25
春休み前のキャンパスで、葵は玲子と会った。
「姉から連絡がきたの」
柔らかな午後の日差しが降り注ぐベンチで、玲子が葵にそう言った。
「お姉さん、何て?」
玲子はふっと笑って答える。
「愁哉と一緒に暮らすことになった。ごめんね、って」
目の前を、笑い合いながら通り過ぎる学生たち。
風はまだ少し冷たいけれど、春色の服装が目立つようになった。
「なにが『ごめんね』なんだか、意味わかんない。お姉ちゃん、いつまで私に気を使うつもりなんだろ」
そう言いながら、もう一度小さく笑った玲子が葵を見る。
「愁哉は? 何か言ってた?」
葵は愁哉の言葉を思い出す。
「今描いてる絵が出来上がったら、あの家を出て行くって」
「……そっか」
玲子がぽつりとつぶやいて、前を見る。
遠くに見える桜の木は、まだ花開く気配はない。
入学式の日、愁哉と歩いた坂道に咲いていた、桜の花を思い出す。
「大丈夫? 葵」
「え、何が?」
ぼうっとしていた自分に気がつき、葵はぎこちない笑顔を作る。そんな葵を見て、玲子がふわりと微笑んだ。
「あー、もうやめ、やめ! あの二人に振り回されるのは、もうやめよう! ね、それよりさ、明日服買いに行くの、付き合ってくれない? 春物の服、買いたいんだ」
「うん、いいよ。私も買いたい」
葵はそう答えると、玲子に静かに笑いかけた。
玲子と別れた後、葵は一人キャンパスの外れにある、あのデッサン室へ向かった。
ひと気のないこの場所は、今日も自由に出入りできた。
あの日、愁哉が座っていた場所へ腰かける。
ここで愁哉は絵を描いていた。愛おしい彼女を見つめるように、あたたかいまなざしをスケッチブックの中へ注いで。
「ふっ……」
嗚咽がもれそうになり、右手で口元をおおう。
けれど涙があふれ出し、こらえようと思えば思うほど、声が抑えられなくなる。
いいよね、泣いても。ここには誰もいないんだし。
静まり返ったデッサン室で、恥ずかしいほど声をあげて泣いた。
春子の家で愁哉と出会わなければ、こんな想いはしなかったのに……ううん、違う。
それはもう決まっていた。
あの日この場所で、彼の姿を見かけた時から……私が恋に落ちることは、決まっていたんだ。
泣き疲れていつの間にか眠ってしまい、気づくと外は薄暗くなっていた。
あわててデッサン室を飛び出し、素知らぬ顔で大学の門を出る。
柔らかな風に誘われて空を見上げたら、夜の始まりの群青色の空に、美しい月が浮かんでいた。
「あ、満月……」
一人で見るのはもったいないほどの。
――葵にさ、見せたいものがあるんだけど。
そうか。あの時の愁哉くんも、今の私と同じ気持ちだったんだ。
そんなことを考えながら、坂道の途中で立ち止まる。
少し先で立っている人影。ここからでもすぐにわかる。
「愁哉くん」
葵の声に、近づいてきた愁哉が小さく笑った。
「どうしてわかったの? 私が今、思ってたこと」
一緒に空を見上げたかったこと。
「葵の考えてることはわかるんだ。もう一年も一緒に住んでるんだから」
そう言って愁哉が、いたずらっぽく笑う。
「そっか……もう一年経つんだね」
「だな」
そして愁哉が、夜空に顔を向けてぽつりと言った。
「一年間、ありがとうな。葵」
顔を上げ、隣に立つ愁哉を見る。そんな愁哉の視線の先に、白く輝く月。
何度も一緒に並んで歩いた。
手と手が触れ合うほどの近くにいた。
だけどいつだって、この人の見ているものは、私ではなかった。
「葵」
愁哉が葵の名前を呼ぶ。
「最後に一つだけ、頼みがあるんだけど」
ゆっくりと視線を下げた愁哉が葵を見る。
「あとで俺の部屋に来てくれないかな。葵にやって欲しいことがあるんだ」
私に、やって欲しいこと?
黙って立ち尽くす葵の前で、愁哉が満足そうに微笑んだ。




