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 ちゃっかり一晩、葵の実家に泊まった愁哉は、次の日一人で東京へ帰ると言った。

「愁哉くん、もっとゆっくりしていってもいいのよ?」

 母は残念そうにそう言ったが、2DKのアパートに、何日も他人を泊められるわけがない。

「また来てね。待ってるからね」

「ありがとうございます」

 名残惜しそうに手を振って、母は職場へ向かって行く。

 年末年始を実家で迎えると決めていた葵は、バスで愁哉を駅まで送った。


「東京に戻ったら、俺も一度実家に帰るよ」

「え?」

 ひと気のない駅のホームで、本数の少ない電車を待ちながら、葵は愁哉の顔を見た。

「親父とちゃんと、話し合ってみようと思う」

 愁哉は葵を見て小さく笑うと、白い息を吐いて空を見上げた。

 今日も空は青空だ。愁哉の隣に並んで、葵も同じ空を見る。

 だけど今日の空は、なんだか少し切ない。

 新しい一歩を踏み出そうとしている愁哉。そんな彼のことを応援してあげたいんだけど……。

 愁哉はきっと行ってしまう。ずっと好きだった彼女のところへ。

 ――お姉ちゃんのところへは行かないで!

 いつか聞いた玲子の言葉が、なぜだか今ごろ頭に浮かぶ。


 電車がホームへ入ってきた。

「じゃあ、またな」

 そう言って電車に乗り込む愁哉の背中を見送る。

 どうしてだろう。どうしてこんなに寂しいんだろう。

 やがて愁哉を乗せた電車が、葵の前から静かに走り去った。


 年明けに春子の家に戻っても、愁哉はそこにいなかった。

「実家でお父さんに会って来るって言ったきり、まだ戻ってこないのよ」

 春子はそう言って葵に笑いかける。

「おかげで今年は、たった一人で新年を迎えちゃったけど」

「ごめんね、おばさん。一人ぼっちにさせちゃって」

「何言ってるの。お母さん喜んでたでしょ? もっとゆっくりしてきてもよかったのよ?」

 葵はかすかに微笑んだ後、静まり返った家の中を眺めながらつぶやいた。

「愁哉くん……ちゃんとお父さんと話せたのかな?」

「そうねぇ、あのお父さん、かなりクセのある人だからね。息子のことは大事に思っているはずなんだけど、その伝え方が下手なのよ」

 その時、玄関を開ける音がした。葵はリビングを飛び出し、玄関へ顔を出す。

「愁哉くん……」

 大きな荷物を肩から下げた愁哉は、葵の顔を見て「ただいま」と小さく笑った。


「俺、学校辞めることにしました」

 ソファーに座った春子に愁哉が言うと、春子はまるでわかっていたかのように静かにうなずいた。

「親父は最初、俺の話なんか聞いてもくれなくて。でもなんとか、自分の気持ちは伝えたつもり。小さい頃からずっと、思ってたことも。全然わかっては、もらえなかったけど」

 葵は黙って愁哉の言葉を聞いていた。

「最後には『親の気持ちがわからないやつは出て行け。学費も生活費も援助しない。自分一人で生きていけ』って」

「お母様はなんて?」

「母親も親父には逆らえないから。俺が家を出て行くことを、止めたりはしなかった」

「そう」

 春子がもう一度深くうなずく。

「それで、春子さんにお願いがあるんですけど」

 そんな春子に向かって、愁哉が改まった様子で言う。

「俺、学校辞めて働きますから。仕事が見つかるまで、もう少しこの家に置いてもらえませんか? 下宿代も今までのバイト代から、ちゃんと払います」

「愁哉くん」

 春子が静かに口を開く。

「あなた、学校を辞めることに悔いはないの?」

 少し考えてから愁哉が答えた。

「親の金で学校行かせてもらったくせに、こんなこと言ったらまた怒られそうだけど……俺、他の人たちみたいに、本当に入りたいと思ってあの学校に入ったわけじゃないし。それに絵は、どこにいても描けるから」

「絵を描くことは、続けてくれるのね?」

 黙ってうなずいた愁哉に向かって、春子がふんわりと微笑んだ。

「わかったわ。今まで通りここで暮らしなさい。その代わり、一つ手伝ってもらいたいことがあるの」

「手伝ってもらいたいこと?」

「そう」

 少しいたずらっぽく笑った春子が、愁哉と葵の顔を交互に見る。


「私のアトリエ……前に葵ちゃんと綺麗にした部屋ね。あそこでまた子どもたちと、絵を描きたいと思ってるの」

 にこりと春子が笑顔を見せる。

「実は近所の方たちから、うちの子どもに絵を教えて欲しいって言われてたの。ずっと断わっていたんだけどね。でもこの前アトリエを片づけてるうちに、小さかった愁哉くんのことを思い出したりして。もう一度あの部屋で、子どもたちと絵を描くのもいいかもしれないって思ったのよ」

「うん、ステキ! すごくいいと思う!」

 思わず声を上げた葵のことを、愁哉がちらりと横目で見る。

「で、俺が手伝うことって?」

「愁哉くんにも絵を描いて欲しいの。子どもたちと一緒に」

「俺が?」

 春子がうなずく。

「私はね、絵画教室って言っても、決まりきった絵の描き方なんて教えたくないの。子どもたちには、自由に描く楽しさを知って欲しい。教えたいのはそれだけなのよ」

 自由に描く楽しさ……葵はその言葉を頭の中で繰り返す。

「ね、いいでしょう? 愁哉くん。その代わり下宿代はいらないわ。今まで通り三食付きで、たまに私の手伝いしてくれればいいわよ」

「いや、でも、俺は……」

「大丈夫。あなたはもう自由なの。好きなものを好きなように描けばいい。時間はかかるかもしれないけど、きっといつか、あなたのお父さんもわかってくれると思う」

 愁哉は黙り込み、それ以上何も言わなくなった。葵も黙って、考え込むような愁哉の横顔を見つめる。

 春子はそんな愁哉のことを、穏やかなまなざしで見つめていた。

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