15
「大丈夫? 落ち着いた?」
リビングのソファーに座る玲子が、葵の隣で小さくうなずいた。
「ごめん、取り乱したりして。恥ずかしいね、私」
葵は首を横に振る。玲子の震える手を、手のひらで包みながら。
玲子はそんなに愁哉のことを想っていたんだ。自分で自分の体を傷つけてしまうほどに。
「私ね、ずっと愁哉のこと好きだったの。姉と付き合ってる頃から」
葵の隣で玲子が、ぽつぽつと話し始める。
「二人が別れた時、チャンスだって思った。落ち込んでた愁哉を、慰めてあげられるのは私だけだって思った。私だったら親の言いなりで別れたりしない。親に何て言われたって愁哉のそばにいるよって……」
うつむきがちに玲子が小さく笑う。
「だけどダメだった。愁哉は私を、姉の代わりに抱いてるだけだった」
玲子が顔を上げ、黙ったままの葵を見る。
「ホントあいつサイテー。それなのに私、そんなサイテー男を追いかけてM美まで来たりして。ホントバカみたいでしょ? あいつは最初から、私のことなんて見ていないのに」
「玲子ちゃん……」
「せめて愁哉の好きな子が、葵だったらよかった」
「え?」
玲子が葵の手をそっと離す。
「赤の他人だったらそれで終わりだけど、お姉ちゃんなんだもの。キツイよ」
そう言って玲子が寂しそうに笑う。
玲子ちゃんの想いは届かない。じゃあ愁哉くんの想いは? 愁哉くんの想いは、彼女に届くのだろうか。
「はい、紅茶淹れたわよ。体があったまるから」
春子が二人の前に紅茶を差し出した。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた玲子に向かって春子が言う。
「あなたもM美なのね?」
「はい。でも私は、入学した動機が不純だから……」
「だけど絵を描くことは好きなんでしょう?」
玲子が黙ってうつむいた。そんな玲子の手を、春子がそっと握る。
「この手は鉛筆や絵筆を握る手。だからいじめちゃダメなの」
「あ……」
春子の手が、玲子の傷ついた手を優しくさする。
「愁哉くんにも言ってるのよ。自分で自分を否定したらダメだって。あなたのこと、大事に思ってくれている人は、必ずどこかにいるんだからって」
葵は春子の声を聞きながら目を閉じた。まぶたの裏に浮かんだのは、亡くなった父の笑顔。
「この手で、誰かを幸せにできるような、素敵な絵を描いてちょうだいね」
春子の両手が玲子の手を包み込む。玲子は涙を流しながら、ただ小さくうなずいた。
玲子を駅まで送ったあと、葵は一人で坂道をのぼった。
夕方から夜に変わり始める時間。空の色も、淡いピンク色からブルーのグラデーションだ。
もうすぐ夜が来る。愁哉はどこにいるんだろう。
そしてその日、愁哉が帰ってきたのは真夜中だった。
「愁哉くん」
眠れずにずっと起きていた葵が、二階へ上ってきた愁哉に声をかける。
愁哉は疲れたような表情で葵を見て、ぽつりとつぶやいた。
「……玲子は?」
「夕方帰ったよ」
「あいつ……泣いてた?」
葵は愁哉の顔を見る。愁哉はじっと葵を見ている。
「泣いてたよ」
「だよな。俺、あいつのこと泣かせてばっかだ」
小さく笑った愁哉が、自分の部屋のドアを開く。葵はそんな愁哉を引き止めるように、一歩踏み出す。
「愁哉くん。玲子ちゃんのお姉さんには……」
葵はそこで言葉を止めた。
甘い香り。いつか愁哉のシャツから漂ってきた、あの香水の香りだ。
「会ってきたよ。涼子と」
振り返った愁哉がそう言った。
「あいつが落ち込んだ時、行きそうな場所はわかってんだ」
葵が黙って愁哉を見る。愁哉はふっと葵に笑いかける。
「でも『帰れ』って突き放された。もう俺には会いたくないって」
「え、だけどお姉さん、結婚やめたって……」
「誰とも結婚したくないんだってさ。その婚約者とも……俺とも」
涼子さんは、愁哉くんを選んだわけじゃなかったの?
「実家にもいたくないから、家を出るって。そしたらもう二度と、俺に会うこともないだろうって」
「それで……いいの?」
愁哉の視線がすっと葵からはずれる。
「本当に愁哉くんは、それでいいの?」
「これでいい……俺なんかじゃ、あいつのこと、幸せにしてやれないから」
顔をそむけた愁哉の横顔を見つめる。
嘘。これでいいだなんて、思ってないくせに。愁哉くんは、勇気がないだけじゃない。
大事な気持ちを伝える前に、俺なんかじゃダメだって、最初からあきらめてるんじゃない。
愁哉が目の前のドアを開け、部屋の中へ入って行く。葵は黙ってその背中を見送る。
愁哉くんは、玲子ちゃんは、涼子さんは、私は……こんな気持ちのまま、誰かを幸せにできる絵なんて、描けるのだろうか。




