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絵画学科日本画専攻の三國愁哉。
同じ下宿先に住む彼が、ちょっとした有名人だということは、入学してすぐに知った。
「ええっ、うそぉ。葵ちゃんって、あの三國さんと一緒に住んでるの?」
学食の中で、そんなことを大きな声で言ったのは、入学式の日に知り合った真奈だ。
日本画専攻の葵と油画専攻の真奈は、入学式にたまたま隣の席になってから、時々一緒にお昼を食べる仲になった。
「し、しー。一緒に住んでるとか、そんなんじゃないの。私は親戚の家に下宿させてもらってて、そこになぜかあの人もいて」
「って、それやっぱり、一緒に住んでるってことじゃん!」
「ま、真奈ちゃん、声大きい……」
神奈川の実家からこの美大に通っている真奈は、人見知りの葵にも気軽に話しかけてくれる元気な子なのだが、声が大きい所がちょっと困る。
「ね、でもさ、それってあんまり人に言わないほうがいいかもよ?」
「え、なんで?」
なんとなく、葵にも理由はわかっていたけれど。
「そんなこと、この学校の女の子たちが知ったら、葵ちゃん恨まれちゃうよ。ただでさえ男子が少ないってのに、あの三國さんでしょ? 特にデザイン科の先輩とか、怖そー」
あの入学式の日、愁哉に話しかけてきた絵里花という女の人が、デザイン学科の先輩だということは、葵ももう噂で知っていた。
そしてその絵里花が、愁哉の『彼女』ではないことも。
「うん。別にこんな話、真奈ちゃん以外の人には話さないもん」
「そのほうがいいって。あ、でもさー、今度私、葵ちゃんちに遊び行っていい? 三國さん、私にも紹介してー」
紹介って言ったって……そんなこと話せるほどの仲でもないんだ、私たちは。
春子の家で、愁哉と夕飯を一緒に食べるのは、週に一、二回。
その他の日はどこかで外食しているらしい。
朝は春子の作った朝食を食べているそうだけど、葵とは時間が合わなくて、一度も一緒に食べたことはない。
そんなすれ違いの生活だから、二人だけで話したことなんて、あの入学式の日以来ないのだ。
「あ、ほら葵ちゃん。噂をすれば彼だよぉ」
真奈が嬉しそうにそう言って、葵の肘をつんつんと突く。
真奈の視線の先を追いかけると、絵里花とは違う女の人と一緒に、学食に入ってきた愁哉の姿が見えた。
愁哉の父親、三國賢介は、ちょっと名の知れた日本画家だった。
葵もその名前くらいは、聞いたことがある。
そして愁哉自身も、小さい頃からいくつものコンクールで賞を取っているような才能のある人なんだと、真奈から聞いた。
だけど葵は思うのだ。
都内に立派な実家があるという愁哉が、どうして春子の家に、下宿なんてしているのだろうって。
「もう学校には慣れた? 葵ちゃん」
夕食の席で、大きなダイニングテーブルに向かい合って座った春子が言う。
「うん……でもまだ、オリエンテーションとか説明会ばかりで」
「お友達はできた? 葵ちゃんのお母さんも、それをずいぶん心配していたから」
春子の前で苦笑いをする。
確かに葵は友達が多いほうではない。仲良くなるのに、ずいぶん時間もかかる。
でも大学生にもなって、母親からそんなことを心配されているなんて、ちょっとだけ情けない。
「大丈夫。真奈ちゃんっていう、友達ができたから。ねぇ、春子おばさん。今度その真奈ちゃんをこの家に呼んでもいい?」
「もちろん。葵ちゃんのお友達なら大歓迎よ。あ、彼氏もできたら紹介してね。おばさん楽しみにしてるから」
「彼氏なんて……」
春子が葵の前でにこにこと微笑んでいる。だけど葵は複雑だった。
葵が春子に彼氏を紹介する日なんて、きっと来ないんじゃないかって思ったから。
「ごめんね、おばさん……」
誰にも聞こえないほどの声でつぶやいた時、ダイニングのドアが勢いよく開いた。
「あら、愁哉くん、お帰り」
葵が振り返ると、愁哉がそこに立っていた。
「夕飯は食べてきたんでしょ?」
「はい」
「あ、今ね、葵ちゃんとイチゴ食べようと思ってたところなの。愁哉くんも一緒にどう?」
「あ、俺はいいです。腹いっばいだから」
春子と話している愁哉の顔をちらりと見上げる。
いつもご飯、どこで食べてくるんだろう。誰と食べてくるんだろう。
真奈ちゃんが言ってたな。三國さんに恋人、いないみたいだよって。
「なに?」
いつの間にか愁哉のことを見ていた自分に気がつき、慌てて顔をそむける。
やだ、これじゃ、大学にいる女の子たちと変わらないじゃない。
みんながこの人のことを見てるんだ。
父親が有名人で、絵の才能があって、見た目も良くて、女の子たちに騒がれている愁哉のことを。
「葵にさ」
愁哉に名前を呼ばれると、今だにあせってしまう。
父以外の男の人に、呼び捨てで呼ばれたことなんて、今までなかったから。
「見せたいものがあるんだけど」
「な、なに?」
心臓がどきんと跳ねる。
やだな。やっぱり男の人と話すのは苦手だ。
そんな葵を見て、愁哉が小さく笑う。
「イチゴ食べ終わった頃、あんたの部屋行ってもいい?」
「え、い、いいですけど」
「じゃあ、あとで」
なんだろう。なんなんだろう。私に見せたいものって。
ドキドキしながら顔を上げたら、穏やかな顔で葵のことを見つめている春子と目が合った。
春子とイチゴを食べてから二階へ上がり、自分の部屋へ入る。
だけどなんとなく落ち着かなくて、部屋の中をうろうろしていたら、ドアをノックする音が聞こえた。
「俺だけど。入ってもいい?」
「ど、どうぞ」
ホントに来たんだ。もしかしたら来ないかもなんて、勝手に思っていたんだけど。
「イチゴ食った?」
「うん」
ドアを開けた愁哉は軽く葵に笑いかけると、ためらいもせず部屋の中へ入ってきた。
「あの、私に見せたいものって?」
葵の言葉を無視するように通り過ぎ、愁哉の手が勢いよくカーテンを開く。
「葵。こっち来てみな」
「え?」
言われるままに窓辺へ近づく。愁哉が開けた窓から、あたたかい風がかすかに吹き込む。
「あ……」
深く濃い青色をした夜空の真ん中に、白く輝く丸い月。
「さっき外歩いてたら満月だったから。ああ、そういえば、この窓からよく月が見えたっけなぁって思い出して」
窓から空を見上げながら、愁哉の声を聞く。動けば体がぶつかりそうなほど、近くにいる愁哉の声を。
「愁哉……くんって」
初めてその名前を口にする。
「意外と……ロマンチストなんだね?」
「なんだそれ。初めて言われた」
隣で笑っている愁哉の顔が、恥ずかしくて見れない。
「言っとくけど俺は、現実主義者だから。あんたのほうだろ? ロマンチストなのは」
そう言った愁哉の体が、葵から離れていく。
「見せたかったのは、これだけ。それじゃあな」
「あのっ、ちょっと待って」
背中を向けた愁哉のことを呼びとめる。
「一つだけ、聞いてもいい?」
ゆっくりと振り返った愁哉が葵のことを見る。
「なに?」
「しゅ、愁哉くんって……どうしてこの家に住んでるのかなって、思って……」
「ああ」
体をこわばらせている葵の前で、愁哉が口元をゆるませる。
「俺、春子さんに拾ってもらったの」
「え?」
「行き場がなくなってふらふらしていた俺に、だったらここにいればって。春子さんが拾ってくれたんだ」
「意味……わかんない」
「だろうな。あんたみたいな幸せそうな子には」
愁哉が笑いながら部屋を出て行く。葵はその場に立ち尽くしたまま、静かに閉じられたドアを見つめる。
じゃあ愁哉くんは、幸せじゃないの?
誰もが羨むようなものを、たくさん持っているっていうのに。
一人でもう一度、窓の外を見上げる。夜空に浮かぶ月は、あたりをうっすらと照らしている。
さっき愁哉と、触れ合いそうなくらいそばにいた時……彼のシャツから甘い香りがした。
それは女の人がつけている、香水のような香りだった。