16
夏休み明けのキャンパスは、いつもより人で賑わっていた。
明るい笑い声の中、一人で歩いていた葵に声がかかる。
「愁哉は?」
振り返ると絵里花が、機嫌悪そうに立っていた。
「休み中、電話もメールもつながらないし、学校にも来てないし。どういうこと?」
「あ、あの、愁哉くん今、電話持ってないんで」
「ウソでしょ? そんなのありえないじゃん。私と連絡取れないようにしてるんじゃないの?」
「別にそういうわけじゃ……」
それにそんなこと、私に言われても……。困った葵の肩を、ぽんっと誰かが叩いた。
「葵。何やってんの? 行くよ」
「玲子ちゃん」
玲子が葵の手を引っ張って歩き出す。後ろから絵里花の声が聞こえたけれど、振り返らずに人混みにまぎれた。
「ホントあの人しつこいね」
デッサン室の前まで来て、玲子が葵の手を離す。
「まぁ、私も人のこと言えないか」
そう言っていたずらっぽく笑う玲子は、どこか吹っ切れたような顔つきをしていた。
そんな玲子と一緒に、誰もいないデッサン室に入る。
「愁哉、学校来てないの?」
「うん、なんかバイト始めたみたいで」
「バイト?」
玲子が不思議そうに首をかしげる。
「なんで? 学費も下宿代もお父さんが出してくれてるんでしょ? あいつんちお金持ちだし、働く必要ないじゃん」
「でもほとんど毎日行ってるよ? それか部屋にこもって、絵描いてるかのどっちか」
玲子がふうっとため息をつく。そして少し考えるような仕草をしたあと、葵に向かって言った。
「姉がね、本気で家を出て行ったの。いつの間にか、住む所まで探したみたいで」
愁哉の言ったとおり、本当に出て行ってしまったんだ。
「あの姉が親に反抗したのなんて始めて。自分の将来は自分で決めるからほっといて、だなんて。だって姉はずっと、両親の言うことを聞くいい子ちゃんだったから」
玲子がそばにあった椅子に腰掛ける。
「でも姉が出て行った理由はそれだけじゃないと思う。姉はきっと……私に気を使ったんだと思うんだ」
「え?」
玲子がかすかに笑って、葵を見る。
「姉は私が、愁哉のこと好きだって知ってたから。私が姉と、一緒に暮らしたくないって思ってたから」
「そんな……」
「でもね、やっぱりあの家に姉がいないとヘンなんだよね。だって私たちは、たった二人だけの姉妹なんだし」
そう言いながら、玲子が窓の外へ視線を移す。高くなった空に浮かぶのは、秋の雲だ。
「こんな天気の良い日は、二人でよくスケッチに出かけたなぁ。歳の離れた姉は、私だけの優しい先生みたいだった……」
葵に父との思い出があるように、きっと玲子にも姉との思い出があるのだろう。
「お姉ちゃん帰って来ないかな。帰って来て……愁哉とくっついちゃえばいいのに」
ひとり言のようにつぶやいたあと、玲子は葵を見て肩をすくめる。
「なんて、ヘンだね、私。あんなに別れて欲しいって願ってたくせに。でもお姉ちゃんが、私のために身を引こうと思ってるんだったら、そっちの方がもっとイヤ」
すっと立ち上がった玲子が窓辺へ向かい、ガラス窓をカラリと開ける。
揺れるカーテン。吹き込む秋風。ほのかに漂ってくる金木犀の香り。
窓辺に立った玲子の、前より少し伸びた髪が、さらりと揺れる。
「あーあ、どこかにいい人、いないかなぁ。私だけを見てくれる、誠実な人」
玲子が笑いながらそう言って、葵に振り向く。
「葵は?」
「え?」
呆然と立っていた葵が、我に返ったようにつぶやく。
「彼氏、作らないの?」
「私は……」
「好きな人は? いないの?」
葵は黙ってうつむいた。『好きな人』なんていない。
「今度二人で合コンでも行く?」
玲子がいたずらっぽい顔でそんなことを言う。
「え、わ、私は……そういうの苦手だから」
「冗談だよ。私もそういうの嫌い」
ふふっと笑った玲子を見て、葵も静かに笑い返した。