28
よく晴れた日曜日の午後。葵は川原へ向かって歩いていた。
愁哉がそこにいると洋太から聞いて、実はずっと悩んでいた。
愁哉に会いたい。会ってみたい。だけど今さら愁哉に会って、自分は何をしようと思っているんだろう。
考えても考えてもその答えはわからなくて……葵はもう考えるのをやめ、とりあえずその場所へ行ってみることにした。
数年前の自分と比べると、その行動力に驚いてしまったけれど。
広い川原では、何人もの人々が、思い思いのことをしていた。
土手に寝ころんでお昼寝をしているおじさん。ボール遊びをしている小学生。小さな子どもと遊ぶお母さん。
葵は土手の上に立ち、あたりを見回す。ジョギングをしている人が通り過ぎ、鉄橋を通過する電車が見えた。
「あ……」
その時、葵は見つけた。少し遠くの土手に座って、スケッチブックに絵を描いている男の人。
それが愁哉だということは、遠くからでもすぐにわかった。
「愁哉くん……」
愁哉は真っ直ぐ前を見て、鉛筆を動かしていた。その視線の先には、川原で無邪気に遊びまわっている子どもたちの姿。
あれから二年。今の愁哉は何を見て、何を描いているんだろう。
葵の足が自然と動く。そうか、それを知りたかったんだ。
愁哉くんは今、幸せな絵を描いているか……それをただ知りたくて、私はここへ来たんだ。
おだやかな日差しの中、葵は愁哉のそばに立った。
前を見つめたままの愁哉が、どんな表情をしているのかはわからない。
そっと後ろからのぞきこむ。鉛筆を持つ愁哉の手がふと止まる。
春の柔らかな風が吹いた。ぱらぱらとめくれたスケッチブックに、たくさんの笑顔が見えた。
「のぞいてんじゃねぇよ」
はっと気づいて、あわてて足を一歩下げる。前を見たままの愁哉が、吹き出すように笑って、葵に振り向いた。
「のぞくなって言っただろ? 葵」
「愁哉くん……」
愁哉の笑顔が目の前に広がって、葵も自然と笑顔になる。
「なに、描いてるの?」
「教えない」
「いじわる」
だけどさっき葵は見た。愁哉のスケッチブックの中に、大人や子ども、たくさんの人の笑顔が描かれていたのを。
「……元気だった?」
「うん。愁哉くんは?」
「俺も、元気」
ふっと笑った愁哉が、顔を上げて葵を見る。
「春子先生も、元気にやってる?」
春子先生……そうか、愁哉くんにとって春子おばさんは、今でもずっと『先生』なんだ。
「うん。あいかわらずマイペースだけど」
「ちょっと心配してた。のんびり屋の二人があの家に残っちゃって、大丈夫なのかなって」
そう言って笑う愁哉のことを、葵はその場に立ったまま見つめる。
「まだ描いてるんだね、絵」
小さくうなずいた愁哉が言う。
「葵は?」
「私も……描いてるよ」
今も、これからも、きっとずっと。
「じゃあ」
「うん」
それだけ交わして、葵は背中を向ける。
本当は、聞きたいことがたくさんあった。あったけど……愁哉くんが幸せな絵を描いているなら、それでいい。それを知っただけで、私も幸せな気持ちになれたから。
だから言わなかった。「またね」とは。
「葵っ」
その時、背中に名前を呼ばれた。振り返った葵の前で、愁哉が腕を上げ、空を指さす。
葵は立ち止って空を仰ぐ。青く青く澄みきった空。その空に白い線が、すうっと一本引かれていく。
飛行機雲……あの静岡の川原で、愁哉が指で描いた飛行機雲を思い出す。
「元気で」
視線をおろすと、そうつぶやいた愁哉と目が合った。
「愁哉くんもね」
愁哉は葵の前で、おだやかな笑顔を見せた。
土手をのぼり振り向かずに歩く。
犬の散歩をしている人とすれ違い、自転車に乗っている人が葵を追い越していく。
やがて目の前に赤ちゃんを胸に抱いた、女の人の姿が見えた。
土手の上の道でその人とすれ違う。長い髪が風にさらりと流れ、その瞬間、懐かしい記憶が葵の中によみがえった。
甘い香り……愁哉が彼女と会った日に、彼の服から漂ってきた女の人の香りだ。
しばらく前を向いたまま歩き続けたあと、葵はゆっくりと振り返った。
赤ちゃんを抱いた女の人が愁哉のもとへ向かう。立ち上がった愁哉は彼女と何か話したあと、寄り添うように三人で歩き出した。
ああ、そうか。そうだったんだ。
彼女の抱いていた赤ちゃんを愁哉が抱き上げる。背中を向けている彼の表情はわからなかったけど、葵には想像できた。
「よかったね……愁哉くん」
隣を歩く彼女の手が、愛おしそうに愁哉の腕を抱きしめた。
ゆるやかな坂道を一人で歩いた。
小雨の降る中、初めてこの道をのぼった日、不安でいっぱいだった気持ちを思い出す。
やがて春子の住む、隠れ家のような大きな家が見えてくる。
葵は立ち止まり、その家を見上げた。蔦の絡まり合う、二階の葵の部屋に、あたたかい日差しが差し込んでいるのがわかる。
――葵! 雨が止んだよ。お外に絵を描きに行こう!
――うんっ! お父さんと行く!
引っ込み思案だった葵を外へ連れ出し、父は色とりどりの世界を見せてくれた。
葵、外を見てごらん。この世の中は、こんなにたくさんの色があふれているんだよ。
空の色。雲の色。風に揺れる草花の色。
桜の色。落ち葉の色。雪の色。そして夜の色と、そこに浮かぶ月の色。
淡く濃く、鮮やかで儚いその色たちを、きっとあの人も同じように見ている。
今度の日曜日、スケッチブックを持って出かけてみようかな。
そんなことを考えながら、葵はまた歩き出す。
そうだ、春子おばさんも誘おう。
お花見の時期は過ぎてしまったけど、サンドイッチを作って、風に吹かれて、春の色を探しに――。




