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幼い頃から葵は、絵の具の匂いの中で育った。
家にあった、こぢんまりとしたアトリエ。葵の父はそこでよく絵を描いていて、家に小さな子どもたちを集めて絵画教室を開いていた。
「僕が君たちに教えることなんて、何もないんだよ。絵には上手い下手なんてない。描きたいものを描きたいように描けば、それでいいんだから」
父はよくそんなことを言っていた。にこにこと穏やかに微笑みながら。
そしてみんなの描いた絵を、いつも褒めてくれるのだ。
「この色、とても綺麗だね」
「楽しそうな表情が、すごくよく伝わってくるよ」
もちろん父は、葵の絵も褒めてくれた。
「葵の描いた絵を見てると、お父さんは幸せな気持ちになれる」
そう言って頭をなでてくれる父を見て、葵も幸せな気持ちになれたのだ。
そんな大好きだった父は、葵が十歳になった春、病気で亡くなってしまったけれど。
「やっぱりこっちの部屋は日当たりが良いわねぇ」
ダンボール箱の中の荷物を整理している葵の隣で、春子が言った。
要領が悪いのか、なかなか部屋の片付けが進まない葵を見兼ねて、今日は春子も荷物の整理を手伝ってくれたのだ。
たいした荷物もないはずなのに。昔から何をするのも遅い自分が嫌になる。
「愁哉くんの部屋は日当たりが悪いのよ。北側だから」
「え」
思わず顔を上げて春子を見た。春子はそんな葵に向かってにこりと微笑む。
「愁哉くんがね、女の子が来るんだったら、日当たりの良い部屋のほうがいいだろうって。自分からお部屋替わってくれたのよ」
「そう、だったんですか」
「なかなか気が利く子でしょ? あの子」
なんだか申し訳ないな。私のほうが後から来たのに。
そういえば、いつからこの家に住んでいるんだろう。あの人は。
「明日の入学式」
春子の声にはっと我に返る。ぼんやりとして、また手が止まっていた。
「一人で大丈夫? 私もついていこうか?」
「だ、大丈夫です。たぶん……」
実はちょっと不安だった。
この家から大学までは歩いて十分程度。
とても近いはずなのに、まだ行ったことはない。
入学式までに一度下見をしようと思っていたんだけど、部屋の片付けに追われているうちに、結局入学式は明日になってしまった。
「ああ、そうだ。愁哉くんについて行ってもらえば?」
「えっ!」
思わず手に持っていた物を落としそうになり、葵は慌てて体制を整えた。
「途中にあるスーパーとか本屋さんとか、教えてもらったらいいわよ。私から頼んであげるわね」
「あ、えっと……そんなの、悪いし」
「大丈夫、大丈夫。葵ちゃんみたいに可愛い子、きっと喜んで連れて行ってくれるわよ」
可愛いだなんて……思ったこともないのに。
「あ、いけない。ご飯炊くの忘れてた。あとは一人で大丈夫ね、葵ちゃん」
「はい」
慌ただしく部屋を出て行く春子を見送る。
たった一人残された、かすかに絵の具の匂いのする部屋で、葵は小さくため息をついた。
入学式の日は朝から天気が良く、あたたかな風が心地よかった。
「あの、ほんとにすみません」
春子に見送られて家を出て、愁哉と並んで歩きながら葵がつぶやく。
「別にいいよ。どうせ暇だし」
「すみません」
もう一度そう言った葵を見て、愁哉が笑う。
「あんた初めてこの家に来た時、迷子になりかけたんだって?」
「えっ」
春子おばさん、しゃべっちゃったのかな。そんな恥ずかしいこと。
「駅からあの家までで、どうやったら迷えるんだよ」
そ、そんなこと言われたって……私だって迷いたくて迷ってるんじゃないもの。
「そんなんじゃきっと、大学までもたどり着けないって思ってさ」
隣で笑っている愁哉の横顔を、ちらりと見る。
その向こう側には、坂道に沿って並んでいる桜の木。
初めてこの道を歩いた時は、周りの景色を眺める余裕もなくて、気づかなかったけれど。
満開を過ぎた桜の花が、葵たちの上からはらはらと舞い落ちる。
「オープンキャンパスに行った時も」
そんな淡い色の中、葵の頭に浮かんだのは、やっぱりあの日の光景だ。
「学校の中で迷っちゃって……」
「ああ、この前のデッサン室の話?」
思い切って顔を上げ、こちらを向いた愁哉の顔をじっと見る。
違うとその口から言われてからも、実はまだ思っていた。
あのデッサン室の彼は、やっぱり愁哉じゃないのかなって。
「もしかしてあんた、その男に惚れちゃったの?」
「ちがっ!」
思わず大きな声が出て、葵は慌てて口元を覆う。
「ちが、違います」
「なんだ、つまんねぇの。俺、そいつのこと、探してやろうかと思ってたのに」
本気なのかな、それ。
ぼんやりと考えながら、坂道を下る。
いつの間にか人が多くなってきたと思ったら、葵は大学の門に着いていた。
「ここでいい?」
「は、はい。ありがとうございました」
門の前で立ち止まり、葵はぺこりと頭を下げる。
結局、スーパーも本屋さんも気づかないうちに通り過ぎていた。
男の人と並んで歩くなんて初めてで、緊張してしまったから。
「それじゃ」
軽く手を上げて立ち去ろうとした愁哉に、女の人が駆け寄ってきた。
「愁哉じゃない。どうしたの?」
「絵里花」
葵はその場に立ち止まったまま、絵里花と呼ばれた人の姿をぼんやりと見る。
春色の服をさらりと着こなした、髪の長い綺麗な人。
葵のようなスーツ姿ではないし、気軽に愁哉に話しかけている様子を見ると、この学校の先輩なんだろう。
「うん? ちょっと迷子の道案内をな」
「なんなの? それ」
くすっと笑った絵里花が葵のことを見る。そしてもう一度、声を出さずに口元を緩ませた。
「お前こそ、何やってたんだよ?」
「私は入学式のお手伝い。もう終わったけど。ね、この後ヒマ? ご飯でも食べにいかない?」
「別にいいけど」
絵里花の手が、さりげなく愁哉の腕に回る。
『彼女』なのかな……二人の姿を見つめながら、葵は思う。
周りを歩く人たちの足取りが早くなった。時計を見ると、もうギリギリの時間だ。
慌てて立ち去ろうとした葵に、愁哉の声がかかる。
「葵!」
振り返った葵の目に映ったのは、春風に舞う桜の花びら。薄紅色に染まる景色の中で、葵を見ている愁哉と目が合う。
「帰りは一人で帰れるよな?」
「は、はい。大丈夫です」
「迷子になるなよ」
隣で腕を組んでいる絵里花が、眉をひそめて愁哉を見上げる。
愁哉はおかしそうに笑ってから、葵に背中を向けて歩き出した。
「え、ちょっと愁哉ぁ、誰なの? あの子……」
絵里花はちらりと葵のことを振り返ったあと、ぷいっと顔をそむけて、愁哉と一緒に行ってしまった。
なんか……ヘンな誤解されたら嫌だな。学校では、あまりあの人に関わらないようにしよう。
春子おばさんまでが「イケメンくんでしょう?」なんて言うくらいだもの。
きっと女友達もたくさんいて、私なんかとは別世界の人なんだ。
人混みの中に二人の姿が消えてしまうと、葵は振り返り、キャンパスの中へ一歩を踏み出した。