1
ゆるやかな坂道の途中に、その家はあった。
周りに建つ家よりもひと回り大きい、昔読んだ絵本に出てくるような古い洋館。
建物の壁には蔦が複雑に絡まり合い、緑に茂った庭の木が、その姿をひっそりと隠している。
まるで秘密の隠れ家みたい。
大きなバッグを肩から下げ、キャリーケースを引きずりながら、葵は閉じられた門の前に立ち、その家を見上げる。
でもなんだかちょっと……素敵かもしれない。
今朝、静岡のアパートで母と別れ、新幹線と私鉄を乗り継いで、この近くの駅に降りた。
見知らぬ町をスマホの地図とにらめっこしながら歩き、それでも目的地にたどり着けず、恐ろしく方向音痴の自分にため息が出た。
さらに追い打ちをかけるように、ぱらぱらと降り出した雨。
朝からの緊張と疲れで、泣き出しそうになった時、目の前にその家が現れた。
新しくできた同じ形で同じ色の建売住宅が並ぶ中、この家だけが持つ独特な雰囲気に、葵は一瞬で心を奪われたのだ。
ここから始まるんだ。私の新しい生活が。
まだ不安は消えなかったけれど、気持ちがほんの少し前向きに変わりかけた時、突然背中に声がかかった。
「うちになんか用?」
驚いて振り返ると、小雨の降る中、両手にスーパーの袋をぶら下げた男が立っていた。
ジーンズにパーカーのフードをかぶった、大学生くらいの。
葵は慌てて目をそらす。男の人はやっぱり苦手だ。
「あ、えっと……ここ、柴崎さんちじゃないんですか?」
「そうだけど?」
どうして? 柴崎さんちに息子さんなんていないはず。
「あの、私……今日から柴崎さんちでお世話になることになった……」
「ああ、そういえば春子さんが言ってたな。もう一人この家に下宿人が増えるって」
男がそう言って葵の前に回り込む。そしてかぶっているフードを少しずらし、うつむく葵の顏をのぞきこんだ。
「四月からM美に通う子だろ?」
恐る恐る顏を上げると、自分のことをじっと見ている男と目が合った。雨の滴が、長めの黒い前髪から一滴落ちる。
あれ、この人……どこかで見たことある?
「俺もM美の新三年。この家に下宿させてもらってんの。まぁ、よろしく」
「あ……」
思わず小さく声を上げた。もうすっかり忘れかけていたはずの、半年前の記憶がよみがえる。
まさか、あの時、デッサン室にいた人?
「なに?」
「い、いえ。なんでも……」
男がふっと口元をゆるませ、葵に背中を向ける。
ああ、この匂い。
錆びつくような音を立て、葵の前で門が開く。
絵の具の匂いだ。
雨にしっとりと濡れた背中を見つめながら、葵は懐かしい気持ちに包まれていた。
「まぁまぁ、葵ちゃん。大きくなって」
「春子おばさん。これからお世話になります」
「こちらこそ。お部屋はいっぱいあるから、好きなように使ってね」
アンティーク家具が置かれた広々としたリビングで、葵にタオルを渡しながら『春子おばさん』が言った。
春子は葵の父の、一番年の近い叔母だ。六十代独身。
東京のはずれのこの町に一人で住んでいて、静岡にある葵の家に、時々美味しいお菓子を持って遊びに来てくれた。
この家にも、葵は何度か来たことがあるはずだ。だけど小さい頃のことだから、あまりよく覚えていない。まさかあの頃は、自分がこの家に下宿することになるとは思いもしなかったし。
「あの、春子おばさん?」
葵の前で、温かな紅茶を淹れてくれている春子に聞く。
「さっきいた男の人って」
「ああ、愁哉くんね。あら私、言ってなかったかしら? もう一人、お部屋貸してる美大生の子がいるって」
聞いてないです。そんなこと一言も。
男の人がいるなんて知ったら、きっと葵の母だって、この家での下宿を勧めたりはしなかったと思う。
葵が春から通うことになった美術大学。東京での一人暮らしは何かと心配だからと、母の勧めで春子の家にお世話になることになった。
人見知りの性格の葵だったが、小さい頃から春子には懐いていたから、大丈夫だと母も思ったのだろう。
「大丈夫、大丈夫。愁哉くん優しいし、いい子だから。今もね、坂の下のスーパーまで買い物に行ってくれたのよ」
そう言ったあと、春子は葵に耳打ちするようにささやいた。
「それになかなかのイケメンくんでしょう?」
いたずらっぽく笑う春子の前で、葵は苦笑いをする。
春子は昔からこんなふうに、おおらかでマイペースだ。小さいことにすぐこだわってしまう葵は、そんな春子のことを、密かにうらやましいと思っていたりする。
春子の言う通り、彼はいい子なのかもしれない。春子はそんな彼のことを、あたたかく受け入れてあげたのかもしれない。葵のことを、快く引き受けてくれたように。
だけど……だけど、だ。知らない男の人と同じ家に住むなんて、葵には考えられない。
だからと言って今さらアパートを探すわけにも、いかないのだけれど。
「あ、今夜はね、愁哉くんの買ってきてくれたお肉で、ビーフシチュー作ろうと思ってるの。愁哉くんと三人で食べましょう。それまでゆっくりしてて」
春子がそう言って立ち上がり、鼻歌を歌いながらリビングを出て行く。
どうしよう……。親切で部屋を貸してくれる春子に、嫌だなんて言えるわけない。
ソファーに一人残され、小さくため息をついた時、葵の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「え?」
思わず顔を上げて、リビングの入口を見る。そこにはさっきの男――愁哉が立っていた。
「葵、でいいんだろ? 名前」
「あ、そうです。はい!」
慌てて立ち上がった葵を見て、愁哉がおかしそうに笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だって。俺、田舎から出てきたばかりの女の子に、手出したりしないから」
自分の顔が赤くなるのがわかる。別に何かされるとか、思っていたわけじゃないのに。
葵はちらりと愁哉の顔を見上げた。春子に言われて気づいたけれど、確かに愁哉は、なかなか整った顔立ちをしているようだ。最近よくテレビに出ている、俳優の男の子に少し似ている。
きっと女の子にモテるんだろうな。葵には興味のない話だけれど。
愁哉はそんな葵の前で、床に置いてあった荷物をひょいっと持ち上げた。
「こっち。あんたの部屋、二階」
「あ、荷物っ、持ちます」
「大丈夫。春子さんから頼まれてんだ。同じ学校の先輩なんだから、ちゃんと面倒みてやれって」
荷物を持って部屋を出て行く愁哉を追いかける。階段を上ると、二階にはいくつかの部屋があった。
「あんたの部屋はこっち側。中は二部屋つながってる」
ドアを開けると、カーテンのついた大きな窓と、板張りで二間続きの部屋が目に入った。
「広い……」
この部屋だけで、母と二人で住んでいたアパートと、同じくらいの広さだ。
葵は周りを見回しながら一歩を踏み込む。小さな机が一つあるだけのその部屋は、さっきと同じ絵の具の匂いがした。
「悪い。ちょっと汚したの俺」
「え?」
その声に振り向くと、苦笑いをしながら愁哉が荷物を床に置いた。
「この前までこの部屋、俺が使ってたから。絵の具の跡とか残ってるだろ?」
確かに壁や床にその形跡はある。ここでこの人が絵を描いていたのだろうか?
「春子さんがさ、何してもいいって言うから、好きなように使わせてもらってんだ。ちなみに俺は、向かい側の部屋に替えたから、あんたこっち使って」
それだけ言うと、愁哉が背中を向けた。葵は思わずその背中を呼び止める。
「あ、あのっ、去年のオープンキャンパスの日……」
葵の前で愁哉が振り返る。
「いませんでしたか? 旧棟のデッサン室に……」
どうしてこんなことを聞いているんだろう。人違いかもしれないのに。
だけどどうしても気になるのだ。あの日、あの人が描いていた人物画が……。
賑やかで色のあふれかえるキャンパスから、一歩外れたひと気のない建物。
今は使っていないというデッサン室で、その人は色の無い絵を描いていた。
たった一人で。絵の中の誰かを、見つめるような眼差しで。
「さぁ、違うんじゃない?」
葵の耳に声が聞こえた。
「そんな所、行ったこともない」
ふっと息を吐くように笑った愁哉が、もう一度背中を向ける。葵は黙ってその姿を見つめる。
葵の部屋と、廊下を挟んだ向かい側の部屋。その部屋のドアを開ける愁哉の向こうに、壁に立てかけてある絵が見える。
「ああ、言っとくけど」
突然振り返った愁哉が言う。
「俺の部屋はのぞくなよ。絶対に」
強い目つきでそう言われ、葵は怯えるようにただうなずいた。愁哉はそんな葵を見て、また笑顔を見せる。
「じゃあ、またあとでな」
目の前のドアが音を立てて閉じられると、葵はへたりとその場に座り込んでしまった。
どうしよう、お母さん。私ここで、やっていけるのかな。
座ったまま窓の外を見ると、雨はもう上がっていた。けれど葵の心はなんとなく晴れない。
不安に包まれる三月。新しい学校生活は、もう始まろうとしている。
群青色は紫みがかった深い青色。胡粉色はごくわずかに黄みがかった白色。
群青と胡粉は日本画に使われる青色と白色の絵の具です。