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「葵! 雨が止んだよ。お外に絵を描きに行こう!」

「うんっ! お父さんと行く!」

 日曜日には父と一緒に、スケッチブックを抱えて川原へ行った。

 一面に広がる緑のクローバー。足元で揺れるシロツメクサの花たち。

 目の前の川は、二人の時間と一緒にゆるやかに流れ、青い空には白い雲がふわりと浮かんでいる。

 描きたいものはたくさんあった。鉛筆やクレヨンを持てば、勝手にすらすらと指先が動いた。

「お父さん、できた! 見て!」

「おっ、今日はお花を描いたんだね?」

「ほら、ここ、てんとう虫さんも描いたんだよ」

「葵に描いてもらって、きっとてんとう虫さんも喜んでいるだろうなぁ」

 そう言って笑った父が、葵の頭をなでてくれた。

 優しくて大きな父の手は、いつも絵の具の匂いがした。


「夢?」

 薄闇の中で目を覚ます。父の夢を見たのは久しぶりだ。

 幼い頃の夢を見た後は、幸せな気持ちと寂しい気持ちが混ざり合う。

 布団をかぶり、無理やり目を閉じると、雨の音が耳に聞こえた。

 関東地方が梅雨入りしてから、雨はずっと降り続いている。

 この雨、いつ止むんだろう。

 止まない雨はないはずなのに、このままずっと、雨の中に閉じ込められてしまうのではないかって、なぜだか不安な気持ちになった。

「眠れない……」

 喉、乾いたな……冷蔵庫にペットボトルがあったはず。

 葵はのろのろと布団から起き上がると、部屋のドアを開けた。


 雨の音だけがかすかに響く薄暗い廊下。だけど向かい側の部屋からは、ほんの少し灯りがもれていた。

 まだ、起きてるんだ。

 さっき見た時計は午前三時を回っていた。葵はその部屋の前に立ってみる。何も物音は聞こえない。

 もしかしたら寝ているのかもしれない。だけどもしかしたら、絵を描いているのかもしれない。

 そう思ったら、胸の奥が急にざわざわとしてきた。

 愁哉くん、まだ起きてたの? 私も眠れなくて……。

 下手なセリフを頭の中で繰り返す。

 バカだな。何を考えているんだろう。こんな真夜中に、男の人の部屋に入ろうとしているなんて。

 冷静に考えればおかしいのに、頭より先に体が動いた。


「愁哉、くん?」

 右手でドアをノックする。

「愁哉くん、起きてる?」

 もう一度ドアを叩くが返事はない。

 やっぱり眠っているのかもしれない。開けたらダメだ。のぞくなって言われているし。勝手に寝ている人の部屋に入り込むなんて、どういう神経しているのかと思う。

 だけど……五月の日曜日に聞いた言葉。

 ――その人にはもう、婚約者がいるから。

 そしてあのデッサン室で見た、女の人の絵。

 どうしてもその二つが、葵の頭の中で繋がってしまう。

 聞けばいいんだ。はっきりと。

 愁哉くんのこと、もっと知りたいからって。


「愁哉くん……入るよ?」

 静かにそのドアを開く。雨の音が遠くに聞こえる。

 部屋の中は薄暗い灯りがついていた。

 よく見ると床の上に、さまざまな大きさの紙が散乱している。

 そのどれにも具体的なものは描かれてなく、ただ筆で描き殴ったような色が塗られていた。

「愁哉くん?」

 そんな紙の上に、愁哉が仰向けに寝転んでいる。着ているTシャツもジーンズも、腕も顔も絵の具にまみれて。

「愁哉くん……」

 もう一度名前を呼んで、その顔をのぞきこむ。

 爆睡してる……。

 葵がそばにいるのにも気づかないほど。

 愁哉のそばに、葵もぺたりと座り込んだ。視線を落として、床の上に散らばっている紙を見る。

「これが愁哉くんの絵?」

 葵にはわからなかった。愁哉が何を描きたかったのか。

 同じ重ねた色でも、小学生の時に描いたという、あの青い色の絵ならわかるのに。

 心がないんだ。嬉しい気持ちも、楽しい気持ちも、悲しい気持ちも、悔しい気持ちも、何も持たないで描くから、心のこもらない絵になるんだ。


「涼子?」

 ふと声が聞こえて振り返る。

 床に仰向けになったまま、愁哉が葵のことを見ている。

「違う……私は……」

 葵を見つめていた愁哉が、ふっと笑いかける。

 そしてその手を伸ばすと、葵の体を強引に引き寄せた。

「え……」


 窓の外から聞こえる雨の音。

 彼の体に染みついた絵の具の匂い。

 唐突に触れ合った唇は、熱くて切ない。

「い、やぁっ」

 我に返ってその体を突き放す。

「なんで? なんでこんなことするの?」

 言い終わらないうちに涙が出た。

 こんなにも哀しいのは、この人が私を見ていないって知ってるから。

 体を起こした愁哉は、ただ何も言わず、そんな葵のことを見つめていた。

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