10
「どうしたの? 葵ちゃん、食欲ない?」
雨のしとしとと降り続く朝、春子と向かい合って座るダイニングテーブル。
春子の作った朝食はいつも美味しいのに、今日はどうしても喉を通ってくれない。
「体の調子でも悪いの?」
「ううん、そんなことないんだけど」
「でも全然、手をつけてないじゃない」
「ごめんなさい……」
その時、雨の音に混じって、階段を降りてくる足音が聞こえた。
「あら、愁哉くん、おはよう。今朝は早いのね」
「おはようございます」
心臓がどきんと跳ねて、うつむいた顔をあげられない。
目の前にやってきた愁哉が、葵の向かい側の席に座ったのがわかった。
昨日と変わらない、絵の具のついたシャツを着たまま。
「あのっ、私もう行きます。残しちゃってごめんなさい!」
「あ、ちょっと……葵ちゃん?」
席を立って部屋を出る。愁哉が自分を見ている気配を感じる。
どうして? どうして今日に限って起きてくるの? いつもだったらこの時間、顔を合わせることはないのに。
雨の中に傘を開く。強くもなく弱くもない雨が、傘にポツポツと音を立てる。
白く煙った景色の中、一人で坂道を下りながら、葵はそっと自分の唇に触れた。
お昼の時間になっても、雨はまだ止みそうになかった。
いつもより湿度の高い学食の席に、葵は一人で腰かける。
朝食も食べていないのに、お腹がすかない。バッグの中からペットボトルを取り出しそれに口をつけると、二つ向こうのテーブルに、デザイン学科の先輩たちが座るのが見えた。
派手な服装をして、大きな声で笑っている彼女たちの真ん中に絵里花がいる。
さりげなく視線をそらそうとした葵の目に、絵里花に声をかける愁哉の姿が見えた。
愁哉くん……。
目をそらしたいのにそらせない。愁哉はそんな葵の視線に気づいているかのように、一瞬だけこちらを見てから、絵里花の肩を抱き寄せ耳元で何かをささやいた。
「どうしたの?」
ふいに声をかけられ振り返る。そばに立つ玲子が、葵のことを見下ろしている。
「あ、べつになんでも……」
「また誰かに何か言われた?」
玲子の視線が葵からはずれ、二つ向こうのテーブルへ動く。
嬉しそうな顔をした絵里花が立ち上がった。仲間に一言二言話しかけて手を振ると、愁哉に寄り添うようにして学食を出て行く。
「あいつ……」
玲子が聞こえないほど小さな声で、つぶやいたのがわかった。
「玲子ちゃん……」
葵が呼ぶと、玲子が大きくため息をつき、その隣に腰かけた。
「あんた、お昼食べないの?」
「う、うん。なんか食欲なくて」
「ふうん?」
そういう玲子も昼食を食べようとしない。怒ったような表情で、何かを考え込んでいるみたいだ。
「あの、玲子ちゃん。聞いてもいい?」
「どうぞ」
むすっとしたままの玲子に葵は言う。
「玲子ちゃんは、どうして愁哉くんのことを嫌ってるの?」
「言ったでしょ? あいつが最低な男だから。あんた一緒に住んでてまだわからない?」
葵は黙ってうつむいた。午前三時の出来事、恥ずかしすぎて絶対言えない。
玲子はじっと葵のことを見つめたあと、ふうっともう一度ため息をついて言った。
「あいつはね、好きでもない女とも、平気でセックスできるの。本当に好きな人に想いが届かないからって、女のことバカにしてる。相手の気持ちなんて全然考えてないんだから」
「玲子ちゃん」
両肘をテーブルにつけると、玲子は頭を抱えた。
「玲子ちゃんは……愁哉くんとどういう関係なの?」
しばらく黙り込んだあと、玲子がうつむいたまま口を開いた。
「愁哉は、私の姉と付き合ってたの」
「玲子ちゃんのお姉さんと?」
「愁哉が高校生で、姉がその高校の美術教師をしていた時。本人たちは隠してるつもりだったらしいけど、私は知ってた」
遠くの席から笑い声が聞こえる。その声に混じって玲子の声が聞こえた。
「でも愁哉が高校を卒業する前、親にばれたの。姉のお腹に子どもができたから」
「え……」
玲子が前髪をかき上げるようにして顔を上げる。葵は言葉も出せずにそんな玲子の顔を見る。
「愁哉はね、進学しないで結婚するって言った。だけど愁哉のお父さんが、そんなこと許すはずはなくて。『うちの息子はお宅の娘にそそのかされた。息子の将来が台無しになったらどうしてくれるんだ』って怒鳴りこんできたの」
葵はぼんやりと春子の話を思い出していた。愁哉の目の前で、愁哉の絵を破り捨てたという父親の話を。
「でもそんなこと言われたら、うちの親だって黙ってないでしょ? 『あんな親の息子はきっとろくでもない。二度と会うな、今すぐ別れろ』って。それで姉は子どもをおろしたの」
「だけど……お姉さんと愁哉くんの気持ちは?」
二人の気持ちはどうなるの?
「姉は納得してたよ。そうするのが愁哉のためだからって。なのに愁哉はわかってない。いつまでも姉のこと追いかけて、こそこそ会いに来るのはやめて欲しい。姉は来年結婚するの。親の勧めたお見合いで、姉のことを気に入ってくれた人と」
そこまで言うと、玲子は唇を噛みしめた。そして左手の指先で、自分の右手をひっかくように爪を立てる。赤く血がにじみ出るほどに。
「玲子ちゃん!」
葵はあわてて玲子の手を握った。玲子の右手には、同じような傷がいくつもついていた。
「でもね……姉もバカなの」
玲子がため息をつくように笑って、葵を見る。
「愁哉に誘われると断れないの。会わなきゃいいのに。会っちゃダメなのに」
「玲子ちゃん……」
玲子の手が葵から離れる。
「……もう行こう。時間だよ」
立ち上がった玲子が歩き出す。葵はその背中を追いかけるようについていく。
外へ出ると雨は止んでいた。ただ低い雲が空をおおっていて、蒸し暑い空気に体が包み込まれた。