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 電車を降りて小さなホームに立つと、後ろでくしゃみが一つ聞こえた。

「静岡……寒いじゃん」

 ぼそっとつぶやく愁哉は、ニット帽をかぶりマフラーを鼻のあたりまで巻きつけ完全防備だ。

 どうやら寒いのは苦手らしい。

「東京よりはあったかいと思うんだけど」

「寒い」

 だったらついて来なきゃいいのに、と思ったけれど、それは口に出さないでおいた。


 冬休み。年末年始を静岡の実家で過ごすと言ったら、「俺も行きたい」となぜか愁哉が言った。

「え、なんで?」

 春子の家のダイニングテーブルで、夕食を食べながら愁哉に聞く。

 最近愁哉は、葵や春子と一緒に食事をとるようになった。それ以外の時間もリビングでテレビを見ていたり、春子の手伝いをしたりしている。

 一日中部屋にこもっていた頃と比べれば、人間らしい生活をしていると思うけど。

 絵を描くのはやめちゃったのかな? なんて、それはそれで心配になる。

 愁哉の考えていることは、いまだによくわからない。

「なんでって暇だし。葵の生まれた町、見てみたいし」

「え……」

 驚く葵の前で、愁哉は素知らぬ顔をして、春子自慢のホワイトシチューを口にしている。

 ――俺の背中押してくれないかな。

 あの日、デッサン室で言われた言葉。だけど実際どうすればいいのかわからなくて。

 でももしかしたら、愁哉くんの力になれるかもしれない、なんて思う。

 私が見てきた景色を、愁哉くんにも見て欲しいって思う。

「なんにもない所だよ?」

「なんにもなくても……」

 スプーンを持ったまま、愁哉が葵を見る。

「葵の思い出がある場所なんだろ?」

 そう、私の思い出がたくさん詰まった、とても大切な場所。


「葵ちゃーん!」

 駅舎から外へ出ると、いつものロータリーに母が車を停めていた。

 葵が小さく手を振ると、母は嬉しそうに駆け寄ってきた。

「葵ちゃん、お帰り!」

「ただいま。あの、この人が同じ学校の三國愁哉くん」

 後ろに立つ、愁哉のことを紹介する。母には今日、愁哉が来ることは伝えてあった。

「こんにちは。初めまして」

「あらあら、まあまあ」

 愁哉が口元まで巻きつけていたマフラーをはずし、爽やかな笑顔を見せると、母は嬉しそうに葵に耳打ちしてきた。

「やだ、すごくカッコいい子じゃない? 葵ったら、こんな男の子と一緒に住んでたのね? 羨ましいわー」

「お母さん……」

 春子の家にもう一人、同じ学校の男の子が下宿していることも、今回母に初めて話した。

 驚くかなぁ、と思ったけれど、全然そんなことはなかった。

 ――あら、男の子がいてくれたら、安心じゃない? 春子おばさんがいるとはいえ、女だけの暮らしは何かと不安だものね。

 電話の向こうで、母はあっけらかんとそう言っていた。

「寒かったでしょう? 狭い車だけど、どうぞ乗って乗って!」

 母が後部座席のドアを開け、押し込むように愁哉の背中を押す。

「すみません。突然来ちゃって」

「いいのよぉ。でも葵がこんな素敵な男の子連れてくるなんてねぇ」

「お母さん! ヘンな勘違いしないでよ? 愁哉くんは春子おばさんちに住んでる、ただの先輩なんだから」

「あら、なんだ、そうなの? 葵が男の子連れてくるっていうから、お母さんはてっきり……」

「もうお母さん! いいから前向いてちゃんと運転して!」

 ハンドルを握る母が、「はい、はい」なんて言って笑っている。小さくため息をついた葵の隣で、愁哉が笑いをこらえるようにして、窓の外を眺めていた。


「じゃあ、また夕方にね」

 仕事を抜け出して来てくれたという母は、葵と愁哉をアパートの前に降ろすと、また職場へ戻っていった。

「ごめんね? うちのお母さん、いつもあんな感じなの」

「なんで謝んの? 仲いいんだな、お母さんと」

「お父さんが亡くなってからはね。それまでは私、すっごいお父さんっ子だったから」

 そう言いながら、葵は古い二階建ての建物を見上げる。

 父が亡くなってから、母と二人で引っ越してきたアパート。

 ここの二階の2DKの部屋に、葵は高校卒業まで暮らしていた。

「えっと、うち、ここなんだけど。上がる?」

 愁哉とは一緒の家で暮らしているけれど、この狭い部屋で二人きりになるのとは、ちょっとわけが違う。

 急におどおどし出した葵を見て、愁哉がおかしそうに笑った。

「お母さん帰ってくるまで、散歩でもするか」

「散歩?」

「葵、どこか連れてってよ」

 葵の頭に、いつも父とスケッチブックを抱えて出かけた、懐かしい場所が次々と浮かんだ。


 愁哉と一緒に大きな川の土手の上を歩いた。

 葵が幼い頃、いつも父と一緒に来た場所だ。

「ここでよく、お父さんと絵を描いてたの」

 立ち止まって、周りの景色を見回す。

 あたたかい、とまでは言えなかったが、風もなく日差しも柔らかかったので、寒くはなかった。

 そういえば夏にここに来た時は、時間も暑さも忘れて、ずっと絵を描いていたっけ。

「今思えば私、ファザコン? ってやつだったのかもしれないな……」

 ぽつりと葵がつぶやいた。

「お父さんに褒めてもらえるのが嬉しくて……そのために私、絵を描いてたのかもしれない」

 すると隣に立つ愁哉が少し笑って言った。

「だったら俺もファザコンだな。葵とは違った意味で」

 愁哉が土手の途中の草の上に座る。

「俺も、あの人のために絵を描いてた。大嫌いなはずなのに、それでもあの人に褒めてもらいたくて。結局いまだに、褒めてもらったことないんだけど」

 葵はそんな愁哉の姿を見下ろしてから、その隣に静かに座った。


 目の前をゆったりと川が流れる。かすかに吹いた風が頬に当たる。

 やがて、しばらく黙り込んでいた愁哉が、葵の隣でごろんと仰向けに寝転んだ。

「……空が、青いなぁ」

 愁哉の声が耳に聞こえる。葵も思わず愁哉の隣で仰向けになった。

 高く広がる澄んだ空。余計なものは何も見えない。ただ青い空だけが目に映る。

 愁哉がそんな空に向かって腕を伸ばした。

 絵筆を持つようなしぐさで、その手を右から左へ大きく動かす。

「あ……」

 青い空にすうっと伸びた、一本の白い線。

「飛行機雲……」

 隣の愁哉が、満足そうに微笑むのがわかる。

 見えるはずのない白い雲を、愁哉の指先が鮮やかに空に描いた。

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