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 それは秋の終わり、突然降り始めた雨の夜のことだった。

 葵が出た春子の家の玄関に、男の人が立っていた。

「三國愁哉の父です」

 その人は葵の前でそう名乗った。

 この人が愁哉くんのお父さん?

 愁哉の父、三國賢介のことは噂で聞いて、美術雑誌に載っていた作品と顔写真を見ていた。

 だけど写真よりも本人のほうが貫禄があるというか……いや、貫禄というより、威圧感。

 人に有無を言わさぬような、なんともいえない威圧感があるのだ。

 それは葵が春子から、この父の話を、聞かされていたからかもしれないけど。

「あの、いま家の人を……」

「愁哉はいませんか? 本人と話をしたいんですが」

「愁哉くんはバイトに行ってるので……」

 父、賢介が顔をしかめた。

 どうしよう。もしかして言ってはいけないことだったのかな。

 あわてる葵の耳に、春子のおだやかな声が聞こえてきた。

「あら、愁哉くんのお父さん」

「息子がお世話になっています」

 賢介が春子に頭を下げる。

「どうぞ、上がってくださいな。今、愁哉くん出かけてて」

「でしたら外で待たせていただきます」

「そんなことおっしゃらずに、上がっていらして? 美味しいお紅茶でも淹れますから」

 賢介は少し考えた後、

「ではお言葉に甘えて」

 と、部屋の中へ上がり込んだ。


 リビングのソファーに座った賢介が、春子の淹れた紅茶を飲んでいる。

 賢介は春子のことを『先生』と呼んでいた。

 愁哉が幼い頃、少しの間でも、春子の絵画教室に通っていたかららしい。

「大学へは自宅通いで十分だったんです。それなのに下宿暮らしをしたいなど、わがままを言うもので。だけど先生のお宅だというから、それならということで許可したんですけどね」

 賢介の向かい側に座った春子は、うなずきながらその話を聞いている。

 葵はキッチンでお湯を沸かすふりをして、二人の話に耳を傾けていた。

「しかし最近、息子が学校へ行ってないと聞きまして。しかもバイトなんかやっているという。私は息子に、絵画を学ばせるために大学へ行かせ、そして必ず卒業するようにと約束させたんですがね」

 賢介はそこまで言うと、ごほんと一つ咳払いをしてから、春子の紅茶を口にした。

「お父さん、お話はわかりましたが、まだ愁哉くんが留年するとか、そういう話が出ているわけでもないのでしょう?」

 そんな賢介の前で春子が言う。賢介はちらりと春子のことを見る。

「まぁ先生は、昔からのんびりされてますからね」

「三國さんは、相変わらずせっかちでいらっしゃいますね」

 春子がそう言ってにこりと微笑む。


 葵はキッチンでそんな会話を聞きながら、気が気ではなかった。

 春子おばさん、あんなこと言っちゃって大丈夫なんだろうか。相手はあの有名な三國賢介だというのに。

 賢介がコトリとカップを置いた。

「せっかちでけっこう。私は親として息子を、一人前の芸術家に育ててやりたいと思ってるんです。そのために幼い頃から厳しく接してきた。それなのに、高校の美術教師などに惑わされ、時間を無駄に使って……全く情けない話です」

 葵の背後で音がした。振り返ると外から帰ってきた愁哉が立っていた。

「親父来てるんだ」

「あ、うん」

 愁哉は雨に濡れていた。傘を持って行かなかったのだろう。羽織っていた上着を脱ぐと、それをキッチンにある椅子の背にかけた。

「先生、ちょっと愁哉の部屋を見せてもらえますかね? あの子の描いているものを確認させていただきたい」

 そう言って賢介が立ち上がる。それと同時に愁哉が、キッチンからリビングへ入っていった。


「久しぶりです」

 愁哉が賢介の前に立つ。賢介は愁哉の姿を見て顔をしかめる。

「なんだその格好は。びしょ濡れじゃないか。みっともない」

「あらあら、急に降ってきたんですものねぇ。今、タオルを持って来てあげるわね」

 春子がパタパタと部屋を出て行く。

 葵は黙って、向かい合って立つ、父と息子の姿を見た。

「学校へ行ってないそうだな?」

「家で課題やってました」

「バイトしているらしいじゃないか」

「お金が欲しいんです」

「何のために?」

 賢介の前で愁哉がうつむく。葵はそんな二人の姿に違和感を覚えていた。

 父の前で、敬語を使って話す愁哉。いつもの憎らしいほど自信ありげな態度が、そこにない。

 黙り込んだ愁哉のことを、じっと見下ろしていた賢介が、すっと体を動かす。


「描いた絵を見せなさい」

「あっ」

 賢介がリビングを出て、階段を上がろうとする。

 そんな賢介の腕を愁哉がつかんだ。

「ダメです」

「なぜだ?」

「それは……」

 葵もキッチンから飛び出し、二人の姿を見つめる。

 父親の腕をつかんでいる愁哉の手が、かすかに震えているのがわかった。

「私に見せられないようなものを、描いているということだな?」

 愁哉の手が賢介から離れる。

「まったく、何度言えばわかるんだ。お前は私の言うとおりに描いていればいいんだ。余計なことは考えなくていい」

 賢介の手が、愁哉の肩をなだめるように叩く。

「今夜はこのまま帰るが、また来るからな。それからバイトもやめなさい。お金が必要なら、お前の口座に振り込んでおく」

 そう言うと賢介は、春子に一声かけて玄関へ向かった。

「お邪魔しました。今晩はこれでおいとまします」

「あら、三國さん、もうお帰りなの?」

 賢介を見送る春子の声を聞きながら、愁哉が小さくため息をついた。


「愁哉くん……」

 葵の声に愁哉が顔を上げる。そしてほんの少し口元をゆるませた。

「情けないだろ? 俺、あの親父には逆らえないんだ」

 愁哉がキッチンへ入り、雨で濡れた上着を手に取る。

「何もかもあの人の言いなり。小さい頃から進路を決められて、反抗したつもりでも結局はあの人の金で生活して、あの人の気に入る絵だけを描く」

「そんなの……」

「おかしいよな? だけどそれが俺の幸せなんだってさ」

 違う。違うよ。そんなのは、愁哉くんの幸せじゃない。

「でも俺はそんな幸せのために、一番大事な人と、その人のお腹にできた新しい命を守ってやれなかった……」

 愁哉の声が耳に染み込む。

 雨の中、車の走り去る音が遠ざかる。

 愁哉は葵に背中を向けると、それ以上何も言わずに階段を上って行った。

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