表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/28

 青空の広がる日曜日、葵は春子の家の片づけを手伝った。

「もうね、ずっと使ってなかったのよ、あの部屋」

 春子の言う『あの部屋』を、葵は初めて見せてもらう。

 一階のリビングから少し離れた『離れ』のような部屋。

 庭の緑に囲まれた、かつてアトリエだったというその部屋は、今はただの物置になっている。

「昔はここに子どもたちを集めて、絵画教室を開いていたんだけどね」

 春子が懐かしそうに周りを見回す。

 実は春子も絵を描く人で、葵の父も小さい頃、そんな春子に絵を習っていたのだ。

「おばさんは、もう絵を描かないの?」

「そうねぇ……」

 春子はそばにあった、どこかのお土産のような、謎めいた置物の埃を払いながらつぶやく。

「私はもういいかな。私の代わりに、愁哉くんと葵ちゃんが描いてくれるから」

 春子がそう言って幸せそうに微笑む。だけど葵はなんだか申し訳ない気持ちになっていた。


「でも私、絵上手くないの」

 前から感じていたことだが、美大に通うようになってはっきりわかった。

 周りの人の描く絵が、どれも自分より上手く見える。

 父はいつも褒めてくれたけど、所詮私はただの「絵を描くのが好きな子」というだけなんじゃないかって。

 葵は埃をかぶった古いキャンバスを手に取りつぶやく。

「愁哉くんみたいに上手ければいいんだけど……」

 そこまで言って気がついた。葵はまだ、愁哉の描いた絵を見ていない。

 周りの噂ばかり耳に入って、自分のこの目で確かめたことはないのだ。


「ねぇ、おばさん。おばさんは愁哉くんの絵を見たことあるの?」

「あるわよ」

 顔を上げて春子を見る。

「私昔、愁哉くんに絵を教えていたことがあったのよ。あの子が小学生の頃だったわねぇ」

「え……」

「教えるっていっても、教えることなんて何にもないんだけどね。この部屋でやってた絵画教室に、愁哉くんも来ていたことがあったの」

「そう、だったんだ」

 知らなかった。この二人にそんな関係があっただなんて。

「でも愁哉くんのお父さんって、あの三國賢介さんなんでしょ?」

「そうよ。だけどあのお父さんは絵を教えたりしないから。ただ描き上がった作品を見て、批評するだけ」

「批評……」

 春子は手に持っていた置物を、値踏みするように見つめてから、それをゴミ袋の中へ突っ込んだ。

「お父さんは厳しい人でね。『こんな下手くそな絵しか描けないのか』って、愁哉くんの描いた絵を破り捨てたりしちゃうの。あの子の目の前でね」

 葵は自分の幼かった頃のことを思い出す。父はいつも笑顔で葵の描いた絵を褒めてくれた。

 葵の描いた絵を見ると、幸せになれるって。


「だからね、私はいつも愁哉くんに言ってたのよ。絵には上手いも下手もないんだよ。自分の描きたいものを、描きたいように描けばいいんだからって」

 父がいつも言っていた言葉だ。父もまた春子から、その言葉を聞いたのだろう。そして葵は、そんな父に見守られながら大きくなった。

「でもそんな私の考えは、お父さんには伝わらなかったんでしょうね。愁哉くんは一年もしないうちにここへは来なくなって、どこか有名なアートスクールへ通い始めたって聞いたわ」

 春子が手に取ったキャンバスの埃をはらう。絵画教室の生徒の絵なのだろうか。頼りない線で描かれたどこかの風景が、描きかけのまま終わっている。

「だけどそれで良かったのかもしれない。それからすぐに何かのコンクールで、愁哉くんは賞をもらってた。お父さんから譲り受けた才能もあったんだろうけど」

「私は……それでいいとは思わない」

 春子が手を止めて葵を見る。

「それで愁哉くんが幸せならいいけど……きっと愁哉くんは幸せじゃないと思うから」

 そこまで言ってはっと口を閉じる。

 何言ってるんだろう、私。愁哉くんのことなんて、何にも知らないはずなのに。


「そうよねぇ……」

 春子が静かに微笑んで葵に言う。

「幸せだったら、きっとこんな家にいないわね」

「愁哉くん、春子さんに拾ってもらったって言ってた」

「そうよ。小学生以来会っていなかったっていうのに、突然二年前に訪ねてきたの。雨の中、びしょ濡れになってね。『どうしたの?』って聞いたら『行く所がない』って言うじゃない。しょうがないから『だったらここにいれば?』って。それからずっといるのよ、あの子」

 春子がそう言ってふふっと笑う。

「お父さんと喧嘩でもしてきたのかしらねぇ。でも学費はお父さんが払ってるみたいだし、ちゃんと学校へも行ってるから、親子の縁は切れてないんでしょ? うちに下宿代も入れてくれてるしね」

「そうなんだ……」

 父親に反発して家を出て、でもその父親のお金で学校へ行って。

 結局はそれで上手くいっているのかもしれない。本当に父親のことを恨んでいるのなら、そのお金で学校へなんて行くはずがない。


「あら、これ」

 春子が一枚の絵を手に取った。

「愁哉くんの描いた絵よ。小学生の頃」

「え?」

 春子の手からその絵を受け取る。

「これを? 愁哉くんが?」

「そうよ。好きなものを描いていいよって言った時のね。こんなの絶対お父さんには見せないでって言われて、ここにしまっておいたの。すっかり忘れてたわ」

 葵はじっとその絵を見つめる。一見それは「絵」というよりも、ただ色のついた紙のようだ。

 画用紙一面、水彩絵の具で塗られた青い色。だけどよく見ると、微妙に色の濃さが違っている。

 淡く柔らかな青から深く強い青へ。色と色が少しずつ重なり合い、一つの風景になる。

 夜の始まりの空の色。でもそれ以外は何も描かれていない。

 ――月。

 そうだ、ここに月を描けばいいのに。白く輝く、丸い月を。

「それ、あとで愁哉くんに渡してあげてくれる?」

「え、私が?」

「お願いね」

 春子がにっこり葵に笑いかける。

 葵は目を落とし、もう一度紙の中の青い夜空を見つめた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ