表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/28

27

「葵ー!」

 ぽかぽかとあたたかい春の日。大学の中庭で玲子と会った。

「はい、これ。頼まれてた絵の具」

「ありがとう。ごめんね、いつもお願いしちゃって」

「いいの、いいの。ついでだし」

 そう言って玲子がにこりと微笑む。

 春。葵と玲子は大学四年生に進級していた。

 玲子は都内にある大きな画材店でアルバイトをしていて、時々葵の頼んだものを買ってきてくれた。

「ねぇ、玲子ちゃん。このあと……」

 お昼を一緒に……と言いかけて口をつぐむ。

 遠くから玲子を呼ぶ男の声が聞こえて、玲子が「今、行くー」と手を振っていた。

「あ、ごめん。なに? 葵」

「ううん。なんでもない。今日は進藤くんとデート?」

 玲子が照れたように微笑む。

 工芸学科の同級生、進藤と、玲子が付き合い始めたのは三か月前のこと。

 ――入学式に見た時から、ずっと好きだった。

 という、進藤の長い片思いに、玲子が応える形になったのだ。

「ごめんね、葵。また今度ゆっくり」

「うん」

 玲子に笑いかけて手を振る。

 背中を向けて、進藤に駆け寄っていく玲子は、とても幸せそうに見えた。


 春風の吹く坂道を一人でのぼる。

 葵はまだ、春子の家から大学へ通いながら、絵画教室を手伝っていた。

「お帰り、葵ちゃん」

「ただいま、春子おばさん」

 春子はいつも、変わりない笑顔で葵のことを迎えてくれる。

「お昼まだなの?」

「うん」

「ねぇ、駅前に新しいお店ができたじゃない? おばさん、すごく気になってるのよねぇ?」

「行ってみる?」

「ええ、行きましょ、行きましょ! 今、支度してくるわねー」

 おだやかで落ち着く春子との暮らし。だけどこの生活がいつまでも続くわけではない。

 四年生の葵には、就職活動という現実が、目の前までせまっている。

 好きなことをやってるだけでは、ダメなんだ。

 絵を描くだけで生活していけるなんて、どんなにのん気な葵だって、現実にはありえないってわかっている。

 だけどもしも、できることならば……。


「葵ちゃん! これ見てー」

 絵画教室へ通う子どもたちが、自分の描いた絵を持って、葵のところへやってくる。

 『先生』なんて呼ばれるのは苦手だから、子どもたちには名前で呼んでもらっている。『先生』と呼んでもらえるのは、春子だけでいい。

「わぁ、キレイに描けたねぇ」

「これがお花でしょ、これがちょうちょでしょ」

 一生懸命説明をしてくれる女の子が可愛い。

 子どもたちと一緒にこうやって絵を描く時間は、葵にとって、とても大切な時間になっていた。

「私も歳だしね。あとは葵ちゃんに任せてもいいって思ってるのよ」

 以前春子に、そんなことを言われた。

「そんな……ここは春子おばさんのお教室だから」

「大丈夫よ。葵ちゃんの絵を描くのが好きな気持ちは、そのままちゃんと子どもたちに伝わってる。だから葵ちゃんになら、ここを任せられると思ってるの」

 ふわりとした春子の笑顔。それは父の笑顔に少し似ている。

 私が父にもらった優しい思い出を、子どもたちに伝えていく……それはきっと、とても素敵なこと。

 そしてそれが一生の仕事になったら、私はとても幸せなのかもしれない。


 子どもたちの絵を一人ずつ見て回る。小さい子はどの子もみんな楽しそうだ。

 そんな中、五年生の男の子だけが、じっと自分の絵を見ながら渋い顔をしている。

 二年生の頃からこの教室へ通っている洋太だ。

「どうしたの? 洋太くん」

 葵の声に、洋太はさりげなく自分の絵を隠す。

 最近洋太が悩んでいることを、葵は知っていた。今まで自由に描いてきた絵が、学校の先生や周りの大人たちから、あまり評価されていないことに気づいてしまったのだ。

「俺、絵ヘタだから」

 葵は洋太の隣に腰かけ、その声を聞く。

「絵画教室に行ってない岡田や木村のほうが上手いんだ。いっつも学校で褒められてる」

 洋太が小さく息を吐く。葵はそんな洋太に言った。

「私も絵、上手くないよ?」

 洋太が顔を上げ、葵を見ながら「ウソだ」と言う。

「ホントだよ。私の学校には私より上手い人がたくさんいるもの。人と比べたら、私だって全然ヘタだよ」

 本当のことだ。自分の持っている才能は、自分が一番知っている。

「だからね、私は人と比べるのはやめたの。だって下手でも描きたいんだもん。絵描くの、好きだから。それより私にしか描けない絵が、描けるようになりたいって思ってる」

 洋太がぼんやりと葵の顔を見ている。

「洋太くんだって好きでしょ? 絵描くの」

 ほんの小さく洋太がうなずく。


「洋太くんの描いた絵、見たいな?」

「そ、それはダメ!」

「じゃあ春子先生に……」

「愁哉くんに見せるからいい」

 葵は動きを止めた。愁哉? 今、愁哉って言った?

「愁哉くん、いつも俺の絵、褒めてくれるから」

「え、でも、愁哉くんはここにいないよ?」

「俺、時々愁哉くんに会って、絵見せてるよ? 葵ちゃん、会ってないの?」

 会ってるわけない。愁哉がこの家を出て行った日から、葵は一度も愁哉に会っていないのだ。

「日曜日の午後、川原の土手に行けば会えるよ。電車の鉄橋の近く。絵描いてんだ、愁哉くん、あそこでいつも」

 そんな近くで?

 久しぶりに聞いた名前に胸がざわつく。だけどそこに痛みはなくて、私はもう愁哉くんのことは忘れられたのかなぁ、なんてなんとなく思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ