11
七月になると雨の日よりも、晴れて蒸し暑い日のほうが多くなった。
今日も葵はTシャツを頭からかぶって下へ降りる。
「おはよう。葵ちゃん」
春子はいつも笑顔で迎えてくれる。
だけど葵はずっと、愁哉のことを避けていた。
学校ではもちろん、家でもその気配を感じると場所を移動し、愁哉と会わないようにしていた。
もうすぐ長い夏休みが始まる。夏休みになったら実家へ帰ろう。お母さんにも会いたいし。
そんなことを考えていたある夜、葵は愁哉と顔を合わせることになった。
「一人?」
ダイニングテーブルで夕食を食べていたら、突然愁哉に声をかけられた。
最近愁哉は帰りが遅かったし、夕食もほとんどこの家で食べていなかったから、すっかり油断していたのだ。
「あ、うん……春子おばさんは、さっき出かけた。女子校時代の同窓会とかで……」
「ふうん」
愁哉は冷蔵庫から麦茶を取り出すと、グラスを持って葵の前に腰かけた。
葵は箸を持つ手を止め、平然とした顔つきで麦茶を注いでいる愁哉を見る。
この人は、どう思っているんだろう。私と……キスしたこと。
寝ぼけていたの? 好きな人と間違えたの? ううん、違う。
この人は私にキスをした。心は別のところにあるくせに。
「愁哉くん」
箸を置いて愁哉を見る。開いた窓から夏の夜風が吹き込んで、春子のつけたガラスの風鈴が乾いた音を立てる。
「どうして……あんなことしたの?」
愁哉は葵を見ないまま、麦茶を一口飲んでグラスを置いた。
「教えてやったんだよ。男の部屋に無防備で入るとどうなるか。あの程度で済んで、よかったと思えよ?」
テーブルの上の両手をぎゅっと握る。
愁哉はそばにあったリモコンを手に取ると、テレビの電源を入れた。静かだった部屋に、お笑い番組の笑い声が不自然に響く。
「愁哉くんは……」
体が震えるのはどうしてだろう。悔しいからなのか、それとも哀しいからなのか。
「愁哉くんは好きでもない人と、そういうことできるんだね?」
愁哉がちらりと葵を見る。
「玲子ちゃんが言ってた。愁哉くんは人の気持ちなんか、全然考えてないって」
「玲子が? あいつうちの学校にいるのか?」
「そうだよ。私と愁哉くんと同じ専攻に」
「マジか? あいつ何考えてんだよ。バカじゃねぇの?」
そう言って愁哉がおかしそうに笑い出す。
「何で? 何でそんなこと言うの? 私、玲子ちゃんから全部聞いたんだから。愁哉くんとお姉さんのこととか……」
「俺と玲子のことは?」
「え」
言葉を止めた葵に愁哉が言う。
「聞いてないんだろ? 俺が玲子とやったこと」
「う、うそ……」
「嘘じゃない。俺は好きでもない女と、そういうことができるから」
息をのんで愁哉を見る。愁哉はふっと口元をゆるませると、リモコンでテレビを消して立ち上がった。
「なんなら試してみる?」
「や、やだ……」
まさかとは思うけど、体が震えて動けない。
愁哉がテーブルを回ってこちら側へ来た。
逃げればいいのに。ダッと椅子から立ち上がって、この部屋を飛び出して、愁哉の前から逃げればいいのに。
だけどきっと……それでは何も変わらない。
椅子に座ったまま、目の前に立つ愁哉のことを見上げる。愁哉はそんな葵をじっと見つめながら、その指先を葵の頬にすべらせた。
「逃げないんだ?」
小さく笑った愁哉が、少し腰を落として葵に顔を近づける。そしてその唇を、葵の口元に押し付けた。
どうしたら……どうしたらわかってもらえるの?
私のために、日当たりの良い部屋を譲ってくれた。
入学式の日、桜の舞い散る坂道を、一緒に歩いてくれた。
見せたいものがあると言って、白く輝く月を教えてくれた。
愁哉くんは悪い人じゃないって、私はそう信じてる。
「この前……愁哉くんの絵を見た」
唇を離した愁哉が葵の顔を見る。
あの雨の夜。床に投げ捨てられたたくさんの絵。
「だけど全部心がなかった。愁哉くんの絵には心がこもってないんだよ。ちゃんと生きようとしてないから」
「お前……」
愁哉の指先が葵の頬から離れる。
「お前いつから、そんな偉そうなこと言えるようになったんだよ?」
椅子に座る葵のことを、愁哉がにらみつけるように見下ろしている。
怖くて逃げ出したいけど……私が逃げたらダメなんだ。
「愁哉くん。私は涼子さんじゃないよ?」
誰もいないデッサン室で、哀しいほど愛おしい目をして愁哉くんが描いていた、スケッチブックの中の涼子さんはいない。
「玲子ちゃんも、絵里花さんも……みんな涼子さんじゃないんだよ」
「うるさい! 黙れ!」
強く腕をつかまれた。そのまま椅子から引きずりおろされ、床の上に強引に押し倒される。
「いたっ……」
「お前いい加減にしろよ? 俺のことなんか、何にも知らないくせに」
「し、知らないよ。知らないけど……愁哉くんが間違っていることだけはわかる」
愁哉が葵をにらみつけ、両腕を強く床に押し付けられる。痛さで顔をゆがませた葵の耳に、機械的な音が突然聞こえた。
電話の着信音。それは愁哉のポケットから床に落ちた、スマートフォンから流れてくる。
葵はとっさに画面を見た。そこに表示されている『涼子』という文字。
葵を抑えつけていた愁哉の手がゆるむ。愁哉もまたその画面を見つめている。
着信音は鳴り止むことなく、葵はその音だけに耳を傾ける。
だけど次の瞬間、愁哉はそれをつかむと、床に叩きつけるように思い切り投げ捨てた。
「きゃっ……」
思わず目と耳をふさいで声を上げる。鳴り続いていた電話が音を止める。
「これでいいんだろ?」
床に仰向けに倒されたまま、葵は静かに目を開けた。高い天井の下に、愁哉の顔が見える。
「これで満足なんだろ? お前も玲子も」
愁哉が葵から目をそむける。葵はただ黙ってそんな愁哉を見つめる。
窓辺の風鈴がまた音を立てた。愁哉が立ち上がって部屋を出て行く。
残された葵はそのまま両手で顔をおおった。
冷たい床の上で起き上がることもできずに、葵はただ、声を押し殺して泣いていた。