26
二人で家へ帰り、自分の部屋に荷物を置いてから、葵は愁哉の部屋のドアを叩いた。
すぐに葵の前に愁哉が現れ、ドアが大きく開かれる。
「わぁ……」
床一面に広がっているのは、この前描いていた絵だ。
パネルに貼られた大きな紙に、丁寧に塗り重ねられた青い絵の具。
日本画の講義で聞いた、群青という言葉を思い出す。
青が群れる――そこに描かれた青は、紫みを帯びた淡い青から、深く濃い青まで微妙に変化していく。
日暮れから夜へと移る時間の、どこか物悲しい空の色。
愁哉の扱う日本画の絵の具は、美しく繊細で、そして儚い。
「まだ完成じゃないんだ」
床に座り込んで絵を見つめていた葵に愁哉が言う。
「葵が言っただろ? 月も星もない夜は、寂しすぎるって」
そう言えばそんなことを言った。愁哉の描く絵が、あまりにも寂しすぎたから。
「だから葵が描いてよ。この夜空に白い月を」
「えっ、私?」
「大丈夫。あとは色塗るだけだから」
簡単に言う愁哉に向かって、葵は首を横に振る。
できない。そんなこと。この絵に私が手を加えるなんて……そんなこと、とてもできない。
「無理だよ」
「無理じゃないって」
「無理」
「しょうがねぇなぁ……」
あきれたようにつぶやく愁哉の声。
あきらめてくれたみたい。ほっと息を吐いた時、愁哉が後ろから葵の手をとった。
「ほら、ちゃんと筆持って」
「え……」
強引に筆を持たされ、その手に愁哉の手がかぶさる。
「しっかり持った?」
「……う、うん」
愁哉に導かれるように手を動かし、筆の先に絵の具をつける。
「いいか?」
「うん」
背中から、覆いかぶさるような近さに愁哉がいる。耳元にかかる息づかいに、気が変になりそうだ。
愁哉の手に葵の手が動かされる。丸く下書きされた月に、すこしずつ色を重ねていく。
丁寧に質感を調整しているのは愁哉の手だ。やがて葵の目の前に、白い満月が浮かび上がってくる。
けれど葵はそんな月を見ながら、別のことを考えていた。
背中に感じる愁哉の体温。重ねられた手が、動くたびに熱く震える。
「……好き」
どんなに近くにいても、届かないのはわかっているけど。
「私、愁哉くんのこと……好きだよ」
本当は、ずっとそばにいたいけど。
「……うん」
背中越しに声が聞こえた。筆先が静かに紙から離れる。
「すごく、嬉しい」
後ろを振り向かないまま、その声だけを聞く。
「でも……ごめんな?」
うつむいて、小さく首を横に振る。
絵皿に筆が置かれると、愁哉の手が葵から離れた。
群青の夜空に浮かぶ胡粉の月。
その月がぼんやりとかすんでいく。
この絵が完成したら、この人は私の前からいなくなる。
静かに流れる夜の中、葵と愁哉の間に、それ以上の言葉は交わされなかった。




