表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/28

 幼い頃から葵は、絵の具の匂いの中で育った。

 家にあった、こぢんまりとしたアトリエ。葵の父はそこでよく絵を描いていて、家に小さな子どもたちを集めて絵画教室を開いていた。

「僕が君たちに教えることなんて、何もないんだよ。絵には上手い下手なんてない。描きたいものを描きたいように描けば、それでいいんだから」

 父はよくそんなことを言っていた。にこにこと穏やかに微笑みながら。

 そしてみんなの描いた絵を、いつも褒めてくれるのだ。

「この色、とても綺麗だね」

「楽しそうな表情が、すごくよく伝わってくるよ」

 もちろん父は、葵の絵も褒めてくれた。

「葵の描いた絵を見てると、お父さんは幸せな気持ちになれる」

 そう言って頭をなでてくれる父を見て、葵も幸せな気持ちになれたのだ。

 そんな大好きだった父は、葵が十歳になった春、病気で亡くなってしまったけれど。


「やっぱりこっちの部屋は日当たりが良いわねぇ」

 ダンボール箱の中の荷物を整理している葵の隣で、春子が言った。

 要領が悪いのか、なかなか部屋の片付けが進まない葵を見兼ねて、今日は春子も荷物の整理を手伝ってくれたのだ。

 たいした荷物もないはずなのに。昔から何をするのも遅い自分が嫌になる。

「愁哉くんの部屋は日当たりが悪いのよ。北側だから」

「え」

 思わず顔を上げて春子を見た。春子はそんな葵に向かってにこりと微笑む。

「愁哉くんがね、女の子が来るんだったら、日当たりの良い部屋のほうがいいだろうって。自分からお部屋替わってくれたのよ」

「そう、だったんですか」

「なかなか気が利く子でしょ? あの子」

 なんだか申し訳ないな。私のほうが後から来たのに。

 そういえば、いつからこの家に住んでいるんだろう。あの人は。


「明日の入学式」

 春子の声にはっと我に返る。ぼんやりとして、また手が止まっていた。

「一人で大丈夫? 私もついていこうか?」

「だ、大丈夫です。たぶん……」

 実はちょっと不安だった。

 この家から大学までは歩いて十分程度。

 とても近いはずなのに、まだ行ったことはない。

 入学式までに一度下見をしようと思っていたんだけど、部屋の片付けに追われているうちに、結局入学式は明日になってしまった。

「ああ、そうだ。愁哉くんについて行ってもらえば?」

「えっ!」

 思わず手に持っていた物を落としそうになり、葵は慌てて体制を整えた。

「途中にあるスーパーとか本屋さんとか、教えてもらったらいいわよ。私から頼んであげるわね」

「あ、えっと……そんなの、悪いし」

「大丈夫、大丈夫。葵ちゃんみたいに可愛い子、きっと喜んで連れて行ってくれるわよ」

 可愛いだなんて……思ったこともないのに。

「あ、いけない。ご飯炊くの忘れてた。あとは一人で大丈夫ね、葵ちゃん」

「はい」

 慌ただしく部屋を出て行く春子を見送る。

 たった一人残された、かすかに絵の具の匂いのする部屋で、葵は小さくため息をついた。


 入学式の日は朝から天気が良く、あたたかな風が心地よかった。

「あの、ほんとにすみません」

 春子に見送られて家を出て、愁哉と並んで歩きながら葵がつぶやく。

「別にいいよ。どうせ暇だし」

「すみません」

 もう一度そう言った葵を見て、愁哉が笑う。

「あんた初めてこの家に来た時、迷子になりかけたんだって?」

「えっ」

 春子おばさん、しゃべっちゃったのかな。そんな恥ずかしいこと。

「駅からあの家までで、どうやったら迷えるんだよ」

 そ、そんなこと言われたって……私だって迷いたくて迷ってるんじゃないもの。

「そんなんじゃきっと、大学までもたどり着けないって思ってさ」

 隣で笑っている愁哉の横顔を、ちらりと見る。

 その向こう側には、坂道に沿って並んでいる桜の木。

 初めてこの道を歩いた時は、周りの景色を眺める余裕もなくて、気づかなかったけれど。

 満開を過ぎた桜の花が、葵たちの上からはらはらと舞い落ちる。


「オープンキャンパスに行った時も」

 そんな淡い色の中、葵の頭に浮かんだのは、やっぱりあの日の光景だ。

「学校の中で迷っちゃって……」

「ああ、この前のデッサン室の話?」

 思い切って顔を上げ、こちらを向いた愁哉の顔をじっと見る。

 違うとその口から言われてからも、実はまだ思っていた。

 あのデッサン室の彼は、やっぱり愁哉じゃないのかなって。

「もしかしてあんた、その男に惚れちゃったの?」

「ちがっ!」

 思わず大きな声が出て、葵は慌てて口元を覆う。

「ちが、違います」

「なんだ、つまんねぇの。俺、そいつのこと、探してやろうかと思ってたのに」

 本気なのかな、それ。

 ぼんやりと考えながら、坂道を下る。

 いつの間にか人が多くなってきたと思ったら、葵は大学の門に着いていた。


「ここでいい?」

「は、はい。ありがとうございました」

 門の前で立ち止まり、葵はぺこりと頭を下げる。

 結局、スーパーも本屋さんも気づかないうちに通り過ぎていた。

 男の人と並んで歩くなんて初めてで、緊張してしまったから。

「それじゃ」

 軽く手を上げて立ち去ろうとした愁哉に、女の人が駆け寄ってきた。


「愁哉じゃない。どうしたの?」

「絵里花」

 葵はその場に立ち止まったまま、絵里花と呼ばれた人の姿をぼんやりと見る。

 春色の服をさらりと着こなした、髪の長い綺麗な人。

 葵のようなスーツ姿ではないし、気軽に愁哉に話しかけている様子を見ると、この学校の先輩なんだろう。

「うん? ちょっと迷子の道案内をな」

「なんなの? それ」

 くすっと笑った絵里花が葵のことを見る。そしてもう一度、声を出さずに口元を緩ませた。

「お前こそ、何やってたんだよ?」

「私は入学式のお手伝い。もう終わったけど。ね、この後ヒマ? ご飯でも食べにいかない?」

「別にいいけど」

 絵里花の手が、さりげなく愁哉の腕に回る。

 『彼女』なのかな……二人の姿を見つめながら、葵は思う。


 周りを歩く人たちの足取りが早くなった。時計を見ると、もうギリギリの時間だ。

 慌てて立ち去ろうとした葵に、愁哉の声がかかる。

「葵!」

 振り返った葵の目に映ったのは、春風に舞う桜の花びら。薄紅色に染まる景色の中で、葵を見ている愁哉と目が合う。

「帰りは一人で帰れるよな?」

「は、はい。大丈夫です」

「迷子になるなよ」

 隣で腕を組んでいる絵里花が、眉をひそめて愁哉を見上げる。

 愁哉はおかしそうに笑ってから、葵に背中を向けて歩き出した。

「え、ちょっと愁哉ぁ、誰なの? あの子……」

 絵里花はちらりと葵のことを振り返ったあと、ぷいっと顔をそむけて、愁哉と一緒に行ってしまった。

 なんか……ヘンな誤解されたら嫌だな。学校では、あまりあの人に関わらないようにしよう。

 春子おばさんまでが「イケメンくんでしょう?」なんて言うくらいだもの。

 きっと女友達もたくさんいて、私なんかとは別世界の人なんだ。

 人混みの中に二人の姿が消えてしまうと、葵は振り返り、キャンパスの中へ一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ