13
「うん、今東京駅。これから乗り換えるから、少し遅くなるね」
春子にそう伝えて電話を切る。
久しぶりに立つ東京駅のホームは、もう日が暮れたというのに蒸し暑い。人が多いということも、あるのかもしれないけれど。
静岡も暑かったが、川から吹く風と緑のせいで、コンクリートに囲まれたこの街よりは過ごしやすかった気がする。
乗り換えた電車の中では眠ってしまった。気がつくと二つ先の駅まで来ていて、あわてて降りて、また戻る。
一週間ぶりに、やっと小さな駅に着いた時は、もうすっかり暗くなっていた。
会社帰りの人たちにまぎれて駅から出る。するとそこに、久しぶりに見る姿があった。
「愁哉くん……」
葵が立ち止まると、音楽プレーヤーをいじっていた愁哉が顔を上げた。そして耳につけていたイヤフォンをはずし、葵のことを見る。
何やってるんだろう。こんなところで。
また女の人と待ち合わせでもしているんだろうか。
「お帰り」
「えっ、あっ……ただいま」
「春子さんから、葵ちゃんがもうすぐ着くから迎えに行ってくれって」
ああ、そういうことか。
「遅かったな」
「あの、寝過ごして二つ先の駅まで行っちゃって……」
「スマホ貸して。春子さんが心配してると困るから電話しとく」
葵は黙って自分のスマホを差し出す。
私を心配してくれている春子おばさんのことまで、ちゃんと気にかけてくれているんだ、この人は。
「愁哉くんのスマホは?」
「壊れた」
ああ、あの夜、愁哉くんがブチ切れて投げ捨てたから。
「修理するのもめんどいから、この際スマホ持つのやめた」
「そ、そうなの?」
「おかげで夏休みは誰からも連絡来なくて、さっぱりしてる」
葵のスマホを指先でなぞって、愁哉が春子に電話をかける。
葵はぼんやりと立ち尽くしたまま、そんな愁哉の姿を見つめる。
誰からも連絡来ないって……彼女とも会っていないのかな。
「夕飯できてるから、早く帰って来いだってさ」
「う、うん」
愁哉が葵にスマホを渡して歩き始める。葵はそのあとを追いかけるように、少し後ろをついて行く。
あの夜、あんなことがあったのに、普通に会話している自分たちが不思議だ。
夜風の吹く坂道。街灯の灯りは頼りなく、今夜の空に月はない。
「こっち来れば?」
坂道の途中、愁哉が立ち止まって振り返る。
「もうあんなことしないから。そんなに離れてないで、こっち来いよ」
愁哉の声を、頭の中で繰り返す。
――もうあんなことしないから。
その言葉に、どうしてだか切なくなる。
私は何かされたいんだろうか、それともされたくないんだろうか。
二度唇が触れ合った、今、目の前に立つこの人に。
三歩進んで、愁哉の隣に並ぶ。
男の人は苦手だったのに。
ひどいことをされたのに。
からかわれているだけかもしれないのに。
私はまた、この人の隣に並ぶんだ。
「反省してんだ、これでも。悪いことしたって……」
ひとり言のようにつぶやいて、愁哉がゆっくりと歩き出す。
「愁哉くん……」
葵は小さくその名前を呼ぶ。
けれど愁哉は何も答えない。ただ黙って、春子の家へと続く坂道をのぼって行くだけだ。
葵は静かに右手を伸ばした。前を向いて歩く愁哉の手に触れ、その手をそっと握りしめる。
振り払われたらどうしようかと思った。中学生の頃の、ほろ苦い記憶が頭をよぎる。
だけど愁哉は振り払わなかった。葵のことを見ないまま、ぽつりと一言つぶやく。
「バカだな……お前」
ゆるやかな坂道を、二人で手をつないで歩いた。
握り合った手は温かかったのに、胸の奥はすごく切ない。
顔を上げ、黒く塗りつぶされたような空を見上げる。
愁哉くんの描く寂しい夜空に、私が月を描いてあげる。
輝くような満月でなくていい。折れそうな三日月でも、ぼんやり霞がかかった朧月でもいいから。
愁哉くんの寂しさを少しでも、私が埋めてあげることができるなら……それだけでいいから。