6
青空の広がる日曜日、葵は春子の家の片づけを手伝った。
「もうね、ずっと使ってなかったのよ、あの部屋」
春子の言う『あの部屋』を、葵は初めて見せてもらう。
一階のリビングから少し離れた『離れ』のような部屋。
庭の緑に囲まれた、かつてアトリエだったというその部屋は、今はただの物置になっている。
「昔はここに子どもたちを集めて、絵画教室を開いていたんだけどね」
春子が懐かしそうに周りを見回す。
実は春子も絵を描く人で、葵の父も小さい頃、そんな春子に絵を習っていたのだ。
「おばさんは、もう絵を描かないの?」
「そうねぇ……」
春子はそばにあった、どこかのお土産のような、謎めいた置物の埃を払いながらつぶやく。
「私はもういいかな。私の代わりに、愁哉くんと葵ちゃんが描いてくれるから」
春子がそう言って幸せそうに微笑む。だけど葵はなんだか申し訳ない気持ちになっていた。
「でも私、絵上手くないの」
前から感じていたことだが、美大に通うようになってはっきりわかった。
周りの人の描く絵が、どれも自分より上手く見える。
父はいつも褒めてくれたけど、所詮私はただの「絵を描くのが好きな子」というだけなんじゃないかって。
葵は埃をかぶった古いキャンバスを手に取りつぶやく。
「愁哉くんみたいに上手ければいいんだけど……」
そこまで言って気がついた。葵はまだ、愁哉の描いた絵を見ていない。
周りの噂ばかり耳に入って、自分のこの目で確かめたことはないのだ。
「ねぇ、おばさん。おばさんは愁哉くんの絵を見たことあるの?」
「あるわよ」
顔を上げて春子を見る。
「私昔、愁哉くんに絵を教えていたことがあったのよ。あの子が小学生の頃だったわねぇ」
「え……」
「教えるっていっても、教えることなんて何にもないんだけどね。この部屋でやってた絵画教室に、愁哉くんも来ていたことがあったの」
「そう、だったんだ」
知らなかった。この二人にそんな関係があっただなんて。
「でも愁哉くんのお父さんって、あの三國賢介さんなんでしょ?」
「そうよ。だけどあのお父さんは絵を教えたりしないから。ただ描き上がった作品を見て、批評するだけ」
「批評……」
春子は手に持っていた置物を、値踏みするように見つめてから、それをゴミ袋の中へ突っ込んだ。
「お父さんは厳しい人でね。『こんな下手くそな絵しか描けないのか』って、愁哉くんの描いた絵を破り捨てたりしちゃうの。あの子の目の前でね」
葵は自分の幼かった頃のことを思い出す。父はいつも笑顔で葵の描いた絵を褒めてくれた。
葵の描いた絵を見ると、幸せになれるって。
「だからね、私はいつも愁哉くんに言ってたのよ。絵には上手いも下手もないんだよ。自分の描きたいものを、描きたいように描けばいいんだからって」
父がいつも言っていた言葉だ。父もまた春子から、その言葉を聞いたのだろう。そして葵は、そんな父に見守られながら大きくなった。
「でもそんな私の考えは、お父さんには伝わらなかったんでしょうね。愁哉くんは一年もしないうちにここへは来なくなって、どこか有名なアートスクールへ通い始めたって聞いたわ」
春子が手に取ったキャンバスの埃をはらう。絵画教室の生徒の絵なのだろうか。頼りない線で描かれたどこかの風景が、描きかけのまま終わっている。
「だけどそれで良かったのかもしれない。それからすぐに何かのコンクールで、愁哉くんは賞をもらってた。お父さんから譲り受けた才能もあったんだろうけど」
「私は……それでいいとは思わない」
春子が手を止めて葵を見る。
「それで愁哉くんが幸せならいいけど……きっと愁哉くんは幸せじゃないと思うから」
そこまで言ってはっと口を閉じる。
何言ってるんだろう、私。愁哉くんのことなんて、何にも知らないはずなのに。
「そうよねぇ……」
春子が静かに微笑んで葵に言う。
「幸せだったら、きっとこんな家にいないわね」
「愁哉くん、春子さんに拾ってもらったって言ってた」
「そうよ。小学生以来会っていなかったっていうのに、突然二年前に訪ねてきたの。雨の中、びしょ濡れになってね。『どうしたの?』って聞いたら『行く所がない』って言うじゃない。しょうがないから『だったらここにいれば?』って。それからずっといるのよ、あの子」
春子がそう言ってふふっと笑う。
「お父さんと喧嘩でもしてきたのかしらねぇ。でも学費はお父さんが払ってるみたいだし、ちゃんと学校へも行ってるから、親子の縁は切れてないんでしょ? うちに下宿代も入れてくれてるしね」
「そうなんだ……」
父親に反発して家を出て、でもその父親のお金で学校へ行って。
結局はそれで上手くいっているのかもしれない。本当に父親のことを恨んでいるのなら、そのお金で学校へなんて行くはずがない。
「あら、これ」
春子が一枚の絵を手に取った。
「愁哉くんの描いた絵よ。小学生の頃」
「え?」
春子の手からその絵を受け取る。
「これを? 愁哉くんが?」
「そうよ。好きなものを描いていいよって言った時のね。こんなの絶対お父さんには見せないでって言われて、ここにしまっておいたの。すっかり忘れてたわ」
葵はじっとその絵を見つめる。一見それは「絵」というよりも、ただ色のついた紙のようだ。
画用紙一面、水彩絵の具で塗られた青い色。だけどよく見ると、微妙に色の濃さが違っている。
淡く柔らかな青から深く強い青へ。色と色が少しずつ重なり合い、一つの風景になる。
夜の始まりの空の色。でもそれ以外は何も描かれていない。
――月。
そうだ、ここに月を描けばいいのに。白く輝く、丸い月を。
「それ、あとで愁哉くんに渡してあげてくれる?」
「え、私が?」
「お願いね」
春子がにっこり葵に笑いかける。
葵は目を落とし、もう一度紙の中の青い夜空を見つめた。