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 愁哉が家に戻ってきたのは、その日の真夜中近くだった。

 朝の早い春子はとっくに眠っていて、ぼんやりと灯りの灯る二階の部屋で、葵だけが愁哉の帰りを待っていた。

「お帰り」

 ドアを開け、二階へ上がってきた愁哉に声をかける。少し驚いたような表情のあと、愁哉は小さく笑って葵に言う。

「ただいま」

 そして、自分の部屋のドアノブに手をかけながらつぶやいた。

「まだ起きてたのか?」

「うん。愁哉くんのこと、待ってたの」

 手を止めて、振り返った愁哉が葵を見る。かすかに漂う甘い香り。

 それだけで、もうわかった。聞かなくても、もうわかってしまった。

「涼子さんに……会ってきたんでしょ?」

 一瞬間があいたあと、愁哉が穏やかな表情で答えた。

「うん。会ってきた」


 桜色の手紙。丁寧な文字。甘い香り。そんな間接的なものでしか、葵は彼女のことを知らない。

 ――本当は一人ぼっちの生活になじめなくて、寂しい思いをしてるんじゃないのかなぁ。

 玲子の言葉が事実なのかも、彼女が誰を求めているのかも、葵にはわからない。

 だけど……愁哉が今でもずっと、彼女を想っていることだけは知っている。

「あの絵が描けたら……」

 小さな音を立て、愁哉がドアを少し開く。薄暗い部屋の中に立てかけてある、描きかけだという絵。

「俺、この家を出ようと思う」

 愁哉の声が葵の耳を通り抜け、胸の奥に響く。

「涼子と一緒に、暮らそうと思う」

 葵は静かに目を閉じた。

 愁哉が幸せになることを、葵も望んでいたはずなのに……。

 どうしてこんな気持ちになるんだろう。どうしてこんな想いをしなくちゃいけないんだろう。

 人を好きになるって――こんなにも、つらくて苦しいものだったんだ。



 三月になると、少しずつ暖かい日が増え始めた。

 そして葵はその頃、愁哉の代わりに、春子の絵画教室を手伝うようになっていた。

 愁哉がデザイン事務所でアルバイトを始めたからだ。

 今はまだバイト待遇だけど、実績が認められれば、正社員へ登用される場合もあるらしい。

 ただ、デザインの仕事が自分に向いているかどうかは、自分でもよくわからないと愁哉は言っていた。

「若いうちはいろんなことやってみればいいの。いくらでもやり直しはきくんだから」

 愁哉の勤め先が決まった夜、三人で夕食を食べながら春子が言った。

「でもどうしようかしら。絵画教室のお手伝いもしてもらいたいのに」

「あ、それは葵に」

 突然振られて、葵は驚いて箸を止める。

「え、私?」

「俺よりきっと、葵のほうが向いてると思うから」

「そ、そんなこと……」

 私が人に教えるなんて。

 戸惑う葵の前で、春子はにこりと微笑んで言う。

「そうね、じゃあ、葵ちゃんに手伝ってもらおうかしら?」

 葵がゆっくり顔を上げると、目の前に座る愁哉が静かに笑いかけた。


「お姉ちゃん」

 突然エプロンの裾をくいっと引っ張られる。見ると絵画教室の生徒の子が、葵のことを見上げている。眼鏡をかけた小学二年生の洋太だ。

「愁哉くんは?」

「え?」

「愁哉くんは今日いないの?」

「あ、うん、ごめんね。今日は愁哉くんいないんだ」

 葵が言うと、洋太は自分の描いた絵を手に持って、残念そうにうつむいた。

「愁哉くんに……見てもらいたかったの? その絵」

 うつむいたまま、洋太がうなずく。

「だって愁哉くんは、いつも僕の絵、褒めてくれるから」

 なんとも言えない想いが、葵の胸にこみ上げる。

 葵は洋太の前にしゃがみ込み、その声にそっと耳を傾けた。


「図工の時間に僕が描いた絵、みんながヘンだって笑うんだ。学校の先生も『そこにその色を塗ったらおかしいでしょう?』って。僕はそんな色、塗りたくないのに」

 洋太の持っている絵をのぞきこむ。確かに常識的に言えば、その場に合わない色が塗られている。

「でもさ、愁哉くんは『この色のほうがカッコいい』って言ってくれたんだ。『その色どうやって作ったの?』って」

「そうなんだ」

「ねぇ、お姉ちゃんはどう思う?」

 画用紙を両手で持って、洋太は葵の前に絵を広げる。

「私も、その色のほうがカッコいいと思う」

 葵の前に、洋太の笑顔が広がる。

 目の前にあるものを、忠実に表現しなければならない時も、将来来るかもしれないけれど。

 でも今は、この子の思うままに、世界を好きな色で彩って欲しい。


 絵の具の匂いと、子どもたちの笑顔であふれた春子の教室。

 この部屋にいると、すごく落ち着く自分に気がつく。

 そして葵は少しだけ思う。

 ここに愁哉がいたら、もっといいのに、と。

 それは決して叶わない願いだって、わかってはいるけれど。

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