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「大丈夫? 落ち着いた?」

 リビングのソファーに座る玲子が、葵の隣で小さくうなずいた。

「ごめん、取り乱したりして。恥ずかしいね、私」

 葵は首を横に振る。玲子の震える手を、手のひらで包みながら。

 玲子はそんなに愁哉のことを想っていたんだ。自分で自分の体を傷つけてしまうほどに。

「私ね、ずっと愁哉のこと好きだったの。姉と付き合ってる頃から」

 葵の隣で玲子が、ぽつぽつと話し始める。

「二人が別れた時、チャンスだって思った。落ち込んでた愁哉を、慰めてあげられるのは私だけだって思った。私だったら親の言いなりで別れたりしない。親に何て言われたって愁哉のそばにいるよって……」

 うつむきがちに玲子が小さく笑う。

「だけどダメだった。愁哉は私を、姉の代わりに抱いてるだけだった」

 玲子が顔を上げ、黙ったままの葵を見る。

「ホントあいつサイテー。それなのに私、そんなサイテー男を追いかけてM美まで来たりして。ホントバカみたいでしょ? あいつは最初から、私のことなんて見ていないのに」

「玲子ちゃん……」

「せめて愁哉の好きな子が、葵だったらよかった」

「え?」

 玲子が葵の手をそっと離す。

「赤の他人だったらそれで終わりだけど、お姉ちゃんなんだもの。キツイよ」

 そう言って玲子が寂しそうに笑う。

 玲子ちゃんの想いは届かない。じゃあ愁哉くんの想いは? 愁哉くんの想いは、彼女に届くのだろうか。


「はい、紅茶淹れたわよ。体があったまるから」

 春子が二人の前に紅茶を差し出した。

「ありがとうございます」

 小さく頭を下げた玲子に向かって春子が言う。

「あなたもM美なのね?」

「はい。でも私は、入学した動機が不純だから……」

「だけど絵を描くことは好きなんでしょう?」

 玲子が黙ってうつむいた。そんな玲子の手を、春子がそっと握る。

「この手は鉛筆や絵筆を握る手。だからいじめちゃダメなの」

「あ……」

 春子の手が、玲子の傷ついた手を優しくさする。

「愁哉くんにも言ってるのよ。自分で自分を否定したらダメだって。あなたのこと、大事に思ってくれている人は、必ずどこかにいるんだからって」

 葵は春子の声を聞きながら目を閉じた。まぶたの裏に浮かんだのは、亡くなった父の笑顔。

「この手で、誰かを幸せにできるような、素敵な絵を描いてちょうだいね」

 春子の両手が玲子の手を包み込む。玲子は涙を流しながら、ただ小さくうなずいた。


 玲子を駅まで送ったあと、葵は一人で坂道をのぼった。

 夕方から夜に変わり始める時間。空の色も、淡いピンク色からブルーのグラデーションだ。

 もうすぐ夜が来る。愁哉はどこにいるんだろう。

 そしてその日、愁哉が帰ってきたのは真夜中だった。


「愁哉くん」

 眠れずにずっと起きていた葵が、二階へ上ってきた愁哉に声をかける。

 愁哉は疲れたような表情で葵を見て、ぽつりとつぶやいた。

「……玲子は?」

「夕方帰ったよ」

「あいつ……泣いてた?」

 葵は愁哉の顔を見る。愁哉はじっと葵を見ている。

「泣いてたよ」

「だよな。俺、あいつのこと泣かせてばっかだ」

 小さく笑った愁哉が、自分の部屋のドアを開く。葵はそんな愁哉を引き止めるように、一歩踏み出す。

「愁哉くん。玲子ちゃんのお姉さんには……」

 葵はそこで言葉を止めた。

 甘い香り。いつか愁哉のシャツから漂ってきた、あの香水の香りだ。

「会ってきたよ。涼子と」

 振り返った愁哉がそう言った。

「あいつが落ち込んだ時、行きそうな場所はわかってんだ」

 葵が黙って愁哉を見る。愁哉はふっと葵に笑いかける。

「でも『帰れ』って突き放された。もう俺には会いたくないって」

「え、だけどお姉さん、結婚やめたって……」

「誰とも結婚したくないんだってさ。その婚約者とも……俺とも」

 涼子さんは、愁哉くんを選んだわけじゃなかったの?

「実家にもいたくないから、家を出るって。そしたらもう二度と、俺に会うこともないだろうって」

「それで……いいの?」

 愁哉の視線がすっと葵からはずれる。

「本当に愁哉くんは、それでいいの?」

「これでいい……俺なんかじゃ、あいつのこと、幸せにしてやれないから」

 顔をそむけた愁哉の横顔を見つめる。

 嘘。これでいいだなんて、思ってないくせに。愁哉くんは、勇気がないだけじゃない。

 大事な気持ちを伝える前に、俺なんかじゃダメだって、最初からあきらめてるんじゃない。

 愁哉が目の前のドアを開け、部屋の中へ入って行く。葵は黙ってその背中を見送る。

 愁哉くんは、玲子ちゃんは、涼子さんは、私は……こんな気持ちのまま、誰かを幸せにできる絵なんて、描けるのだろうか。

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