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 二人で家へ帰り、自分の部屋に荷物を置いてから、葵は愁哉の部屋のドアを叩いた。

 すぐに葵の前に愁哉が現れ、ドアが大きく開かれる。

「わぁ……」

 床一面に広がっているのは、この前描いていた絵だ。

 パネルに貼られた大きな紙に、丁寧に塗り重ねられた青い絵の具。

 日本画の講義で聞いた、群青という言葉を思い出す。

 青が群れる――そこに描かれた青は、紫みを帯びた淡い青から、深く濃い青まで微妙に変化していく。

 日暮れから夜へと移る時間の、どこか物悲しい空の色。

 愁哉の扱う日本画の絵の具は、美しく繊細で、そして儚い。


「まだ完成じゃないんだ」

 床に座り込んで絵を見つめていた葵に愁哉が言う。

「葵が言っただろ? 月も星もない夜は、寂しすぎるって」

 そう言えばそんなことを言った。愁哉の描く絵が、あまりにも寂しすぎたから。

「だから葵が描いてよ。この夜空に白い月を」

「えっ、私?」

「大丈夫。あとは色塗るだけだから」

 簡単に言う愁哉に向かって、葵は首を横に振る。

 できない。そんなこと。この絵に私が手を加えるなんて……そんなこと、とてもできない。

「無理だよ」

「無理じゃないって」

「無理」

「しょうがねぇなぁ……」

 あきれたようにつぶやく愁哉の声。

 あきらめてくれたみたい。ほっと息を吐いた時、愁哉が後ろから葵の手をとった。


「ほら、ちゃんと筆持って」

「え……」

 強引に筆を持たされ、その手に愁哉の手がかぶさる。

「しっかり持った?」

「……う、うん」

 愁哉に導かれるように手を動かし、筆の先に絵の具をつける。

「いいか?」

「うん」

 背中から、覆いかぶさるような近さに愁哉がいる。耳元にかかる息づかいに、気が変になりそうだ。

 愁哉の手に葵の手が動かされる。丸く下書きされた月に、すこしずつ色を重ねていく。

 丁寧に質感を調整しているのは愁哉の手だ。やがて葵の目の前に、白い満月が浮かび上がってくる。


 けれど葵はそんな月を見ながら、別のことを考えていた。

 背中に感じる愁哉の体温。重ねられた手が、動くたびに熱く震える。

「……好き」

 どんなに近くにいても、届かないのはわかっているけど。

「私、愁哉くんのこと……好きだよ」

 本当は、ずっとそばにいたいけど。

「……うん」

 背中越しに声が聞こえた。筆先が静かに紙から離れる。

「すごく、嬉しい」

 後ろを振り向かないまま、その声だけを聞く。

「でも……ごめんな?」

 うつむいて、小さく首を横に振る。


 絵皿に筆が置かれると、愁哉の手が葵から離れた。

 群青の夜空に浮かぶ胡粉の月。

 その月がぼんやりとかすんでいく。

 この絵が完成したら、この人は私の前からいなくなる。

 静かに流れる夜の中、葵と愁哉の間に、それ以上の言葉は交わされなかった。

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