18
春子の家の二階の部屋で、葵は雨の音を聞く。
もどかしい気持ちで胸がいっぱいなのに、どうしたらいいのかわからない。
時計の針は午前零時を回った。
廊下を挟んだ向かい側の部屋で、愁哉は何を思いながら、この雨音を聞いているのだろうか。
私にできることなんて何もない。
そう思いつつも、何かできないかを探している。
――葵の描いた絵を見てると、お父さんは幸せな気持ちになれる。
ふと浮かんだのは、父の言葉と笑顔。
――描きたいものを描きたいように描けば、それでいいんだから。
愁哉くんにも、その言葉が届けばいいのに。
部屋にある一番大きな紙を床に広げた。
丁寧に絵の具を溶き、薄い桃色を大胆に筆で散らす。
春。父と母と歩いた土手の上。
ずうっと先まで続く桜並木から、花びらが風に乗って舞い落ちる。
夏はまぶしいほどの緑と、突き抜ける青い空。
むせかえるような草の匂いを嗅ぎながら、銀色に輝く川の流れを、どこまでも追いかけた。
秋は落ち葉だ。黄色と茶色と橙色、そして赤。
鮮やかな色の葉っぱを両手で抱えて、それを空に向かって撒き散らした。
冬は静かな白い世界。見慣れた町も遠くの山も、何もかもが真っ白に染まる。
音もなく降る雪を手のひらにのせたら、それは一瞬で儚く消えた。
あの小さな町で、父と母と一緒に見たもの、触れたもの、感じたもの、すべてが私の絵を作り出しているんだ。
気がつくと紙いっぱいに、鮮やかな色が重なっていた。
筆を持つ手を広げると、あちこちに絵の具がついていて、よく見れば服にも顔にも絵の具が飛び散っていた。
「愁哉くんみたい」
ふふっと笑って、その場に寝転ぶ。
いつの間にか雨の音は消えていて、窓の外がうっすらと明るくなっている。
――お父さん、葵の描いた絵、見て見て!
――すごくきれいだ。お父さんは葵の描く絵が好きだよ。
目を閉じると父の笑顔がまぶたに浮かんで、心がふわりと軽くなった。
――葵、葵……。
誰かが名前を呼んでいる。
お父さん? ううん、お父さんはもういないんだ。
目を開けると、まぶしい日差しが部屋に差し込んでいた。
「朝?」
「そう。朝」
その声に驚いて飛び起きる。目の前に愁哉の姿が見える。
「え、な、何で?」
「時間になっても降りて来ないから、春子さんに頼まれた。起こして来いって」
「で、でも勝手に人の部屋……」
「何度も外から呼んだよ。なのに返事がないから」
自分の部屋に入られると怒るくせに。あ、でも私も勝手に侵入したことあるから、お互い様か。
愁哉が部屋の中をぐるりと見回す。
そういえば朝方まで絵を描いて、そのまま眠ってしまったんだっけ。
途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「これなに?」
「み、見ないでよ」
「派手に描いたなぁ」
足元に広がる絵を見下ろしながら愁哉が笑う。
あれ……何だろう。愁哉くんがこんなふうに笑うところ、初めて見たかもしれない。
愁哉がその場にしゃがみ込み、絵の具の塗られた画面を、愛おしそうに手のひらでなでる。
葵はそんな愁哉の姿を見ながら、幼いころに頭をなでてもらった、父の手のひらの感触を思い出す。
「俺も描けたらいいのに……」
愁哉がぽつりとつぶやく。
「葵みたいな絵が、俺にも描けたらいいのに」
葵はその場に座ったまま、雨上がりの光に照らされている、愁哉の横顔を見つめていた。