表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/28

25

 春休み前のキャンパスで、葵は玲子と会った。

「姉から連絡がきたの」

 柔らかな午後の日差しが降り注ぐベンチで、玲子が葵にそう言った。

「お姉さん、何て?」

 玲子はふっと笑って答える。

「愁哉と一緒に暮らすことになった。ごめんね、って」

 目の前を、笑い合いながら通り過ぎる学生たち。

 風はまだ少し冷たいけれど、春色の服装が目立つようになった。

「なにが『ごめんね』なんだか、意味わかんない。お姉ちゃん、いつまで私に気を使うつもりなんだろ」

 そう言いながら、もう一度小さく笑った玲子が葵を見る。

「愁哉は? 何か言ってた?」

 葵は愁哉の言葉を思い出す。

「今描いてる絵が出来上がったら、あの家を出て行くって」

「……そっか」

 玲子がぽつりとつぶやいて、前を見る。

 遠くに見える桜の木は、まだ花開く気配はない。

 入学式の日、愁哉と歩いた坂道に咲いていた、桜の花を思い出す。

「大丈夫? 葵」

「え、何が?」

 ぼうっとしていた自分に気がつき、葵はぎこちない笑顔を作る。そんな葵を見て、玲子がふわりと微笑んだ。

「あー、もうやめ、やめ! あの二人に振り回されるのは、もうやめよう! ね、それよりさ、明日服買いに行くの、付き合ってくれない? 春物の服、買いたいんだ」

「うん、いいよ。私も買いたい」

 葵はそう答えると、玲子に静かに笑いかけた。


 玲子と別れた後、葵は一人キャンパスの外れにある、あのデッサン室へ向かった。

 ひと気のないこの場所は、今日も自由に出入りできた。

 あの日、愁哉が座っていた場所へ腰かける。

 ここで愁哉は絵を描いていた。愛おしい彼女を見つめるように、あたたかいまなざしをスケッチブックの中へ注いで。

「ふっ……」

 嗚咽がもれそうになり、右手で口元をおおう。

 けれど涙があふれ出し、こらえようと思えば思うほど、声が抑えられなくなる。

 いいよね、泣いても。ここには誰もいないんだし。

 静まり返ったデッサン室で、恥ずかしいほど声をあげて泣いた。

 春子の家で愁哉と出会わなければ、こんな想いはしなかったのに……ううん、違う。

 それはもう決まっていた。

 あの日この場所で、彼の姿を見かけた時から……私が恋に落ちることは、決まっていたんだ。


 泣き疲れていつの間にか眠ってしまい、気づくと外は薄暗くなっていた。

 あわててデッサン室を飛び出し、素知らぬ顔で大学の門を出る。

 柔らかな風に誘われて空を見上げたら、夜の始まりの群青色の空に、美しい月が浮かんでいた。

「あ、満月……」

 一人で見るのはもったいないほどの。

 ――葵にさ、見せたいものがあるんだけど。

 そうか。あの時の愁哉くんも、今の私と同じ気持ちだったんだ。

 そんなことを考えながら、坂道の途中で立ち止まる。

 少し先で立っている人影。ここからでもすぐにわかる。

「愁哉くん」

 葵の声に、近づいてきた愁哉が小さく笑った。


「どうしてわかったの? 私が今、思ってたこと」

 一緒に空を見上げたかったこと。

「葵の考えてることはわかるんだ。もう一年も一緒に住んでるんだから」

 そう言って愁哉が、いたずらっぽく笑う。

「そっか……もう一年経つんだね」

「だな」

 そして愁哉が、夜空に顔を向けてぽつりと言った。

「一年間、ありがとうな。葵」

 顔を上げ、隣に立つ愁哉を見る。そんな愁哉の視線の先に、白く輝く月。

 何度も一緒に並んで歩いた。

 手と手が触れ合うほどの近くにいた。

 だけどいつだって、この人の見ているものは、私ではなかった。

「葵」

 愁哉が葵の名前を呼ぶ。

「最後に一つだけ、頼みがあるんだけど」

 ゆっくりと視線を下げた愁哉が葵を見る。

「あとで俺の部屋に来てくれないかな。葵にやって欲しいことがあるんだ」

 私に、やって欲しいこと?

 黙って立ち尽くす葵の前で、愁哉が満足そうに微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ