17
それは秋の終わり、突然降り始めた雨の夜のことだった。
葵が出た春子の家の玄関に、男の人が立っていた。
「三國愁哉の父です」
その人は葵の前でそう名乗った。
この人が愁哉くんのお父さん?
愁哉の父、三國賢介のことは噂で聞いて、美術雑誌に載っていた作品と顔写真を見ていた。
だけど写真よりも本人のほうが貫禄があるというか……いや、貫禄というより、威圧感。
人に有無を言わさぬような、なんともいえない威圧感があるのだ。
それは葵が春子から、この父の話を、聞かされていたからかもしれないけど。
「あの、いま家の人を……」
「愁哉はいませんか? 本人と話をしたいんですが」
「愁哉くんはバイトに行ってるので……」
父、賢介が顔をしかめた。
どうしよう。もしかして言ってはいけないことだったのかな。
あわてる葵の耳に、春子のおだやかな声が聞こえてきた。
「あら、愁哉くんのお父さん」
「息子がお世話になっています」
賢介が春子に頭を下げる。
「どうぞ、上がってくださいな。今、愁哉くん出かけてて」
「でしたら外で待たせていただきます」
「そんなことおっしゃらずに、上がっていらして? 美味しいお紅茶でも淹れますから」
賢介は少し考えた後、
「ではお言葉に甘えて」
と、部屋の中へ上がり込んだ。
リビングのソファーに座った賢介が、春子の淹れた紅茶を飲んでいる。
賢介は春子のことを『先生』と呼んでいた。
愁哉が幼い頃、少しの間でも、春子の絵画教室に通っていたかららしい。
「大学へは自宅通いで十分だったんです。それなのに下宿暮らしをしたいなど、わがままを言うもので。だけど先生のお宅だというから、それならということで許可したんですけどね」
賢介の向かい側に座った春子は、うなずきながらその話を聞いている。
葵はキッチンでお湯を沸かすふりをして、二人の話に耳を傾けていた。
「しかし最近、息子が学校へ行ってないと聞きまして。しかもバイトなんかやっているという。私は息子に、絵画を学ばせるために大学へ行かせ、そして必ず卒業するようにと約束させたんですがね」
賢介はそこまで言うと、ごほんと一つ咳払いをしてから、春子の紅茶を口にした。
「お父さん、お話はわかりましたが、まだ愁哉くんが留年するとか、そういう話が出ているわけでもないのでしょう?」
そんな賢介の前で春子が言う。賢介はちらりと春子のことを見る。
「まぁ先生は、昔からのんびりされてますからね」
「三國さんは、相変わらずせっかちでいらっしゃいますね」
春子がそう言ってにこりと微笑む。
葵はキッチンでそんな会話を聞きながら、気が気ではなかった。
春子おばさん、あんなこと言っちゃって大丈夫なんだろうか。相手はあの有名な三國賢介だというのに。
賢介がコトリとカップを置いた。
「せっかちでけっこう。私は親として息子を、一人前の芸術家に育ててやりたいと思ってるんです。そのために幼い頃から厳しく接してきた。それなのに、高校の美術教師などに惑わされ、時間を無駄に使って……全く情けない話です」
葵の背後で音がした。振り返ると外から帰ってきた愁哉が立っていた。
「親父来てるんだ」
「あ、うん」
愁哉は雨に濡れていた。傘を持って行かなかったのだろう。羽織っていた上着を脱ぐと、それをキッチンにある椅子の背にかけた。
「先生、ちょっと愁哉の部屋を見せてもらえますかね? あの子の描いているものを確認させていただきたい」
そう言って賢介が立ち上がる。それと同時に愁哉が、キッチンからリビングへ入っていった。
「久しぶりです」
愁哉が賢介の前に立つ。賢介は愁哉の姿を見て顔をしかめる。
「なんだその格好は。びしょ濡れじゃないか。みっともない」
「あらあら、急に降ってきたんですものねぇ。今、タオルを持って来てあげるわね」
春子がパタパタと部屋を出て行く。
葵は黙って、向かい合って立つ、父と息子の姿を見た。
「学校へ行ってないそうだな?」
「家で課題やってました」
「バイトしているらしいじゃないか」
「お金が欲しいんです」
「何のために?」
賢介の前で愁哉がうつむく。葵はそんな二人の姿に違和感を覚えていた。
父の前で、敬語を使って話す愁哉。いつもの憎らしいほど自信ありげな態度が、そこにない。
黙り込んだ愁哉のことを、じっと見下ろしていた賢介が、すっと体を動かす。
「描いた絵を見せなさい」
「あっ」
賢介がリビングを出て、階段を上がろうとする。
そんな賢介の腕を愁哉がつかんだ。
「ダメです」
「なぜだ?」
「それは……」
葵もキッチンから飛び出し、二人の姿を見つめる。
父親の腕をつかんでいる愁哉の手が、かすかに震えているのがわかった。
「私に見せられないようなものを、描いているということだな?」
愁哉の手が賢介から離れる。
「まったく、何度言えばわかるんだ。お前は私の言うとおりに描いていればいいんだ。余計なことは考えなくていい」
賢介の手が、愁哉の肩をなだめるように叩く。
「今夜はこのまま帰るが、また来るからな。それからバイトもやめなさい。お金が必要なら、お前の口座に振り込んでおく」
そう言うと賢介は、春子に一声かけて玄関へ向かった。
「お邪魔しました。今晩はこれでおいとまします」
「あら、三國さん、もうお帰りなの?」
賢介を見送る春子の声を聞きながら、愁哉が小さくため息をついた。
「愁哉くん……」
葵の声に愁哉が顔を上げる。そしてほんの少し口元をゆるませた。
「情けないだろ? 俺、あの親父には逆らえないんだ」
愁哉がキッチンへ入り、雨で濡れた上着を手に取る。
「何もかもあの人の言いなり。小さい頃から進路を決められて、反抗したつもりでも結局はあの人の金で生活して、あの人の気に入る絵だけを描く」
「そんなの……」
「おかしいよな? だけどそれが俺の幸せなんだってさ」
違う。違うよ。そんなのは、愁哉くんの幸せじゃない。
「でも俺はそんな幸せのために、一番大事な人と、その人のお腹にできた新しい命を守ってやれなかった……」
愁哉の声が耳に染み込む。
雨の中、車の走り去る音が遠ざかる。
愁哉は葵に背中を向けると、それ以上何も言わずに階段を上って行った。