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「葵ー!」
ぽかぽかとあたたかい春の日。大学の中庭で玲子と会った。
「はい、これ。頼まれてた絵の具」
「ありがとう。ごめんね、いつもお願いしちゃって」
「いいの、いいの。ついでだし」
そう言って玲子がにこりと微笑む。
春。葵と玲子は大学四年生に進級していた。
玲子は都内にある大きな画材店でアルバイトをしていて、時々葵の頼んだものを買ってきてくれた。
「ねぇ、玲子ちゃん。このあと……」
お昼を一緒に……と言いかけて口をつぐむ。
遠くから玲子を呼ぶ男の声が聞こえて、玲子が「今、行くー」と手を振っていた。
「あ、ごめん。なに? 葵」
「ううん。なんでもない。今日は進藤くんとデート?」
玲子が照れたように微笑む。
工芸学科の同級生、進藤と、玲子が付き合い始めたのは三か月前のこと。
――入学式に見た時から、ずっと好きだった。
という、進藤の長い片思いに、玲子が応える形になったのだ。
「ごめんね、葵。また今度ゆっくり」
「うん」
玲子に笑いかけて手を振る。
背中を向けて、進藤に駆け寄っていく玲子は、とても幸せそうに見えた。
春風の吹く坂道を一人でのぼる。
葵はまだ、春子の家から大学へ通いながら、絵画教室を手伝っていた。
「お帰り、葵ちゃん」
「ただいま、春子おばさん」
春子はいつも、変わりない笑顔で葵のことを迎えてくれる。
「お昼まだなの?」
「うん」
「ねぇ、駅前に新しいお店ができたじゃない? おばさん、すごく気になってるのよねぇ?」
「行ってみる?」
「ええ、行きましょ、行きましょ! 今、支度してくるわねー」
おだやかで落ち着く春子との暮らし。だけどこの生活がいつまでも続くわけではない。
四年生の葵には、就職活動という現実が、目の前までせまっている。
好きなことをやってるだけでは、ダメなんだ。
絵を描くだけで生活していけるなんて、どんなにのん気な葵だって、現実にはありえないってわかっている。
だけどもしも、できることならば……。
「葵ちゃん! これ見てー」
絵画教室へ通う子どもたちが、自分の描いた絵を持って、葵のところへやってくる。
『先生』なんて呼ばれるのは苦手だから、子どもたちには名前で呼んでもらっている。『先生』と呼んでもらえるのは、春子だけでいい。
「わぁ、キレイに描けたねぇ」
「これがお花でしょ、これがちょうちょでしょ」
一生懸命説明をしてくれる女の子が可愛い。
子どもたちと一緒にこうやって絵を描く時間は、葵にとって、とても大切な時間になっていた。
「私も歳だしね。あとは葵ちゃんに任せてもいいって思ってるのよ」
以前春子に、そんなことを言われた。
「そんな……ここは春子おばさんのお教室だから」
「大丈夫よ。葵ちゃんの絵を描くのが好きな気持ちは、そのままちゃんと子どもたちに伝わってる。だから葵ちゃんになら、ここを任せられると思ってるの」
ふわりとした春子の笑顔。それは父の笑顔に少し似ている。
私が父にもらった優しい思い出を、子どもたちに伝えていく……それはきっと、とても素敵なこと。
そしてそれが一生の仕事になったら、私はとても幸せなのかもしれない。
子どもたちの絵を一人ずつ見て回る。小さい子はどの子もみんな楽しそうだ。
そんな中、五年生の男の子だけが、じっと自分の絵を見ながら渋い顔をしている。
二年生の頃からこの教室へ通っている洋太だ。
「どうしたの? 洋太くん」
葵の声に、洋太はさりげなく自分の絵を隠す。
最近洋太が悩んでいることを、葵は知っていた。今まで自由に描いてきた絵が、学校の先生や周りの大人たちから、あまり評価されていないことに気づいてしまったのだ。
「俺、絵ヘタだから」
葵は洋太の隣に腰かけ、その声を聞く。
「絵画教室に行ってない岡田や木村のほうが上手いんだ。いっつも学校で褒められてる」
洋太が小さく息を吐く。葵はそんな洋太に言った。
「私も絵、上手くないよ?」
洋太が顔を上げ、葵を見ながら「ウソだ」と言う。
「ホントだよ。私の学校には私より上手い人がたくさんいるもの。人と比べたら、私だって全然ヘタだよ」
本当のことだ。自分の持っている才能は、自分が一番知っている。
「だからね、私は人と比べるのはやめたの。だって下手でも描きたいんだもん。絵描くの、好きだから。それより私にしか描けない絵が、描けるようになりたいって思ってる」
洋太がぼんやりと葵の顔を見ている。
「洋太くんだって好きでしょ? 絵描くの」
ほんの小さく洋太がうなずく。
「洋太くんの描いた絵、見たいな?」
「そ、それはダメ!」
「じゃあ春子先生に……」
「愁哉くんに見せるからいい」
葵は動きを止めた。愁哉? 今、愁哉って言った?
「愁哉くん、いつも俺の絵、褒めてくれるから」
「え、でも、愁哉くんはここにいないよ?」
「俺、時々愁哉くんに会って、絵見せてるよ? 葵ちゃん、会ってないの?」
会ってるわけない。愁哉がこの家を出て行った日から、葵は一度も愁哉に会っていないのだ。
「日曜日の午後、川原の土手に行けば会えるよ。電車の鉄橋の近く。絵描いてんだ、愁哉くん、あそこでいつも」
そんな近くで?
久しぶりに聞いた名前に胸がざわつく。だけどそこに痛みはなくて、私はもう愁哉くんのことは忘れられたのかなぁ、なんてなんとなく思った。




