9
「葵! 雨が止んだよ。お外に絵を描きに行こう!」
「うんっ! お父さんと行く!」
日曜日には父と一緒に、スケッチブックを抱えて川原へ行った。
一面に広がる緑のクローバー。足元で揺れるシロツメクサの花たち。
目の前の川は、二人の時間と一緒にゆるやかに流れ、青い空には白い雲がふわりと浮かんでいる。
描きたいものはたくさんあった。鉛筆やクレヨンを持てば、勝手にすらすらと指先が動いた。
「お父さん、できた! 見て!」
「おっ、今日はお花を描いたんだね?」
「ほら、ここ、てんとう虫さんも描いたんだよ」
「葵に描いてもらって、きっとてんとう虫さんも喜んでいるだろうなぁ」
そう言って笑った父が、葵の頭をなでてくれた。
優しくて大きな父の手は、いつも絵の具の匂いがした。
「夢?」
薄闇の中で目を覚ます。父の夢を見たのは久しぶりだ。
幼い頃の夢を見た後は、幸せな気持ちと寂しい気持ちが混ざり合う。
布団をかぶり、無理やり目を閉じると、雨の音が耳に聞こえた。
関東地方が梅雨入りしてから、雨はずっと降り続いている。
この雨、いつ止むんだろう。
止まない雨はないはずなのに、このままずっと、雨の中に閉じ込められてしまうのではないかって、なぜだか不安な気持ちになった。
「眠れない……」
喉、乾いたな……冷蔵庫にペットボトルがあったはず。
葵はのろのろと布団から起き上がると、部屋のドアを開けた。
雨の音だけがかすかに響く薄暗い廊下。だけど向かい側の部屋からは、ほんの少し灯りがもれていた。
まだ、起きてるんだ。
さっき見た時計は午前三時を回っていた。葵はその部屋の前に立ってみる。何も物音は聞こえない。
もしかしたら寝ているのかもしれない。だけどもしかしたら、絵を描いているのかもしれない。
そう思ったら、胸の奥が急にざわざわとしてきた。
愁哉くん、まだ起きてたの? 私も眠れなくて……。
下手なセリフを頭の中で繰り返す。
バカだな。何を考えているんだろう。こんな真夜中に、男の人の部屋に入ろうとしているなんて。
冷静に考えればおかしいのに、頭より先に体が動いた。
「愁哉、くん?」
右手でドアをノックする。
「愁哉くん、起きてる?」
もう一度ドアを叩くが返事はない。
やっぱり眠っているのかもしれない。開けたらダメだ。のぞくなって言われているし。勝手に寝ている人の部屋に入り込むなんて、どういう神経しているのかと思う。
だけど……五月の日曜日に聞いた言葉。
――その人にはもう、婚約者がいるから。
そしてあのデッサン室で見た、女の人の絵。
どうしてもその二つが、葵の頭の中で繋がってしまう。
聞けばいいんだ。はっきりと。
愁哉くんのこと、もっと知りたいからって。
「愁哉くん……入るよ?」
静かにそのドアを開く。雨の音が遠くに聞こえる。
部屋の中は薄暗い灯りがついていた。
よく見ると床の上に、さまざまな大きさの紙が散乱している。
そのどれにも具体的なものは描かれてなく、ただ筆で描き殴ったような色が塗られていた。
「愁哉くん?」
そんな紙の上に、愁哉が仰向けに寝転んでいる。着ているTシャツもジーンズも、腕も顔も絵の具にまみれて。
「愁哉くん……」
もう一度名前を呼んで、その顔をのぞきこむ。
爆睡してる……。
葵がそばにいるのにも気づかないほど。
愁哉のそばに、葵もぺたりと座り込んだ。視線を落として、床の上に散らばっている紙を見る。
「これが愁哉くんの絵?」
葵にはわからなかった。愁哉が何を描きたかったのか。
同じ重ねた色でも、小学生の時に描いたという、あの青い色の絵ならわかるのに。
心がないんだ。嬉しい気持ちも、楽しい気持ちも、悲しい気持ちも、悔しい気持ちも、何も持たないで描くから、心のこもらない絵になるんだ。
「涼子?」
ふと声が聞こえて振り返る。
床に仰向けになったまま、愁哉が葵のことを見ている。
「違う……私は……」
葵を見つめていた愁哉が、ふっと笑いかける。
そしてその手を伸ばすと、葵の体を強引に引き寄せた。
「え……」
窓の外から聞こえる雨の音。
彼の体に染みついた絵の具の匂い。
唐突に触れ合った唇は、熱くて切ない。
「い、やぁっ」
我に返ってその体を突き放す。
「なんで? なんでこんなことするの?」
言い終わらないうちに涙が出た。
こんなにも哀しいのは、この人が私を見ていないって知ってるから。
体を起こした愁哉は、ただ何も言わず、そんな葵のことを見つめていた。