14
残りの夏休みは静かに過ぎていった。
葵は春子から与えられた二間続きの一部屋を、贅沢にもアトリエのように使わせてもらい、好きな時に好きなだけ絵を描かせてもらえた。
南側の大きな窓から差し込む日差しは、この時期は少し暑いけれど、葵の描いた絵を明るく照らしてくれる。
日当たりの良さは気分が良くなるだけでなく、こんな効果もあったんだと、こちらの部屋を譲ってくれた愁哉に感謝する。
そんな愁哉は夏休み中、ずっと部屋にこもりっぱなしだ。
たまに部屋から出てくるのは、お腹がすいた時とお風呂に入る時くらい。どこへも出かける様子はない。
連絡手段がないと、本当に誰からも誘われないのかな。もしかして実は友達いないとか?
それともわざと自分以外の人を、シャットアウトしているのだろうか。
ある暑い日の夕方、少し涼しくなったリビングへ入ると、ソファーの上で愁哉が眠っていた。
「起こさないであげて。気持ちよさそうに眠ってるから」
春子がリビングに顔を出し、にこりと笑う。
葵はソファーのそばに立ち、そっとその顔をのぞきこんだ。
絵の具……顔についてる。やっぱり描いてるんだ、絵を。
実は少し後悔していた。あの夏休み前の夜、愁哉に言ってしまった言葉。
――愁哉くんの絵には心がこもってないんだよ。ちゃんと生きようとしてないから。
今思えば、余計なことだったのかもしれない。
私の言った一言で、愁哉くんが絵を描くのをやめてしまったら……ううん、それよりも、生きるのをやめてしまったらどうしようかと思った。
開いた窓から風が吹き込む。風鈴が揺れてかすかな音を立てる。
起こさないようにそっと、愁哉の頬に触れてみた。
「青い絵の具……」
愁哉の頬に、腕に、Tシャツに染みついている青い色。
葵はふと、静岡の川原で見上げた空を思い出す。
愁哉くんの描く絵が、真夏の青い空だったらすごくいいのに……。
穏やかな寝顔を見つめながら、葵はそんなことを思っていた。
玲子からメールが来たのは、夏休みも終わりに近づいた頃だった。
――話があるから会って欲しい。
そう書かれたメールに「いいよ」と返事をした。
玲子が待ち合わせ場所に指定してきたのは、大学の正門。
どこかゆっくり話ができる場所じゃなくていいのかな、と思ったけれど、夏休み中だというのに玲子が学校まで来るというから、葵も出て行くことにした。
「ごめん。わざわざ出てきてもらっちゃって」
「ううん。私は近いからいいけど」
玲子の家から学校までは一時間近くかかると聞いていた。
「話って……なに?」
「ああ、うん……」
玲子の歯切れが悪くなった。話すか話さないか、しばらく考え込んでいたようだけど、結局は口を開いた。
「姉が、昨日から帰って来ないの」
「え?」
「まぁいい大人だし、そんなに心配はしてないんだけど。ただ今まで無断で外泊とか、するような人じゃなかったから」
そう言っている玲子は、少し顔色が悪かった。本当は姉のことを心配しているのだろう。
「昨日の朝ね、突然姉が両親に言ったの。お見合いの話は、なかったことにしたいって」
「え、どうして……」
玲子がふうっとため息をつく。
「うちの姉、愁哉のところに行ってない?」
葵は大きく首を横に振る。
「愁哉くんとは……会ってないと思う。だって愁哉くん、夏休みの間中ずっと家にいるし、家に誰かが訪ねてきたこともないし」
「そう……」
玲子が疲れたようにうつむいた。葵は黙ってそんな玲子の表情を見る。
「あのさ……愁哉、ケータイ替えた?」
「え?」
「連絡してみたけど、通じなかったから」
連絡したんだ、玲子ちゃん。愁哉くんに。
「愁哉くんね、スマホ壊しちゃって、今連絡とれないの」
「そうだったんだ。じゃあ姉も連絡とれてないんだよね?」
「だと思う」
玲子と話しながら、葵は感じ始めていた。いや、もしかしたらもっと早くから、気づくべきことだったのかもしれない。
「ねぇ、葵」
玲子がゆっくりと顔を上げる。
「愁哉に会えないかな? 私から直接聞きたいこともあるし」
葵は黙って玲子を見つめる。
「葵の住んでる家、今から行ったらダメかな?」
九月だというのに、まだじりじりと暑い日だった。空は青く晴れ渡っていたけど、なんだかそれを見るのがつらい。
潤んだ目をして葵を見ている玲子が、愁哉を想っているってこと、それに気づいてしまったから。
「まあまあ、葵ちゃんのお友達? ゆっくりしていってね」
玲子を連れて家へ帰ると、春子はすごく喜んでくれた。
だけど葵は複雑だ。玲子をリビングに通し、二階のドア越しに愁哉を呼ぶと、愁哉は思ったより簡単に外へ出てきた。
「何だよ、玲子。こんなとこまで」
愁哉はリビングにいる玲子に、顔を見せるなりそう言った。
「お前、うちの学校来たんだって?」
「そうだよ」
「何考えてんだか」
愁哉が意味ありげにふっと笑う。
この二人、いつから会っていなかったんだろう。関係があったって、本当なんだろうか。
「それより、お姉ちゃんのこと知らない? 昨日から帰ってないの」
愁哉は少しだけ表情を変えて、その場に立ったまま答えた。
「知らねぇよ。会うなって言ったのお前らだろ」
「お姉ちゃん、結婚やめるって……ねぇ、あんたたち、まだ会ってるんじゃないの?」
「知らないって言ってんだろ!」
少し声を荒げた愁哉のことを、葵は黙って見ていた。
「話はそれだけ? 俺忙しいから」
「あ、愁哉くん……」
葵の声を無視して愁哉が部屋を出て行く。玲子はソファーに腰掛けたまま、頭を抱えるようにしてうつむいた。
「玲子ちゃん……」
どうしていいかわからずに、葵はおろおろするだけだ。
やがて玲子がうつむいたまま、ひとり言のようにつぶやいた。
「何やってるんだろう、私」
顔を伏せている玲子がどんな表情をしているのか、葵にはわからない。
「あいつのいる大学に入って、こんなところまで押しかけて来て……好きだった人のこといつまでも追いかけてるのは、私も同じなんだ」
玲子がそうつぶやきながら、自分で自分の手に爪を立てる。
「玲子ちゃん、やめて」
赤く血がにじみ出す、玲子の手を葵が押さえる。
「玲子ちゃんもうやめて。自分で自分のこと傷つけるのは……」
その時、玄関から春子の声が聞こえた。
「あら、愁哉くん、出かけるの?」
玲子が顔を上げて立ち上がる。そして思いつめた顔つきのまま、リビングを飛び出した。
「玲子ちゃん!」
葵もあわてて玲子の後を追う。
玄関には愁哉がいた。靴を履いて外へ出ようとしているその背中に、玲子が言う。
「お姉ちゃんを探しに行くの?」
愁哉がドアノブに手をかけた。
「行かないでよ! お姉ちゃんのところへは行かないで!」
玲子の声に、愁哉が背中を向けたままつぶやく。
「言ったろ、玲子。もう俺なんかやめろって」
そしてそのまま振り向きもせず、愁哉は外へ出て行った。
「玲子ちゃん……」
閉じられたドアの前で、玲子がぺたりと座り込む。
「どうしてお姉ちゃんなの? どうして……私じゃないの?」
玲子の震える声が、葵の胸に切なく響いた。