20
電車を降りて小さなホームに立つと、後ろでくしゃみが一つ聞こえた。
「静岡……寒いじゃん」
ぼそっとつぶやく愁哉は、ニット帽をかぶりマフラーを鼻のあたりまで巻きつけ完全防備だ。
どうやら寒いのは苦手らしい。
「東京よりはあったかいと思うんだけど」
「寒い」
だったらついて来なきゃいいのに、と思ったけれど、それは口に出さないでおいた。
冬休み。年末年始を静岡の実家で過ごすと言ったら、「俺も行きたい」となぜか愁哉が言った。
「え、なんで?」
春子の家のダイニングテーブルで、夕食を食べながら愁哉に聞く。
最近愁哉は、葵や春子と一緒に食事をとるようになった。それ以外の時間もリビングでテレビを見ていたり、春子の手伝いをしたりしている。
一日中部屋にこもっていた頃と比べれば、人間らしい生活をしていると思うけど。
絵を描くのはやめちゃったのかな? なんて、それはそれで心配になる。
愁哉の考えていることは、いまだによくわからない。
「なんでって暇だし。葵の生まれた町、見てみたいし」
「え……」
驚く葵の前で、愁哉は素知らぬ顔をして、春子自慢のホワイトシチューを口にしている。
――俺の背中押してくれないかな。
あの日、デッサン室で言われた言葉。だけど実際どうすればいいのかわからなくて。
でももしかしたら、愁哉くんの力になれるかもしれない、なんて思う。
私が見てきた景色を、愁哉くんにも見て欲しいって思う。
「なんにもない所だよ?」
「なんにもなくても……」
スプーンを持ったまま、愁哉が葵を見る。
「葵の思い出がある場所なんだろ?」
そう、私の思い出がたくさん詰まった、とても大切な場所。
「葵ちゃーん!」
駅舎から外へ出ると、いつものロータリーに母が車を停めていた。
葵が小さく手を振ると、母は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「葵ちゃん、お帰り!」
「ただいま。あの、この人が同じ学校の三國愁哉くん」
後ろに立つ、愁哉のことを紹介する。母には今日、愁哉が来ることは伝えてあった。
「こんにちは。初めまして」
「あらあら、まあまあ」
愁哉が口元まで巻きつけていたマフラーをはずし、爽やかな笑顔を見せると、母は嬉しそうに葵に耳打ちしてきた。
「やだ、すごくカッコいい子じゃない? 葵ったら、こんな男の子と一緒に住んでたのね? 羨ましいわー」
「お母さん……」
春子の家にもう一人、同じ学校の男の子が下宿していることも、今回母に初めて話した。
驚くかなぁ、と思ったけれど、全然そんなことはなかった。
――あら、男の子がいてくれたら、安心じゃない? 春子おばさんがいるとはいえ、女だけの暮らしは何かと不安だものね。
電話の向こうで、母はあっけらかんとそう言っていた。
「寒かったでしょう? 狭い車だけど、どうぞ乗って乗って!」
母が後部座席のドアを開け、押し込むように愁哉の背中を押す。
「すみません。突然来ちゃって」
「いいのよぉ。でも葵がこんな素敵な男の子連れてくるなんてねぇ」
「お母さん! ヘンな勘違いしないでよ? 愁哉くんは春子おばさんちに住んでる、ただの先輩なんだから」
「あら、なんだ、そうなの? 葵が男の子連れてくるっていうから、お母さんはてっきり……」
「もうお母さん! いいから前向いてちゃんと運転して!」
ハンドルを握る母が、「はい、はい」なんて言って笑っている。小さくため息をついた葵の隣で、愁哉が笑いをこらえるようにして、窓の外を眺めていた。
「じゃあ、また夕方にね」
仕事を抜け出して来てくれたという母は、葵と愁哉をアパートの前に降ろすと、また職場へ戻っていった。
「ごめんね? うちのお母さん、いつもあんな感じなの」
「なんで謝んの? 仲いいんだな、お母さんと」
「お父さんが亡くなってからはね。それまでは私、すっごいお父さんっ子だったから」
そう言いながら、葵は古い二階建ての建物を見上げる。
父が亡くなってから、母と二人で引っ越してきたアパート。
ここの二階の2DKの部屋に、葵は高校卒業まで暮らしていた。
「えっと、うち、ここなんだけど。上がる?」
愁哉とは一緒の家で暮らしているけれど、この狭い部屋で二人きりになるのとは、ちょっとわけが違う。
急におどおどし出した葵を見て、愁哉がおかしそうに笑った。
「お母さん帰ってくるまで、散歩でもするか」
「散歩?」
「葵、どこか連れてってよ」
葵の頭に、いつも父とスケッチブックを抱えて出かけた、懐かしい場所が次々と浮かんだ。
愁哉と一緒に大きな川の土手の上を歩いた。
葵が幼い頃、いつも父と一緒に来た場所だ。
「ここでよく、お父さんと絵を描いてたの」
立ち止まって、周りの景色を見回す。
あたたかい、とまでは言えなかったが、風もなく日差しも柔らかかったので、寒くはなかった。
そういえば夏にここに来た時は、時間も暑さも忘れて、ずっと絵を描いていたっけ。
「今思えば私、ファザコン? ってやつだったのかもしれないな……」
ぽつりと葵がつぶやいた。
「お父さんに褒めてもらえるのが嬉しくて……そのために私、絵を描いてたのかもしれない」
すると隣に立つ愁哉が少し笑って言った。
「だったら俺もファザコンだな。葵とは違った意味で」
愁哉が土手の途中の草の上に座る。
「俺も、あの人のために絵を描いてた。大嫌いなはずなのに、それでもあの人に褒めてもらいたくて。結局いまだに、褒めてもらったことないんだけど」
葵はそんな愁哉の姿を見下ろしてから、その隣に静かに座った。
目の前をゆったりと川が流れる。かすかに吹いた風が頬に当たる。
やがて、しばらく黙り込んでいた愁哉が、葵の隣でごろんと仰向けに寝転んだ。
「……空が、青いなぁ」
愁哉の声が耳に聞こえる。葵も思わず愁哉の隣で仰向けになった。
高く広がる澄んだ空。余計なものは何も見えない。ただ青い空だけが目に映る。
愁哉がそんな空に向かって腕を伸ばした。
絵筆を持つようなしぐさで、その手を右から左へ大きく動かす。
「あ……」
青い空にすうっと伸びた、一本の白い線。
「飛行機雲……」
隣の愁哉が、満足そうに微笑むのがわかる。
見えるはずのない白い雲を、愁哉の指先が鮮やかに空に描いた。




