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 十二月のよく晴れた日。大学の中庭で、久しぶりに愁哉の姿を見た。

 愁哉は絵里花と向かい合って立っていて、何か話して……いや、一方的に絵里花が怒鳴っているように見えた。

 ただでさえ、この学校ではちょっと有名な二人。そんな二人がこんな目立つ場所でもめているから、周りの人たちもチラチラと二人の様子を伺っている雰囲気だった。

 そのまま知らんぷりして通り過ぎようと思った時、ふいにパチンと乾いた音が聞こえた。

 思わず葵は立ち止まって振り返る。すると絵里花が愁哉から離れ、足早に去って行くのが見えた。


「なんか、ドラマのワンシーンみたいだったよ?」

 一人でベンチに座り込む、愁哉の前に立つ。

「ホントにこんなことあるんだね。女の人が男の人のほっぺた、パッチーンって」

「面白がるなよ。俺、思いっきり殴られたんだぞ?」

 そう言った愁哉が顔を上げて葵を見る。そしてすぐにふっと口元をゆるませた。

「連絡先教えろってしつこく言われて。ホントに電話持ってないって言ってるのに。私に教えたくないんでしょ! 他に女がいるのね! パッチーン、だもんな」

 おかしそうに笑ったあと、愁哉は遠くを見つめる。

「まぁ、しょうがないけど。いい加減に相手してた、俺が悪いんだから。絵里花のことも、玲子のことも」

 葵はそんな愁哉の声を黙って聞く。

 そして愁哉の座るベンチに、少し間を開けて遠慮がちに座った。


 澄み渡った空の下。二人の座るベンチの前を、何人もの人が行き交う。

 愁哉に避けられたらどうしようかと思ったけれど、そんなことはなかった。

「寒くなったなぁ……」

 白い息を吐きながら、愁哉がひとり言のようにつぶやく。

「でも日なたはあったかいね」

 そう言ってさりげなく愁哉を見ると、なぜか目があった。

「葵、お前さぁ……」

「な、なに?」

 しばらくじっと葵を見つめていた愁哉が、そっと視線をはずす。

「いや、なんでもない」

 なんなの? 私なにかヘンなこと言った?

 もしかしてまた、『幸せそうなヤツ』とか思ってる?

 すると前を向いた愁哉が、葵の隣でぽつりとつぶやいた。

「うん。あったかいな……ここ」

 やわらかな午後の日差しが二人を包む。

 手を伸ばせば届く距離にいるこの人に、私は手を伸ばせない。


「午後は実習?」

 しばらく黙り込んでいた愁哉が葵に言った。

「ううん。講義だったんだけど休講になっちゃって」

「じゃあ、付き合って欲しいところがあるんだけど」

「え?」

 葵のことを見た愁哉が、少しいたずらっぽい表情で笑った。


 愁哉のあとについてキャンパス内を歩く。

 敷地があまりにも広いので、いまだに迷子になりそうになるのは、私だけだろうか。

 自分の学科で使う建物以外は、めったに行くこともない。

 だけど愁哉が向かおうとしているその場所は、葵も行ったことのある場所だった。

 去年のオープンキャンパスと、今年この大学に入学してすぐの頃。

 今は使われていないその建物は、今日も静まり返っている。

 その中にあるデッサン室に、愁哉は迷わず入って行った。


「ここだろ?」

 それだけで、愁哉の言っている意味がわかった。

「やっぱり愁哉くんだったんだね? ここで絵を描いてた人」

 返事の代わりに小さく笑って、愁哉が近くの席に座る。

「あのオープンキャンパスの日。人が多くてうるさかったから、ここに来たんだ。新棟ができて、もう使われてないのに、この部屋は自由に出入りできるの知ってたから」

 あまり日当りの良くないこのデッサン室には、古い椅子やイーゼルやキャンバスなどが、置きっぱなしになっている。

「こんなところ、めったに人が来ないのにさ。道に迷ったまぬけなヤツが、この部屋のぞいてんの気づいてた」

「き、気づいてたの? 私てっきり気づいてないかと……」

「気づくに決まってんだろ? あんな不審な動きしてるやつ」

 そう言って笑った愁哉が葵を見る。葵は黙ってそんな愁哉のことを見つめる。

 やっぱりそうだったんだ。あの日この部屋で、愛おしい誰かを見るような目で、スケッチブックを見つめていた人。

「涼子さんの絵を、描いてたんでしょ?」

 葵の言葉に愁哉が答える。

「そうだよ」

 静かで色のない部屋に、愁哉の声が響く。

「俺は一度描いた人のことは、二度と忘れないんだ」

 この人の心の中には、まだ彼女がいる。


「追いかけて行っちゃえば?」

 愁哉の横顔に葵は言う。

「帰れって言われても、どこまでも追いかけて行っちゃえばいいのに」

 愁哉は何も答えない。椅子に座って、日の当たらない窓をじっと見ている。

「本当はそうしたいんでしょ? だからバイトしてお金貯めようとしてたんじゃないの? 涼子さんが婚約者と別れて家を出たのだって、本当は愁哉くんに、追いかけてきてもらいたかったんじゃないの?」

 こんなこと言ったら怒られるんじゃないかって、どこかで思った。

 けれど葵の前で、愁哉は何も言おうとしない。

「きっとどこかで、ずれちゃったんだよ。愁哉くんのお父さんが描く幸せと、愁哉くんの本当の幸せが……でも私は、愁哉くんのしたいようにすればいいと思う。涼子さんが勇気を出して家を出たように、愁哉くんも……」

 窓から柔らかい日差しが差し込んだ。

 部屋の中の、乱雑に置かれた物たちに色がつく。

 愁哉がゆっくりと振り向いて、葵の顔を見た。葵も黙って、そんな愁哉のことを見つめる。


「ずっと……怖かったんだ」

 静かな部屋にぽつりと浮かぶ愁哉の声。

「また俺の絵を破り捨てられたらどうしようかって……ずっと怖かった。あの人のことが」

 愁哉くんのお父さんのことだ。

「葵……」

 愁哉くんが私の名前を呼ぶ。

「俺の背中押してくれないかな。情けないことしてるんじゃねぇよって、ひっぱたいてくれてもいいから」

「愁哉くん……」

「そうしないと俺……いつまでたっても変われないから」

 自分を縛りつけるものを振り切って、自由に描ける勇気を……愁哉くんに。

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