エレベーター(短編ホラー)
「エレベーター」
湿度の高い六月の夜。
残業が長引き、腕時計の針は既に夜十一時を回っていた。
疲労と空腹で、足取りがおぼつかない。
フラフラしながら、どうにか自宅マンションに辿り着いた。
十階建てのおんぼろマンション。
エレベーターに乗った。
中に入り、「十階」のボタンを、そして「閉」ボタンを押した。
借りてる部屋は十階。最上階の、眺めの良い部屋である。
扉が静かに閉まる。
無機質なモーター音が響き、エレベーターが動き出した。
この感覚、めまいのような、自分の体重が増えたような、変な感覚。
築十五年のおんぼろマンション。
もちろんエレベーターもおんぼろ。昇降が遅い。
ゆっくり、ゆっくり、登ってゆく。
ふと、エレベーター内の黒い壁を見た。
引っ掻き傷のような跡がある。それが妙に気になった。
今朝までは、こんな傷無かったのに。
このマンションには子供が多い。悪ガキのいたずらだろうか。
それにしても、今日も疲れた……。
仕事でミスしてばかり。叱られてばかり。
そのうえ処理すべき書類は山積み。
明日は早めに出社して、さっさと片付けなければ……。
どっと疲れが出てくる。
突然、床が揺れはじめた。激しい横揺れ。
壁にある手すりを強く掴んで、倒れないように踏ん張る。
地震?
揺れを感知したエレベーターは緊急停止。
ブザーが鳴り、天井の電灯が消えてしまった。
あたりは真っ暗。何も見えない。
「まいったな……」
呟きながら背広のポケットを探り、百円ショップで買った
安物ライターを取り出して、火を灯した。
ゆらゆらと揺れる頼りないオレンジ色の小さな火。
その小さな火で、周囲を照らしてエレベーターの操作パネルを
見つけ、「開」と書かれたボタンを押した。
扉は開かない。
何度も押したが、反応が無い。
地震の影響で停電になっているようだ。
「マジかよ、閉じ込められちゃったよ……」
緊急時にエレベーター管理会社と直接通話できるボタンが
あったので押してみたが、やはり停電のせいか応答が無い。
急に恐ろしくなった。
「誰か! 誰か! 助けてくれ!」
ライターの灯火でオレンジ色に染まる扉を
拳で何度も叩き、助けを求めた。
扉には僅かな隙間がある。
指を差し込んでこじ開けようとしたが、扉はびくともしない。
「おい、誰か! 誰か居ないのか!」
また扉を叩いた。必死になって叫び続ける。
百円ライターの火が、だんだん小さくなってきた。
ガスの残量が少ない。
周囲が徐々に暗くなり、そして、フッと消えて
完全な闇。光など、何一つ見えない。
すると突然、背後に何者かの気配を感じた。
俺の、すぐ、後に、何かが、居る。
このエレベーターには俺一人しか乗っていないはず。
完全な密室のはず。
誰も入ってこれないはず。
なのに、なのに、何かが、居る。
ギギギギギー。
後の壁から、引っ掻くような音が聞こえた。
「ひいっ!」
思わず声を上げた。
ギギギギギー。
今度は右側の壁から聞こえた。
「だ、誰か! 誰か! ここから出してくれ!」
扉をガンガン叩く。
ギギギギギー。
すぐ左側の壁から聞こえた。
震える手で、かばんの中にある携帯電話を取り出し、
カメラ撮影用のライトを点灯させた。
すると、壁を引っ掻く音がピタリと止まった。
精一杯の勇気を振り絞り、後ろを振り返って背後の壁を照らした。
白い光に照らされた壁。
誰も居なかった。
左右の壁も照らしてみるが、何も居ない。
心臓の鼓動がさらに激しくなった。
ドン。
突然エレベータの天井裏から聞こえてきた。
ドン。
「やめてくれ……やめてくれ、もういやだ……」
しゃがみこんで、頭を抱えて眼を瞑った。
ドン。
何か得たいの知れないものが、天井裏に居る。
エレベーターのすぐ外側に居る。
もし、入ってきたら、逃げ場が無い。
ドカン。
天井の板が割れ、轟音と供に「何か」が
エレベーターの中に入ってきた。
何かが俺の目の前に立っている。
俺はしゃがんで頭を抱えている状態だが、
そんな気配を確かに感じていた。
だが、その何かは、じっとしたまま動かない。
突然、エレベーター内部の電灯がつき、明るくなった。
次の瞬間、俺の目の前に立っている何かから声が発せられた。
「電力が復旧したようですね」
明らかに人間の声だった。
「大丈夫ですか?」
しゃがんでいた俺は恐る恐る目を開け、声の主を見上げた。
そこには中年の男が立っていた。
白いヘルメットを被り、灰色の作業着を着ていた。
おそらくエレベーターの修理屋だろう。
「停電の影響で、どこか壊れたみたいで修理に伺ったんですよ」
普段のエレベーターの風景に戻った。
安心したせいか途端にへなへなと力が抜けた。
大丈夫ですかと、修理屋の中年男は心配そうに聞いてきた。
「とりあえず、ここから出してくれ」
「すいません。その前に一度、一番下の階に降りたいのですが」
「わかった。仕事で疲れてるんだ、早く家に帰らせてくれ」
「申し訳ありません、すぐに済みますので……」
そう言うと、修理屋は操作パネルに付いてるネジをドライバーで開けて
内部の配線や回路、スイッチなどを弄りはじめた。
「では、これから一番下の階に降ります」
修理屋が言うと、エレベーターがゆっくりと下に降り始めた。
俺は、違和感を感じた。
なぜこの修理屋は「一階」と言わずに「一番下の階」などと
変な言い方をするのだろうか。
それに、停電してからほんの数分のあいだにこの修理屋はやって来た。
どうにも不自然。どう考えてもおかしい。
徐々にではあるが、エレベーターの下降速度が増しているように感じた。
9、8、7、6、5、4、3……
階数を表す電光表示の数字が減ってゆく。
もうすぐ一階に着くというのにエレベーターが加速している。
俺は恐ろしくなって叫んだ。
「このエレベーターどうなってるんだ!?」
だが修理屋は俺に背を向けたままで、身動きひとつしない。
「おい! 止めろ!」
俺は修理屋の肩を掴んだ。すると、
「止まりませんよ……」
と、中年の修理屋は呟いた。
3、2、1……
電光表示が「1」になったが、まだエレベーターは下がり続けている。
「地下? このマンションに地下があるのか?」
「はい。地下の一番深いところまで、このエレベーターは止まりません」
-1、-2、-3、-4、-5、-6……
電光表示がマイナス値を示している。
「おい、いったいどこまで下がるんだ?」
「ですから、一番下の階まで落ちていくんですよ……」
「な、何を言ってるんだおまえは!? 止めろ! 今すぐ止めろ!」
すると、エレベーター内部の電灯が消えた。
真っ暗である。
また、停電したのだろうか。
だが奇妙なことに、エレベーターはまだ下がり続けている。
「黙っていろ、蛆虫が」
突然、暗闇の中から声が聞こえてきた。
先ほどの修理屋の声ではない。
陰湿で鳥肌が立つような不気味な低声。
この世の者とは思えない声。
俺は恐怖で震え上がった。
ギギギギギー。
また、壁を引っ掻く音。
俺は動けなくなった。
まるで金縛りにでもあったかのように、身動きひとつとれない。
どのぐらい時間がたっただろうか。
エレベーターが乱暴に急停止した。
暗闇の中、電光表示が示した階数は……
-666
その時、俺は悟った。俺は、死ぬのだと、悟った。
エレベーターの扉がゆっくりと開いた。
開いた瞬間、凄まじい轟音とともに、大きな灼熱の炎が
エレベーターの中に入ってきた。
それが、この俺が最後に見たものだった。
眼が覚めた。
俺はベットの上に横たわり、白い壁と、天井の蛍光灯から発せられる
白い光を見ていた。ここはどこだろうか。自宅ではないようだ。
左腕にチューブのようなものが刺さっている。
そのチューブは上のほうに伸びていて、眼で追っていくと
透明な液体で満たされたビニールパックがあった。
どうやら点滴が投与されているようだ。
ふと右のほうを見ると、白衣を着た女が立っていた。
手にはカルテらしきものを持っている。
俺は、病院の、診察台に、寝ているのか。
しかし、なぜ?
「看護士さん、どうして俺はここに?」
「あなた、マンションの入り口で倒れていたんですよ」
「入り口で倒れていた?」
「過労で衰弱して倒れていたところを、マンションの管理人さんが
発見して、この病院まで連れて来たんですよ」
そうか、あれは夢だったのか。
ふたたび、天井を向き眼を閉じた。
恐ろしい夢だった。
あの音、あの声、あの炎、身を焦がす熱さ。
夢とは思えない。あまりにリアルだった。
バーン!
何かが爆発するような音がした。
慌てて眼を開けるが、周囲は真っ暗になっていた。
嫌な、とても嫌な予感がした。
「看護士さん! 停電したんですか? 看護士さん!」
俺は叫んだ。
すると、暗闇の中から
ギギギギギー。
と、壁を引っ掻くあの不快な音。
そして、声が聞こえた。
「黙っていろ、蛆虫が」
(了)