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 残りの夏休みは静かに過ぎていった。

 葵は春子から与えられた二間続きの一部屋を、贅沢にもアトリエのように使わせてもらい、好きな時に好きなだけ絵を描かせてもらえた。

 南側の大きな窓から差し込む日差しは、この時期は少し暑いけれど、葵の描いた絵を明るく照らしてくれる。

 日当たりの良さは気分が良くなるだけでなく、こんな効果もあったんだと、こちらの部屋を譲ってくれた愁哉に感謝する。

 そんな愁哉は夏休み中、ずっと部屋にこもりっぱなしだ。

 たまに部屋から出てくるのは、お腹がすいた時とお風呂に入る時くらい。どこへも出かける様子はない。

 連絡手段がないと、本当に誰からも誘われないのかな。もしかして実は友達いないとか?

 それともわざと自分以外の人を、シャットアウトしているのだろうか。


 ある暑い日の夕方、少し涼しくなったリビングへ入ると、ソファーの上で愁哉が眠っていた。

「起こさないであげて。気持ちよさそうに眠ってるから」

 春子がリビングに顔を出し、にこりと笑う。

 葵はソファーのそばに立ち、そっとその顔をのぞきこんだ。

 絵の具……顔についてる。やっぱり描いてるんだ、絵を。

 実は少し後悔していた。あの夏休み前の夜、愁哉に言ってしまった言葉。

 ――愁哉くんの絵には心がこもってないんだよ。ちゃんと生きようとしてないから。

 今思えば、余計なことだったのかもしれない。

 私の言った一言で、愁哉くんが絵を描くのをやめてしまったら……ううん、それよりも、生きるのをやめてしまったらどうしようかと思った。

 開いた窓から風が吹き込む。風鈴が揺れてかすかな音を立てる。

 起こさないようにそっと、愁哉の頬に触れてみた。

「青い絵の具……」

 愁哉の頬に、腕に、Tシャツに染みついている青い色。

 葵はふと、静岡の川原で見上げた空を思い出す。

 愁哉くんの描く絵が、真夏の青い空だったらすごくいいのに……。

 穏やかな寝顔を見つめながら、葵はそんなことを思っていた。


 玲子からメールが来たのは、夏休みも終わりに近づいた頃だった。

 ――話があるから会って欲しい。

 そう書かれたメールに「いいよ」と返事をした。

 玲子が待ち合わせ場所に指定してきたのは、大学の正門。

 どこかゆっくり話ができる場所じゃなくていいのかな、と思ったけれど、夏休み中だというのに玲子が学校まで来るというから、葵も出て行くことにした。

「ごめん。わざわざ出てきてもらっちゃって」

「ううん。私は近いからいいけど」

 玲子の家から学校までは一時間近くかかると聞いていた。

「話って……なに?」

「ああ、うん……」

 玲子の歯切れが悪くなった。話すか話さないか、しばらく考え込んでいたようだけど、結局は口を開いた。


「姉が、昨日から帰って来ないの」

「え?」

「まぁいい大人だし、そんなに心配はしてないんだけど。ただ今まで無断で外泊とか、するような人じゃなかったから」

 そう言っている玲子は、少し顔色が悪かった。本当は姉のことを心配しているのだろう。

「昨日の朝ね、突然姉が両親に言ったの。お見合いの話は、なかったことにしたいって」

「え、どうして……」

 玲子がふうっとため息をつく。

「うちの姉、愁哉のところに行ってない?」

 葵は大きく首を横に振る。

「愁哉くんとは……会ってないと思う。だって愁哉くん、夏休みの間中ずっと家にいるし、家に誰かが訪ねてきたこともないし」

「そう……」

 玲子が疲れたようにうつむいた。葵は黙ってそんな玲子の表情を見る。

「あのさ……愁哉、ケータイ替えた?」

「え?」

「連絡してみたけど、通じなかったから」

 連絡したんだ、玲子ちゃん。愁哉くんに。

「愁哉くんね、スマホ壊しちゃって、今連絡とれないの」

「そうだったんだ。じゃあ姉も連絡とれてないんだよね?」

「だと思う」

 玲子と話しながら、葵は感じ始めていた。いや、もしかしたらもっと早くから、気づくべきことだったのかもしれない。

「ねぇ、葵」

 玲子がゆっくりと顔を上げる。

「愁哉に会えないかな? 私から直接聞きたいこともあるし」

 葵は黙って玲子を見つめる。

「葵の住んでる家、今から行ったらダメかな?」

 九月だというのに、まだじりじりと暑い日だった。空は青く晴れ渡っていたけど、なんだかそれを見るのがつらい。

 潤んだ目をして葵を見ている玲子が、愁哉を想っているってこと、それに気づいてしまったから。


「まあまあ、葵ちゃんのお友達? ゆっくりしていってね」

 玲子を連れて家へ帰ると、春子はすごく喜んでくれた。

 だけど葵は複雑だ。玲子をリビングに通し、二階のドア越しに愁哉を呼ぶと、愁哉は思ったより簡単に外へ出てきた。

「何だよ、玲子。こんなとこまで」

 愁哉はリビングにいる玲子に、顔を見せるなりそう言った。

「お前、うちの学校来たんだって?」

「そうだよ」

「何考えてんだか」

 愁哉が意味ありげにふっと笑う。

 この二人、いつから会っていなかったんだろう。関係があったって、本当なんだろうか。

「それより、お姉ちゃんのこと知らない? 昨日から帰ってないの」

 愁哉は少しだけ表情を変えて、その場に立ったまま答えた。

「知らねぇよ。会うなって言ったのお前らだろ」

「お姉ちゃん、結婚やめるって……ねぇ、あんたたち、まだ会ってるんじゃないの?」

「知らないって言ってんだろ!」

 少し声を荒げた愁哉のことを、葵は黙って見ていた。

「話はそれだけ? 俺忙しいから」

「あ、愁哉くん……」

 葵の声を無視して愁哉が部屋を出て行く。玲子はソファーに腰掛けたまま、頭を抱えるようにしてうつむいた。

「玲子ちゃん……」

 どうしていいかわからずに、葵はおろおろするだけだ。

 やがて玲子がうつむいたまま、ひとり言のようにつぶやいた。


「何やってるんだろう、私」

 顔を伏せている玲子がどんな表情をしているのか、葵にはわからない。

「あいつのいる大学に入って、こんなところまで押しかけて来て……好きだった人のこといつまでも追いかけてるのは、私も同じなんだ」

 玲子がそうつぶやきながら、自分で自分の手に爪を立てる。

「玲子ちゃん、やめて」

 赤く血がにじみ出す、玲子の手を葵が押さえる。

「玲子ちゃんもうやめて。自分で自分のこと傷つけるのは……」

 その時、玄関から春子の声が聞こえた。

「あら、愁哉くん、出かけるの?」

 玲子が顔を上げて立ち上がる。そして思いつめた顔つきのまま、リビングを飛び出した。

「玲子ちゃん!」

 葵もあわてて玲子の後を追う。


 玄関には愁哉がいた。靴を履いて外へ出ようとしているその背中に、玲子が言う。

「お姉ちゃんを探しに行くの?」

 愁哉がドアノブに手をかけた。

「行かないでよ! お姉ちゃんのところへは行かないで!」

 玲子の声に、愁哉が背中を向けたままつぶやく。

「言ったろ、玲子。もう俺なんかやめろって」

 そしてそのまま振り向きもせず、愁哉は外へ出て行った。

「玲子ちゃん……」

 閉じられたドアの前で、玲子がぺたりと座り込む。

「どうしてお姉ちゃんなの? どうして……私じゃないの?」

 玲子の震える声が、葵の胸に切なく響いた。

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