8
春子の家を出て、五月の風の吹く中を、愁哉と並んで歩く。
ゆるやかな坂道は住宅街だ。同じような家のベランダに、たくさんの洗濯物がやさしく揺れている。
坂道を下って少し歩くと、葵たちの通う美術大学がある。駅はその先。少しずつすれ違う人も増えてくる。
駅はそんなに大きくはない。東京のはずれの、のどかな駅だ。
だけど駅前には何軒か、学生が好みそうなおしゃれなカフェや雑貨店、ちょっとした画材店などが並んでいる。
葵の隣を歩く愁哉は、余計なことを話さなかった。
「ここが本屋」「ここが画材屋」そう言って、店の前を通り過ぎるだけだ。
葵もまた、それをうなずいて聞いているだけ。
男の人と歩くのは苦手だ。だけど愁哉と並んで歩くのは、これで三回目。
まだ緊張はしていたけれど、嫌な感じはしない。
腕を組むカップルとすれ違った。入学式の日、愁哉の腕を組んでいた絵里花の姿を思い出す。
彼女いないって本当なのかな? 聞いてみようかな? でもへんだよね、そんなこと聞いたら。
「葵はさぁ」
そんなことを思っていた葵の耳に、愁哉の声が聞こえた。
「なんで彼氏いないの?」
「えっ」
「いないんだよな? もちろん」
もちろんってひどくない? いないのは確かなんだけれど。
「なんでって言われても……別に欲しいと思わないし」
「もしかして男嫌い?」
「嫌いっていうか、苦手……なの。中学生の時、男の子に嫌われちゃってから」
「好きだったの? そいつのこと」
好き……だったのかな? よくわからない。
あれは中学二年のバレンタインの季節。クラスの女の子たちで、必ず誰か一人、男の子にチョコをあげようって話になった。
「葵は誰にあげるの?」
「え、私は好きな人、いないし」
「うそぉ、葵は坂田くんのこと好きでしょ? よく坂田くんのこと見てるじゃない」
「よし、決まり! 葵は坂田くんにあげること!」
「え、でも……」
結局嫌だとは言えずに、みんなに流されるままチョコを作った。
同じクラスの坂田くんのことは、嫌いではなかった。彼のことをこっそり見ていたのも本当だ。
いつも元気で、サッカーが上手くて、カッコイイなぁって。
だけどそれが『好き』なのかどうかはわからなかった。
バレンタインの当日、友達に背中を押されて、坂田くんにチョコを渡した。坂田くんは男友達に冷やかされながらも、そのチョコを受け取ってくれた。
だけどその日の放課後、聞いてしまったのだ。
「坂田ー、お前早川からチョコもらったんだって?」
「好きなの? あいつのこと」
友達の声に答える坂田くんの声。
「まさかぁ。あいつおとなしすぎて、何考えてんかわかんねぇし。そのくせ俺のことチラチラ見て、キモいっつーんだよ」
教室の中に響く笑い声。彼らが去った後、こっそり教室のゴミ箱で、自分の作ったチョコレートを見つけた。
好きだったのかな。坂田くんのこと。いまだにそれはわからないけど、もうあんな思いはしたくない。
「あのさぁ、俺から言わせると、その男の方が最低なんだけど」
今まで誰にも話したことはなかったのに、葵はその話を、全部愁哉に話していた。
「でもまぁ仕方ないか。中学生のガキだったらなぁ。もしかしてそいつ、実はお前のことが好きだった、とかじゃねぇの?」
「それはないよ……そのあと少しして、他の女の子と付き合い始めたから、彼」
葵はそう言って、小さく息を吐く。
わかってる。本当はわかってるんだ。いつまでもそんな昔のことに、こだわっているのはヘンだって。
「おかしいよね、私。そんなことにいつまでもこだわってて」
「うん。おかしい。そんなバカな男のせいで、あんたが男嫌いになる必要はない」
「でも私の、こんな後ろ向きな性格は変わらないし」
あ、また。こういうところがきっと、坂田くんも嫌いだったんだ。
うつむいたまま日曜日の町を歩く。賑やかな町を歩く人たちは、誰もがみんな楽しそうなのに。
「俺もそうだよ」
突然の声に顔を上げる。隣の愁哉が前を見つめたままつぶやく。
「俺も過去にばっかこだわって、いつまでも前に進めない情けないやつだから」
「うそ……」
「ほんと」
そう言って笑った愁哉が、ゆっくりと葵に振り返る。
「こんな自分のこと、時々全部消したくなるほど嫌になる」
葵は黙って愁哉を見る。もう一度小さく笑った愁哉が、すっと葵から視線をそらす。
誰もが羨むものをいくつも持っていて、たくさんの人から好かれている人。
そんな彼が、消したくなるほど自分を憎むのは、どうしてなんだろう。
「愁哉くんには……」
五月の風の中、葵の声が静かに流れる。
「好きな人が、いるんでしょ?」
どうしてだかわからないけど、なぜだか今、そう思った。
「その人とは、付き合えないの?」
答えは求めていなかった。きっとまた、はぐらかされると思ったから。
だけど葵の耳に、愁哉の声がはっきり聞こえた。
「付き合えないよ。その人にはもう、婚約者がいるから」
ゆっくりと顔を上げ、隣を歩く愁哉の横顔を見る。
愁哉はどこか遠くを見つめたまま、ほんの少しだけ口元をゆるませた。