1.
「はじめまして」
と女は言った。
まるで反応できなかった。たった今自宅の鍵を開けて扉を開いて、その格好のまま固まってしまった。ポケットに突っ込みかけた鍵がぽとりと落ちる。その音で少しだけ我に返る。
「‥‥はじめまして、だぁ?」
間抜けた声しか出なかった。
「うん、はじめましてだ。
夜分に申し訳ないんだが、依頼をしたくて」
しゃあしゃあと女は言った。なんだか自分の疑問がどうでもいいことのように思えてきたが、そんなことはないはずだ。自覚はあるが直らない、険のある視線を投げかけて彼は言った。この場合は許されてもいいと思うが。
「‥‥いや、はじめましてであることに疑問を抱いたんじゃなくてだな。
お前誰だ。あとここは俺の家だ」
ここは確かに20数年を暮らしてきた彼の家の玄関で、その暗がりに、見知らぬ女が当然のように存在している。これは何の冗談だ。何かの罰ゲームか?
かなり混乱している彼に対して、女は飄々としていた。腹が立つくらいに淡々と、なんでもないことのように、そこに立っている。口調だけは少し困ったように女は言った。.
「不法侵入に不法滞在については何も言えないな。信用も安心もできないだろうが、とりあえず言っておくと、私はこの家の中のなにものにも興味はない。どこにも手はつけていないし、何も盗む気はないし、他人の生活をのぞいて喜ぶような趣味もない。どちらかというと不本意なことだったんだ、この家の中に潜む羽目になったのは。
まぁ、信用しろってのが無理な話だろうね。分かっているからそう睨まないでくれないか?」
「‥‥いや待て。いろいろと言いたいことはあるが、‥‥不法滞在? 潜んでたって‥‥
‥‥あぁもぅ、わけ分からなくなってきた。何なんだお前は」
女は自嘲するように唇を歪めた。なぜそんな表情をするのか分からない。ただ、彼はどうしてか居心地の悪さを感じた。
「何、か。誰と訊かれるよりも答えにくいな‥‥だが確かに答えなければならないことだ。
長い話を、聞く気はあるか?」
「‥‥とりあえず今はわけが分からなくて混乱しているからな。説明はしてもらいたいな」
「‥‥分かった。まぁこんな話、お前は信用しないかもしれないが。
説明はしよう。ただ、さっきも言ったように長い話になる。とりあえず奥に入らないか?」
そう言って女は当然のようにきびすを返した。それはあまりにも自然で堂々としていて、またしても彼は、ここが己の家であることをわざわざ思い出さなくてはならなかった。まるで主のように、女は彼の家の居間に入っていく。本当に主であるはずの彼は、そのあとを追う。




