上」
冷静なネイの様子を満足げに見遣ってから。
「私が相手をしてあげるよ、ネイ」
ガストンの合図で兵士達の包囲網が狭まる。
真っ赤な西日がネイ達を染め上げていた。
すぐにユセリアの自室へ急いだ。彼は膨大な書類に囲まれていた。
「城の周りの…様子がおかしい。《影》を行かせました」
私の言葉に、ユセはしばし考え込む。
「…動き出したようですね」
「心当たりが?」
ユセは書類でいっぱいな机から、それとは別のテーブルへ移動した。テーブルの側の壁には、この辺りだろう、地図が貼られていた。
「これがノース城です。此処から東に二十キロ行くと町があるのですが、この一月で、急に柄の悪い輩が増えたと報告があがっています」
「急に?」
「誰かが意図的に集めていると見て、間違いないでしょうね。彼らは夜になると町に来て、朝になると近くの森へと消えて行くそうです」
そこが賊達のねぐら。
「此処を襲わせる」
「おそらく」
「」