表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/28

18

 春子の家の二階の部屋で、葵は雨の音を聞く。

 もどかしい気持ちで胸がいっぱいなのに、どうしたらいいのかわからない。

 時計の針は午前零時を回った。

 廊下を挟んだ向かい側の部屋で、愁哉は何を思いながら、この雨音を聞いているのだろうか。

 私にできることなんて何もない。

 そう思いつつも、何かできないかを探している。

 ――葵の描いた絵を見てると、お父さんは幸せな気持ちになれる。

 ふと浮かんだのは、父の言葉と笑顔。

 ――描きたいものを描きたいように描けば、それでいいんだから。

 愁哉くんにも、その言葉が届けばいいのに。


 部屋にある一番大きな紙を床に広げた。

 丁寧に絵の具を溶き、薄い桃色を大胆に筆で散らす。

 春。父と母と歩いた土手の上。

 ずうっと先まで続く桜並木から、花びらが風に乗って舞い落ちる。

 夏はまぶしいほどの緑と、突き抜ける青い空。

 むせかえるような草の匂いを嗅ぎながら、銀色に輝く川の流れを、どこまでも追いかけた。

 秋は落ち葉だ。黄色と茶色と橙色、そして赤。

 鮮やかな色の葉っぱを両手で抱えて、それを空に向かって撒き散らした。

 冬は静かな白い世界。見慣れた町も遠くの山も、何もかもが真っ白に染まる。

 音もなく降る雪を手のひらにのせたら、それは一瞬で儚く消えた。

 あの小さな町で、父と母と一緒に見たもの、触れたもの、感じたもの、すべてが私の絵を作り出しているんだ。


 気がつくと紙いっぱいに、鮮やかな色が重なっていた。

 筆を持つ手を広げると、あちこちに絵の具がついていて、よく見れば服にも顔にも絵の具が飛び散っていた。

「愁哉くんみたい」

 ふふっと笑って、その場に寝転ぶ。

 いつの間にか雨の音は消えていて、窓の外がうっすらと明るくなっている。

 ――お父さん、葵の描いた絵、見て見て!

 ――すごくきれいだ。お父さんは葵の描く絵が好きだよ。

 目を閉じると父の笑顔がまぶたに浮かんで、心がふわりと軽くなった。


 ――葵、葵……。

 誰かが名前を呼んでいる。

 お父さん? ううん、お父さんはもういないんだ。

 目を開けると、まぶしい日差しが部屋に差し込んでいた。

「朝?」

「そう。朝」

 その声に驚いて飛び起きる。目の前に愁哉の姿が見える。

「え、な、何で?」

「時間になっても降りて来ないから、春子さんに頼まれた。起こして来いって」

「で、でも勝手に人の部屋……」

「何度も外から呼んだよ。なのに返事がないから」

 自分の部屋に入られると怒るくせに。あ、でも私も勝手に侵入したことあるから、お互い様か。

 愁哉が部屋の中をぐるりと見回す。

 そういえば朝方まで絵を描いて、そのまま眠ってしまったんだっけ。

 途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。


「これなに?」

「み、見ないでよ」

「派手に描いたなぁ」

 足元に広がる絵を見下ろしながら愁哉が笑う。

 あれ……何だろう。愁哉くんがこんなふうに笑うところ、初めて見たかもしれない。

 愁哉がその場にしゃがみ込み、絵の具の塗られた画面を、愛おしそうに手のひらでなでる。

 葵はそんな愁哉の姿を見ながら、幼いころに頭をなでてもらった、父の手のひらの感触を思い出す。

「俺も描けたらいいのに……」

 愁哉がぽつりとつぶやく。

「葵みたいな絵が、俺にも描けたらいいのに」

 葵はその場に座ったまま、雨上がりの光に照らされている、愁哉の横顔を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ