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「ねぇ、あの三國さんと一緒に住んでるってホントなの?」
その日の昼、学食で真奈のことを待っていた葵に、見知らぬ女の子たちが集まってきた。
驚いて顔を上げた葵の目に「ごめんね」と言うように両手を合わせ、舌を出している真奈の姿が映る。
「あ、私たち、真奈と同じ油画なんだけどぉ」
「日本画の子で、あの三國先輩と一緒に住んでる子がいるって聞いたから」
「一緒に住んでるっていうか……ホントにそんなんじゃなくて……」
どうしてしゃべっちゃったんだろう、真奈ちゃんは。
ちらりと真奈の顔を見ると、真奈はもう葵から顔をそむけ、他の子とのおしゃべりに夢中になっていた。
葵の周りに集まってきた女の子たちは、結局騒ぐだけ騒いで、真奈と一緒に行ってしまった。
葵は一人残された学食で食事をして、学生たちで賑わっている外へ出る。
春風の吹くキャンパス内を歩きながら、葵はふとあの日のことを思い出した。
あの、今は使われていないというデッサン室。
葵は足を止めて考える。午後の実習まではまだ時間がある。
そう思ったら足は自然とあのデッサン室へと向かっていた。
かすかな記憶を辿りながら、なんとか目的の場所までたどり着いた。
ひと気のないこの建物は、今日もやっぱり静まり返っている。
いるはずなんてないのに。
葵はそっと一歩を踏み出し、部屋の中をのぞく。
それに、もしもあの人に出会えたとして、私は一体何をしたいというんだろう。
話しかける勇気さえ、きっとないのに。
北側にあるその部屋は真昼だというのに薄暗く、そしてやはり人影はなかった。
その日最後の実習が終わると、学生たちは何人かのグループに分かれ、おしゃべりしながら部屋を出て行った。
大きな窓のある、新しい棟のデッサン室。ここに残って課題を続けているのは、葵を含めて数人。
提出期限はまだ先だったけど、自分の作業の遅さは知っている。
それに春子の家に帰ったって、何もすることはないし。
だったらもう少しこの場所で、絵を描いていたかった。
「まだ帰らないの?」
ふいに声をかけられて顔を上げる。気がつくと部屋の中には、葵と目の前に立つ女の子しかいなかった。
「あ、えっと……もう少し」
「じゃあ、私先に帰るけど」
そう言った彼女が葵の描いている絵をちらりと見る。葵は恥ずかしくなって、思わずうつむいてしまった。
「あなた、早川葵さんでしょ?」
「え?」
「私は飯島玲子。オリエンの時、席近かったんだけど、覚えてない?」
「ごめんなさい。覚えてないです」
玲子という子が、葵の前でふっと笑う。ショートカットが似合う、意志の強そうな顔をした子だ。
それにしてもたったそれだけで、葵の名前まで覚えてくれていたのだろうか?
すると玲子が、すっと葵の耳元へ顔を近づけ、こう言った。
「三國愁哉には関わらない方がいいよ? あいつはひどい男だから」
葵は驚いて玲子の顔を見る。玲子はもう一度葵に笑いかけると、背中を向けて部屋を出て行った。
なんなんだろうなぁ……。
たまたま下宿先が一緒だっただけで、完全にあの人に振り回されてる気がする。
思いきってあの家を出て、アパートを借りてしまおうか。
いや、そんな余裕なんて我が家にはない。
美大を受けるか迷っていた時、母が葵に言ってくれた。
「学費のことは心配しなくて大丈夫。葵は葵の好きなことをやればいいの。きっとお父さんだって、それを願っているはずだから」
父が亡くなったあと、母が苦労して葵を育ててくれたことを知っている。
だから母のためにも、父のためにも、くだらないことで悩んでる場合ではないのだ。
「うん。頑張ろう」
もう一度鉛筆を持ち直し、目の前のモチーフを見つめる。
自分に飛び抜けた才能がないことは、十分承知だ。
だけどそれでも絵を描くことが好きだから。
何のとりえもない、何事にも自信が持てないそんな自分の背中を、父と母がそっと押してくれたから。
だから……。
カタンと小さな物音が聞こえた。顔を上げて振り返ると、そこに愁哉の姿が見えた。
「愁哉くん?」
「まだいたのか? こんなところに」
あきれたように笑った愁哉が部屋の中へ入ってくる。
「課題? そんなのちゃっちゃっと適当にやっとけばいいんだよ」
そんなことを言いながら、愁哉は勝手に空いている席に座りこむ。
「私は、ちゃっちゃっとなんてできないから。それにこうやって描いてるの楽しいし」
「楽しい?」
ちらりと葵の顔を見て、愁哉がどこかバカにしたような態度で笑う。
この学校内で愁哉の姿を見かけることはあったけど、こんなふうに話をするのは初めてだ。
でももう、この人のことを気にするのはやめよう。
葵はそんな愁哉を無視して、また鉛筆を動かした。
夕日の差し込むデッサン室で、時は音も立てずに過ぎていく。
時々顔を上げて愁哉のことを見る。愁哉は葵に声をかけるわけでもなく、ただスマホを指先でいじっている。
指……長いんだなぁ。
そんなことを思っている自分に気がつき、葵はあわてて視線をそらす。
「あ、あの……」
どのくらいの時間がたっただろう。
葵は鉛筆を動かす手を止め、愁哉に声をかけた。
「どうしてここにいるの?」
「暇つぶし。人に会う予定だったけど、フラれちゃったから」
誰に? その言葉をごくりと飲み込む。
愁哉は顔を上げることなく、まだスマホの画面を見つめたままだ。
「あの、私、もう帰るから」
イーゼルの前から立ち上がり、そうつぶやく。
するとやっと顔を上げた愁哉が葵に言った。
「じゃあ一緒に帰ろうか?」
夕日の沈みかけた坂道を、愁哉と並んで歩く。
こんなところを誰かに見られたら、きっとまた噂される。
愁哉には関わらないほうがいいと言った、玲子の言葉も気にかかる。
だけど……一緒に帰ろうと言う言葉を、断る理由もない。
だって私たちは、同じ家に帰るのだから。
夕焼け色と夜の始まりの色が混じり合う、どこか物悲しい時間。
春のやわらかな風が、そんなあてどもない不安をやさしく吹き消す。
触れ合いそうで触れ合わない距離を保ちながら、葵は空の色を見つめた。
隣にいるこの人は、どんな絵を描くんだろう……そんなことを思いながら。