表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/28

 ゆるやかな坂道の途中に、その家はあった。

 周りに建つ家よりもひと回り大きい、昔読んだ絵本に出てくるような古い洋館。

 建物の壁には蔦が複雑に絡まり合い、緑に茂った庭の木が、その姿をひっそりと隠している。

 まるで秘密の隠れ家みたい。

 大きなバッグを肩から下げ、キャリーケースを引きずりながら、あおいは閉じられた門の前に立ち、その家を見上げる。

 でもなんだかちょっと……素敵かもしれない。


 今朝、静岡のアパートで母と別れ、新幹線と私鉄を乗り継いで、この近くの駅に降りた。

 見知らぬ町をスマホの地図とにらめっこしながら歩き、それでも目的地にたどり着けず、恐ろしく方向音痴の自分にため息が出た。

 さらに追い打ちをかけるように、ぱらぱらと降り出した雨。

 朝からの緊張と疲れで、泣き出しそうになった時、目の前にその家が現れた。

 新しくできた同じ形で同じ色の建売住宅が並ぶ中、この家だけが持つ独特な雰囲気に、葵は一瞬で心を奪われたのだ。

 ここから始まるんだ。私の新しい生活が。

 まだ不安は消えなかったけれど、気持ちがほんの少し前向きに変わりかけた時、突然背中に声がかかった。


「うちになんか用?」

 驚いて振り返ると、小雨の降る中、両手にスーパーの袋をぶら下げた男が立っていた。

 ジーンズにパーカーのフードをかぶった、大学生くらいの。

 葵は慌てて目をそらす。男の人はやっぱり苦手だ。

「あ、えっと……ここ、柴崎さんちじゃないんですか?」

「そうだけど?」

 どうして? 柴崎さんちに息子さんなんていないはず。

「あの、私……今日から柴崎さんちでお世話になることになった……」

「ああ、そういえば春子さんが言ってたな。もう一人この家に下宿人が増えるって」

 男がそう言って葵の前に回り込む。そしてかぶっているフードを少しずらし、うつむく葵の顏をのぞきこんだ。

「四月からM美に通う子だろ?」

 恐る恐る顏を上げると、自分のことをじっと見ている男と目が合った。雨の滴が、長めの黒い前髪から一滴落ちる。

 あれ、この人……どこかで見たことある?

「俺もM美の新三年。この家に下宿させてもらってんの。まぁ、よろしく」

「あ……」

 思わず小さく声を上げた。もうすっかり忘れかけていたはずの、半年前の記憶がよみがえる。

 まさか、あの時、デッサン室にいた人?

「なに?」

「い、いえ。なんでも……」

 男がふっと口元をゆるませ、葵に背中を向ける。

 ああ、この匂い。

 錆びつくような音を立て、葵の前で門が開く。

 絵の具の匂いだ。

 雨にしっとりと濡れた背中を見つめながら、葵は懐かしい気持ちに包まれていた。


「まぁまぁ、葵ちゃん。大きくなって」

「春子おばさん。これからお世話になります」

「こちらこそ。お部屋はいっぱいあるから、好きなように使ってね」

 アンティーク家具が置かれた広々としたリビングで、葵にタオルを渡しながら『春子おばさん』が言った。

 春子は葵の父の、一番年の近い叔母だ。六十代独身。

 東京のはずれのこの町に一人で住んでいて、静岡にある葵の家に、時々美味しいお菓子を持って遊びに来てくれた。

 この家にも、葵は何度か来たことがあるはずだ。だけど小さい頃のことだから、あまりよく覚えていない。まさかあの頃は、自分がこの家に下宿することになるとは思いもしなかったし。

「あの、春子おばさん?」

 葵の前で、温かな紅茶を淹れてくれている春子に聞く。

「さっきいた男の人って」

「ああ、愁哉しゅうやくんね。あら私、言ってなかったかしら? もう一人、お部屋貸してる美大生の子がいるって」

 聞いてないです。そんなこと一言も。

 男の人がいるなんて知ったら、きっと葵の母だって、この家での下宿を勧めたりはしなかったと思う。

 葵が春から通うことになった美術大学。東京での一人暮らしは何かと心配だからと、母の勧めで春子の家にお世話になることになった。

 人見知りの性格の葵だったが、小さい頃から春子には懐いていたから、大丈夫だと母も思ったのだろう。

「大丈夫、大丈夫。愁哉くん優しいし、いい子だから。今もね、坂の下のスーパーまで買い物に行ってくれたのよ」

 そう言ったあと、春子は葵に耳打ちするようにささやいた。

「それになかなかのイケメンくんでしょう?」

 いたずらっぽく笑う春子の前で、葵は苦笑いをする。


 春子は昔からこんなふうに、おおらかでマイペースだ。小さいことにすぐこだわってしまう葵は、そんな春子のことを、密かにうらやましいと思っていたりする。

 春子の言う通り、彼はいい子なのかもしれない。春子はそんな彼のことを、あたたかく受け入れてあげたのかもしれない。葵のことを、快く引き受けてくれたように。

 だけど……だけど、だ。知らない男の人と同じ家に住むなんて、葵には考えられない。

 だからと言って今さらアパートを探すわけにも、いかないのだけれど。

「あ、今夜はね、愁哉くんの買ってきてくれたお肉で、ビーフシチュー作ろうと思ってるの。愁哉くんと三人で食べましょう。それまでゆっくりしてて」

 春子がそう言って立ち上がり、鼻歌を歌いながらリビングを出て行く。

 どうしよう……。親切で部屋を貸してくれる春子に、嫌だなんて言えるわけない。

 ソファーに一人残され、小さくため息をついた時、葵の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「え?」

 思わず顔を上げて、リビングの入口を見る。そこにはさっきの男――愁哉が立っていた。

「葵、でいいんだろ? 名前」

「あ、そうです。はい!」

 慌てて立ち上がった葵を見て、愁哉がおかしそうに笑う。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だって。俺、田舎から出てきたばかりの女の子に、手出したりしないから」

 自分の顔が赤くなるのがわかる。別に何かされるとか、思っていたわけじゃないのに。

 葵はちらりと愁哉の顔を見上げた。春子に言われて気づいたけれど、確かに愁哉は、なかなか整った顔立ちをしているようだ。最近よくテレビに出ている、俳優の男の子に少し似ている。

 きっと女の子にモテるんだろうな。葵には興味のない話だけれど。

 愁哉はそんな葵の前で、床に置いてあった荷物をひょいっと持ち上げた。

「こっち。あんたの部屋、二階」

「あ、荷物っ、持ちます」

「大丈夫。春子さんから頼まれてんだ。同じ学校の先輩なんだから、ちゃんと面倒みてやれって」

 荷物を持って部屋を出て行く愁哉を追いかける。階段を上ると、二階にはいくつかの部屋があった。


「あんたの部屋はこっち側。中は二部屋つながってる」

 ドアを開けると、カーテンのついた大きな窓と、板張りで二間続きの部屋が目に入った。

「広い……」

 この部屋だけで、母と二人で住んでいたアパートと、同じくらいの広さだ。

 葵は周りを見回しながら一歩を踏み込む。小さな机が一つあるだけのその部屋は、さっきと同じ絵の具の匂いがした。

「悪い。ちょっと汚したの俺」

「え?」

 その声に振り向くと、苦笑いをしながら愁哉が荷物を床に置いた。

「この前までこの部屋、俺が使ってたから。絵の具の跡とか残ってるだろ?」

 確かに壁や床にその形跡はある。ここでこの人が絵を描いていたのだろうか?

「春子さんがさ、何してもいいって言うから、好きなように使わせてもらってんだ。ちなみに俺は、向かい側の部屋に替えたから、あんたこっち使って」

 それだけ言うと、愁哉が背中を向けた。葵は思わずその背中を呼び止める。


「あ、あのっ、去年のオープンキャンパスの日……」

 葵の前で愁哉が振り返る。

「いませんでしたか? 旧棟のデッサン室に……」

 どうしてこんなことを聞いているんだろう。人違いかもしれないのに。

 だけどどうしても気になるのだ。あの日、あの人が描いていた人物画が……。

 賑やかで色のあふれかえるキャンパスから、一歩外れたひと気のない建物。

 今は使っていないというデッサン室で、その人は色の無い絵を描いていた。

 たった一人で。絵の中の誰かを、見つめるような眼差しで。


「さぁ、違うんじゃない?」

 葵の耳に声が聞こえた。

「そんな所、行ったこともない」

 ふっと息を吐くように笑った愁哉が、もう一度背中を向ける。葵は黙ってその姿を見つめる。

 葵の部屋と、廊下を挟んだ向かい側の部屋。その部屋のドアを開ける愁哉の向こうに、壁に立てかけてある絵が見える。

「ああ、言っとくけど」

 突然振り返った愁哉が言う。

「俺の部屋はのぞくなよ。絶対に」

 強い目つきでそう言われ、葵は怯えるようにただうなずいた。愁哉はそんな葵を見て、また笑顔を見せる。

「じゃあ、またあとでな」

 目の前のドアが音を立てて閉じられると、葵はへたりとその場に座り込んでしまった。

 どうしよう、お母さん。私ここで、やっていけるのかな。

 座ったまま窓の外を見ると、雨はもう上がっていた。けれど葵の心はなんとなく晴れない。

 不安に包まれる三月。新しい学校生活は、もう始まろうとしている。

群青ぐんじょう色は紫みがかった深い青色。胡粉ごふん色はごくわずかに黄みがかった白色。

群青と胡粉は日本画に使われる青色と白色の絵の具です。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ