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 よく晴れた日曜日の午後。葵は川原へ向かって歩いていた。

 愁哉がそこにいると洋太から聞いて、実はずっと悩んでいた。

 愁哉に会いたい。会ってみたい。だけど今さら愁哉に会って、自分は何をしようと思っているんだろう。

 考えても考えてもその答えはわからなくて……葵はもう考えるのをやめ、とりあえずその場所へ行ってみることにした。

 数年前の自分と比べると、その行動力に驚いてしまったけれど。


 広い川原では、何人もの人々が、思い思いのことをしていた。

 土手に寝ころんでお昼寝をしているおじさん。ボール遊びをしている小学生。小さな子どもと遊ぶお母さん。

 葵は土手の上に立ち、あたりを見回す。ジョギングをしている人が通り過ぎ、鉄橋を通過する電車が見えた。

「あ……」

 その時、葵は見つけた。少し遠くの土手に座って、スケッチブックに絵を描いている男の人。

 それが愁哉だということは、遠くからでもすぐにわかった。

「愁哉くん……」

 愁哉は真っ直ぐ前を見て、鉛筆を動かしていた。その視線の先には、川原で無邪気に遊びまわっている子どもたちの姿。

 あれから二年。今の愁哉は何を見て、何を描いているんだろう。

 葵の足が自然と動く。そうか、それを知りたかったんだ。

 愁哉くんは今、幸せな絵を描いているか……それをただ知りたくて、私はここへ来たんだ。


 おだやかな日差しの中、葵は愁哉のそばに立った。

 前を見つめたままの愁哉が、どんな表情をしているのかはわからない。

 そっと後ろからのぞきこむ。鉛筆を持つ愁哉の手がふと止まる。

 春の柔らかな風が吹いた。ぱらぱらとめくれたスケッチブックに、たくさんの笑顔が見えた。

「のぞいてんじゃねぇよ」

 はっと気づいて、あわてて足を一歩下げる。前を見たままの愁哉が、吹き出すように笑って、葵に振り向いた。

「のぞくなって言っただろ? 葵」

「愁哉くん……」

 愁哉の笑顔が目の前に広がって、葵も自然と笑顔になる。

「なに、描いてるの?」

「教えない」

「いじわる」

 だけどさっき葵は見た。愁哉のスケッチブックの中に、大人や子ども、たくさんの人の笑顔が描かれていたのを。


「……元気だった?」

「うん。愁哉くんは?」

「俺も、元気」

 ふっと笑った愁哉が、顔を上げて葵を見る。

「春子先生も、元気にやってる?」

 春子先生……そうか、愁哉くんにとって春子おばさんは、今でもずっと『先生』なんだ。

「うん。あいかわらずマイペースだけど」

「ちょっと心配してた。のんびり屋の二人があの家に残っちゃって、大丈夫なのかなって」

 そう言って笑う愁哉のことを、葵はその場に立ったまま見つめる。

「まだ描いてるんだね、絵」

 小さくうなずいた愁哉が言う。

「葵は?」

「私も……描いてるよ」

 今も、これからも、きっとずっと。


「じゃあ」

「うん」

 それだけ交わして、葵は背中を向ける。

 本当は、聞きたいことがたくさんあった。あったけど……愁哉くんが幸せな絵を描いているなら、それでいい。それを知っただけで、私も幸せな気持ちになれたから。

 だから言わなかった。「またね」とは。

「葵っ」

 その時、背中に名前を呼ばれた。振り返った葵の前で、愁哉が腕を上げ、空を指さす。

 葵は立ち止って空を仰ぐ。青く青く澄みきった空。その空に白い線が、すうっと一本引かれていく。

 飛行機雲……あの静岡の川原で、愁哉が指で描いた飛行機雲を思い出す。

「元気で」

 視線をおろすと、そうつぶやいた愁哉と目が合った。

「愁哉くんもね」

 愁哉は葵の前で、おだやかな笑顔を見せた。


 土手をのぼり振り向かずに歩く。

 犬の散歩をしている人とすれ違い、自転車に乗っている人が葵を追い越していく。

 やがて目の前に赤ちゃんを胸に抱いた、女の人の姿が見えた。

 土手の上の道でその人とすれ違う。長い髪が風にさらりと流れ、その瞬間、懐かしい記憶が葵の中によみがえった。

 甘い香り……愁哉が彼女と会った日に、彼の服から漂ってきた女の人の香りだ。

 しばらく前を向いたまま歩き続けたあと、葵はゆっくりと振り返った。

 赤ちゃんを抱いた女の人が愁哉のもとへ向かう。立ち上がった愁哉は彼女と何か話したあと、寄り添うように三人で歩き出した。

 ああ、そうか。そうだったんだ。

 彼女の抱いていた赤ちゃんを愁哉が抱き上げる。背中を向けている彼の表情はわからなかったけど、葵には想像できた。

「よかったね……愁哉くん」

 隣を歩く彼女の手が、愛おしそうに愁哉の腕を抱きしめた。


 ゆるやかな坂道を一人で歩いた。

 小雨の降る中、初めてこの道をのぼった日、不安でいっぱいだった気持ちを思い出す。

 やがて春子の住む、隠れ家のような大きな家が見えてくる。

 葵は立ち止まり、その家を見上げた。蔦の絡まり合う、二階の葵の部屋に、あたたかい日差しが差し込んでいるのがわかる。

 ――葵! 雨が止んだよ。お外に絵を描きに行こう!

 ――うんっ! お父さんと行く!

 引っ込み思案だった葵を外へ連れ出し、父は色とりどりの世界を見せてくれた。

 葵、外を見てごらん。この世の中は、こんなにたくさんの色があふれているんだよ。

 空の色。雲の色。風に揺れる草花の色。

 桜の色。落ち葉の色。雪の色。そして夜の色と、そこに浮かぶ月の色。

 淡く濃く、鮮やかで儚いその色たちを、きっとあの人も同じように見ている。


 今度の日曜日、スケッチブックを持って出かけてみようかな。

 そんなことを考えながら、葵はまた歩き出す。

 そうだ、春子おばさんも誘おう。

 お花見の時期は過ぎてしまったけど、サンドイッチを作って、風に吹かれて、春の色を探しに――。

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― 新着の感想 ―
[一言] 葵ちゃんにとってはちょっと切ないかもしれないけれど、胸がほわっとするような終わりでした。 2人はこれからも絵を描き続けるんだなぁと思うとなんだか嬉しくなります!
2024/02/01 18:47 退会済み
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