19
十二月のよく晴れた日。大学の中庭で、久しぶりに愁哉の姿を見た。
愁哉は絵里花と向かい合って立っていて、何か話して……いや、一方的に絵里花が怒鳴っているように見えた。
ただでさえ、この学校ではちょっと有名な二人。そんな二人がこんな目立つ場所でもめているから、周りの人たちもチラチラと二人の様子を伺っている雰囲気だった。
そのまま知らんぷりして通り過ぎようと思った時、ふいにパチンと乾いた音が聞こえた。
思わず葵は立ち止まって振り返る。すると絵里花が愁哉から離れ、足早に去って行くのが見えた。
「なんか、ドラマのワンシーンみたいだったよ?」
一人でベンチに座り込む、愁哉の前に立つ。
「ホントにこんなことあるんだね。女の人が男の人のほっぺた、パッチーンって」
「面白がるなよ。俺、思いっきり殴られたんだぞ?」
そう言った愁哉が顔を上げて葵を見る。そしてすぐにふっと口元をゆるませた。
「連絡先教えろってしつこく言われて。ホントに電話持ってないって言ってるのに。私に教えたくないんでしょ! 他に女がいるのね! パッチーン、だもんな」
おかしそうに笑ったあと、愁哉は遠くを見つめる。
「まぁ、しょうがないけど。いい加減に相手してた、俺が悪いんだから。絵里花のことも、玲子のことも」
葵はそんな愁哉の声を黙って聞く。
そして愁哉の座るベンチに、少し間を開けて遠慮がちに座った。
澄み渡った空の下。二人の座るベンチの前を、何人もの人が行き交う。
愁哉に避けられたらどうしようかと思ったけれど、そんなことはなかった。
「寒くなったなぁ……」
白い息を吐きながら、愁哉がひとり言のようにつぶやく。
「でも日なたはあったかいね」
そう言ってさりげなく愁哉を見ると、なぜか目があった。
「葵、お前さぁ……」
「な、なに?」
しばらくじっと葵を見つめていた愁哉が、そっと視線をはずす。
「いや、なんでもない」
なんなの? 私なにかヘンなこと言った?
もしかしてまた、『幸せそうなヤツ』とか思ってる?
すると前を向いた愁哉が、葵の隣でぽつりとつぶやいた。
「うん。あったかいな……ここ」
やわらかな午後の日差しが二人を包む。
手を伸ばせば届く距離にいるこの人に、私は手を伸ばせない。
「午後は実習?」
しばらく黙り込んでいた愁哉が葵に言った。
「ううん。講義だったんだけど休講になっちゃって」
「じゃあ、付き合って欲しいところがあるんだけど」
「え?」
葵のことを見た愁哉が、少しいたずらっぽい表情で笑った。
愁哉のあとについてキャンパス内を歩く。
敷地があまりにも広いので、いまだに迷子になりそうになるのは、私だけだろうか。
自分の学科で使う建物以外は、めったに行くこともない。
だけど愁哉が向かおうとしているその場所は、葵も行ったことのある場所だった。
去年のオープンキャンパスと、今年この大学に入学してすぐの頃。
今は使われていないその建物は、今日も静まり返っている。
その中にあるデッサン室に、愁哉は迷わず入って行った。
「ここだろ?」
それだけで、愁哉の言っている意味がわかった。
「やっぱり愁哉くんだったんだね? ここで絵を描いてた人」
返事の代わりに小さく笑って、愁哉が近くの席に座る。
「あのオープンキャンパスの日。人が多くてうるさかったから、ここに来たんだ。新棟ができて、もう使われてないのに、この部屋は自由に出入りできるの知ってたから」
あまり日当りの良くないこのデッサン室には、古い椅子やイーゼルやキャンバスなどが、置きっぱなしになっている。
「こんなところ、めったに人が来ないのにさ。道に迷ったまぬけなヤツが、この部屋のぞいてんの気づいてた」
「き、気づいてたの? 私てっきり気づいてないかと……」
「気づくに決まってんだろ? あんな不審な動きしてるやつ」
そう言って笑った愁哉が葵を見る。葵は黙ってそんな愁哉のことを見つめる。
やっぱりそうだったんだ。あの日この部屋で、愛おしい誰かを見るような目で、スケッチブックを見つめていた人。
「涼子さんの絵を、描いてたんでしょ?」
葵の言葉に愁哉が答える。
「そうだよ」
静かで色のない部屋に、愁哉の声が響く。
「俺は一度描いた人のことは、二度と忘れないんだ」
この人の心の中には、まだ彼女がいる。
「追いかけて行っちゃえば?」
愁哉の横顔に葵は言う。
「帰れって言われても、どこまでも追いかけて行っちゃえばいいのに」
愁哉は何も答えない。椅子に座って、日の当たらない窓をじっと見ている。
「本当はそうしたいんでしょ? だからバイトしてお金貯めようとしてたんじゃないの? 涼子さんが婚約者と別れて家を出たのだって、本当は愁哉くんに、追いかけてきてもらいたかったんじゃないの?」
こんなこと言ったら怒られるんじゃないかって、どこかで思った。
けれど葵の前で、愁哉は何も言おうとしない。
「きっとどこかで、ずれちゃったんだよ。愁哉くんのお父さんが描く幸せと、愁哉くんの本当の幸せが……でも私は、愁哉くんのしたいようにすればいいと思う。涼子さんが勇気を出して家を出たように、愁哉くんも……」
窓から柔らかい日差しが差し込んだ。
部屋の中の、乱雑に置かれた物たちに色がつく。
愁哉がゆっくりと振り向いて、葵の顔を見た。葵も黙って、そんな愁哉のことを見つめる。
「ずっと……怖かったんだ」
静かな部屋にぽつりと浮かぶ愁哉の声。
「また俺の絵を破り捨てられたらどうしようかって……ずっと怖かった。あの人のことが」
愁哉くんのお父さんのことだ。
「葵……」
愁哉くんが私の名前を呼ぶ。
「俺の背中押してくれないかな。情けないことしてるんじゃねぇよって、ひっぱたいてくれてもいいから」
「愁哉くん……」
「そうしないと俺……いつまでたっても変われないから」
自分を縛りつけるものを振り切って、自由に描ける勇気を……愁哉くんに。