23
東京に降った初雪は、その日の夜にはもう止んでしまった。
静まり返った部屋の中、葵は窓から外をながめる。
うっすらと白くなった屋根の上、今夜の夜空に月はない。
春。この窓から愁哉と見上げた、白い月を思い出す。
葵は小さく息を吐き、バッグの中から桜色の封筒を取り出した。
玲子宛てのその手紙には、彼女の姉の住所が書かれている。
その住所を覚えてしまうほど何度も、葵はバッグから出しては眺め、それをしまっていた。
「……渡さなくちゃ」
小さく声に出してから、葵は立ち上がり部屋を出た。
廊下を挟んだ向かいの愁哉の部屋からは、まだ灯りがもれていた。
ドアをノックすると、すぐに愁哉が顔を出した。
「何か用?」
「うん……あの、ちょっと」
そう言えば、愁哉の部屋を訪ねるのなんて何か月ぶりだろう。
言葉をにごしながら顔を上げると、目の前に立つ愁哉の向こうに絵が見えた。
青く塗られた大きな画面。壁に立てかけられたその絵は、微妙に違う青い色が、淡く濃く、何重にも重ねて塗られている。
「見るなよ」
はっと気がついて愁哉を見た。
「まだ途中なんだから」
そう言った愁哉がかすかに笑う。のぞき見するなと怒られるかと思ったのに、愁哉は怒っていなかった。
「あ、あの、これ……」
葵はあわてて持っていた封筒を差し出す。
「なに?」
「玲子ちゃん宛てに来た……涼子さんからの手紙だよ」
愁哉はその封筒を手に取ると、黙ってその文字を見つめた。
「玲子ちゃんが愁哉くんに渡してって……住所も書いてあるからって」
――追いかけて行っちゃえばいいのに。
いつか愁哉にそう言ったのは自分だ。それなのに今夜、泣きたいほど哀しい気持ちになっている。
愁哉が手紙をポケットに突っ込んだのが見えた。唇を噛みしめて顔を上げると、愁哉と視線が合った。
目と目を合わせ、愁哉と見つめ合う。けれどそれは一瞬のことで、すぐに愁哉のかすれるような声が聞こえた。
「玲子に……ありがとうって言っといて」
背中を向けた愁哉がドアを閉じる。葵は力が抜けたように、その場にぺたりと座り込む。
行っちゃうんだ……彼女のところへ。
そう思ったら涙があふれそうになって、葵は自分の部屋へかけこんだ。
凍えるような寒さと、冬晴れの日が続く。あの日以来、東京に雪は降らない。
「会いに行ったのかなぁ……」
実習室に残って課題を仕上げていた玲子がぽつりと言った。
西日の差し込むこの部屋には、葵と玲子の二人しかいない。
「……わかんない」
息を吐くようにつぶやいた葵のことを、玲子が見た。
「葵?」
名前を呼ばれて顔を上げる。玲子はじっと葵の顔を見つめている。
「あんた元気ない」
「そ、そんなことないよ?」
苦笑いをして視線をそらす。床に置いたパネルを見つめ、淡い色を重ねていく。
「葵、あんたもしかして……」
だけどその先の言葉を、玲子が口にすることはなかった。
葵は握った絵筆を動かす。今はただ、課題を仕上げることに集中しなくちゃ……。
けれど気づいてしまったその想いは、葵の中で雪のように降り積もり、決して溶けることはなかった。
その夜、夕食が並べられた席に、愁哉はいなかった。
「……遅いね。愁哉くん」
葵は時計の針を確認する。
「そうね。夕食がいらない日は、必ず連絡してくるはずなのにね」
そう言いつつも春子は、そんなに心配している様子ではなかった。テーブルの上に料理を並べ、自分も葵の前に座る。
「先に食べてましょう」
「うん」
春子と二人で夕食をとる。
もしも愁哉がこの家からいなくなったら……毎晩こんなふうに二人だけで過ごすのかな、となんとなく考える。
「もうすぐ一年が経つわねぇ」
「え?」
春子の言葉に葵が顔を上げる。
「葵ちゃんがうちに来てから、もうすぐ一年」
ああ、そうか。カレンダーをめくればもう三月。葵がこの家にやってきて、もう一年が経とうとしていた。
「もう学校にも慣れたでしょう?」
「うん。でも……」
最初からわかっていたこととはいえ、自分の才能のなさを、この一年ではっきり知ってしまった気がする。
どんなに頑張って描いても、葵の描く絵は「絵を描くのが好きな子」が描いた絵にすぎないのだ。
「ああ、そう言えば」
春子が思い出したように立ち上がり、どこかからパネルに貼られた一枚の絵を持ってきた。
「これこれ、この前偶然見つけたの。葵ちゃんに渡さなくちゃと思ってて」
春子の手から葵の手へ、その絵が渡される。
「これは……」
淡い絵具で色づけられた日本画。緑色の葉の中に、白や淡紅色の小さな花が咲いている。
「葵ちゃんの、お父さんが描いた絵よ」
葵はその絵をじっと見つめる。
「昔、少しの間、お父さんもここで絵を描いていた時期があったの。それはその時、描いた絵。冬葵というお花なの」
「冬葵……」
「小さくてとっても可愛いのに、冬も枯れずに咲き続けるという、強いお花なんですって」
春子がそう言って、にこりと微笑む。
「きっと葵ちゃんの名前にも、そんな願いが込められていたのかもしれないわね」
絵を持ったまま、葵は小さくうなずいた。淡くて優しい色合いが、父の笑顔を思い出させる。
「これ、私がもらってもいいの?」
「もちろん。それは葵ちゃんのものよ」
葵はその絵を抱きしめて、こぼれ落ちそうになった涙を、指先でそっとぬぐった。




