第3話 水色勇者は今何処(いずこ)?
昼と繋がれていた手が離れた。
きちんと掴んでいたはずなのに、だ。それなのに彼女が水の中に沈んでしまった途端、まるで第三者に無理やり解かれたかのように、スルッと安易に離れてしまっていた。
いくら叫んでも、彼女にこの声は届いていないのが、感覚的にわかってしまった。
(…くそっ!)
なぜ離してしまったのか。
今となっては後悔だけが残りその身を苛む。八つ当たりに自分の太ももを拳で殴ろうとしたが、水の抵抗でとんでもなく弱い威力になった。
本当に自分が情けない。
今まで昼を守るためになんでもこなしてきた。それがこの肝心なときに限って何の役にも立たないのだ。自暴自棄にもなりたくなる。
――ゴポゴポッ
水が視界に入ってくる寸前に目を閉じる。冷たい感覚が体中を包み込む。そして俺自身も、昼と同じように全身が水に沈み込み、いつの間にか意識を失った。
意識を失ってからどれくらい経ったのか。
目を開けると、俺はまだ水中に居た。両手を見てみるがふやけてはいない。そう長く意識を手放していたわけではないらしい。
そしてどういう原理か、水中で普通に呼吸が出来る。苦しくない。
(…俺の前世は魚か?)
そんなありもしないことを考えていると、急に体が水面へと引き寄せられる。呼吸は出来ているはずなのに、外の空気が欲しくなって自分自身も上へ上へと水をかく。
水面下から顔を出した瞬間、眩しい光が目に入り思わず側める。
そのぼやける視界の中でひときわ輝く人影を見る。
「ようこそ勇者様! ヴェルトシリアへ。私たちは貴方が来るのを心待ちにしていました!!」
「……」
その人影は昼ではなかった。落胆する。
彼女より少し背が高い13、14歳くらいの少女が、白いワンピースを風で靡かせながら、満面の笑みを浮かべていた。
こちらに手が差し伸べられる。
その少女の双眸は現実ではありえない桃色で、その丸い目をきらきらと輝かせて自分を見ている。見世物でも見るかのようなその視線に若干苛つく。
肩までの長さの髪は砂色で、内側にカールしていて、クロワッサンみたいだ。そして一番目についたのは、やたらいろんな箇所に結んである、薄桃色のリボンであった。
「…? ようこそ勇者様! ヴェルトシリアへ。私たちは貴方が来るのを心待ちにしていました!!」
「……」
しん、とこの場が沈黙に包まれ、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「…ええと、ようこそ勇者様! ヴェルトシリアへ。私たちは貴方が来るのを心待ちにしていました!!」
―バシャッ
このまま水に体を浸したままだと風邪をひくかもしれない。
地面に両手をつけて一気に陸に上がった。制服が水を吸収してしまったために普段より体が重く感じたため、腕を掴むようにして絞り水気を切る。
取りあえず此処が海ではなくて良かった、と言うべきか。
もし海水であったら、体中塩気で不快感を味わったことだろう。
久しぶりに地に足をつけたような変な感覚を覚えながら、此処が何処か把握する為に周りを見回す。
簡潔に言い表せば、花が咲いている木々に覆われた森、というところだろか。
足元にも小さな花が沢山咲いている、花畑があった。そして背後には今自分が這い上がってきた直径5mくらいの池。いくら観察しても、どう見方を変えても、下校途中の見慣れた道には見えない。
そもそもここが日本かすら怪しい状況だ。
制服のポケットから取り出したガラケーは、とてもじゃないが使えたものではなかった。携帯を防水にしなかったのが今になって悔やまれる。といってもかける相手、つまり昼の携帯も防水じゃないのでどっちにしろ連絡は取れないだろう、と仮定し、即座に電話での昼への連絡は諦める。
とりあえずここが日本だと仮定して、今はこの場所が日本の何処に位置するのか。それと公衆電話を探しながら歩いていくしかない。
連絡する手段さえあれば、誰かしらに電話出来るので事情を話して車を寄越してもらえばいい。親にあまり迷惑をかけたくないが、今はそんなことを言っている場合ではない。昼も同じように遭難しているはず。
きっと今頃怖がっているだろう。早く探し出してやらなければ。
「あ、あの! 勇者様?」
ゲームのやりすぎで現実と区別がつかなくなった極度のゲーオタか、ただオタクか電波か。まぁいずれにせよ俺には全く関係ない。そういえば昼はファンタジー小説を好んで読んでいたのを思い出す。この間貸してもらった本はなかなか面白かった。たしか『Hurry!!ポター』という題名だったか。
「無視しないで下さい! 勇者様!!」
それにしても、と自分の手を見つめる。
途中まで昼と手を繋いでいた。絶対放さないように握ってたのに、何かに邪魔されたかのようにほんの一瞬で繋がりが断ち切られた。
(…あれはただの偶然か?)
「聞いてますか!? …はっ。もしかして私の言葉が通じていないんじゃ…。翻訳魔術失敗!? そんなっ!でもでも、あの時ちゃんとかけたはずなのに…」
この周辺に昼が見当たらないとなると、他の場所をひたすら探すしかない。
頼むから、無事で居てくれ、と心の中で強く思く。この瞬間に昼になにかあったらと、考えると生きた心地がしなかった。
不安に急かされるように、どこに向かえばよいかもわからない中、ここに留まっていてもなにも変わらないと思い、足を動かし始める。
「…いや、でも私がこうして話しかけているってことぐらいは分かるはずじゃ? あの! 聞こえてますか!? …っていない!? あっ、待って下さい!!」
後方から、ぱたぱたとこちらに駆けてくる足音が聞こえてくる。
どうやら先ほどまで、ぶつぶつ独り言を呟いていた電波少女がついてきたらしい。そして少女は俺の隣を歩き始める。正直鬱陶しい。
「あの! わたし、ミリーナ・ディ・ランドリーラと申します。勇者様のお名前は?」
そういえば水に沈んでから今までどれくらい経ったのだろう。
昼にもらった腕時計に目を向ける。防水仕様なのか壊れている様子はない。今ある昼に通ずるものはこれしかないため、壊れていないことにほっとし、時計盤に目を這わせる。
12時36分?どういうことだ?
やはり壊れてしまっていたのだろうか。
もしこの時計が壊れていなかったら、あれから水の中で8時間以上経っているということになる。ますますワケが分からなくなる。
「あ、ええと、勇者様は勇者様ですよね!
あっ、そちらは危険です!! 魔物がうろうろしているので、ここからはわたしの転移魔術で一気に城までお連れします。お、お待ち下さい!! 本当に危険なんです!!」
なんやら騒いでいる少女を無視して先に進む。
あんなのを相手にしていたら日が暮れるどころか軽く一日経過しそうだ。こんなところで時間を潰すほど暇ではない。
ところが一歩踏み出した瞬間、森の雰囲気がガラッと変わる。
空気が重くなったように感じた瞬間、目の前に大きな犬に似た獣がどこからか出現した。唸り声をあげ、鋭い牙の間から涎を垂れ流している。
周りを見るに此処は森の、しかも相当な深さまできている。何かしら野生の獣が出てきてもなんらおかしくない状況だった。
――ガルルルルルルルッ
「あぁ!! 早くこちらにお戻り下さい勇者様! こちらは結界があるので襲われることはありません! 早くこちらへ!!」
「…なんだ、犬か」
「犬ではありません、獰猛な狼の魔物です! 早くお下がり下さい!!」
一層ぎゃぴぎゃぴと騒ぎ立てる少女。その騒ぎ立てる声が、あの”犬”を興奮させていることに早く気づいて黙って欲しい。
何か武道を習っているわけでもない俺に、これ以上興奮した獣を倒せるという確証はないのだから。
ーガルッ
もう待ちきれんとでもいうように低い唸り声を上げながら、“犬”は涎を汚く飛び散らせてこちらに襲い掛かってきた。それに対して、俺はただ片手を前に突き出す。犬がここに飛び付いてくることがわかっていれば、簡単なことだった。
「勇者様!!?」
「…ふぅ」
あのバカ生徒会長にはよくやるが、“犬”にアイアンクローをしたのは初めてだ。何故か普段より力が強くなり、うまく力加減ができず、犬の骨を砕いてしまったらしい。白目をむいて泡を吹いている。
やり過ぎたと、僅かな罪悪感を感じる前に、何故か犬は黒いもやになって消えてしまった。
傍らの少女は何故か大きく目を見開いて、ありえないものでも見たように驚愕している。
なにはともあれ、取りあえず、これで昼を探しにいくのを阻む邪魔はなくなった。目の前に障害物がなくなったのでまた歩き出す。
「あ…す、すごいです! 流石勇者様です! 素手で魔物を倒してしまうなんて…」
目をきらきらと輝かせてなにやら感心しながら着いてくる。それからこちらに小走りで来て隣に立つと、その少女は何を思ったのか急に俺の手を掴み、興奮気味に喋りだす。
「貴方が勇者様で間違いないです! では城までお連れします!」
「触るな…!?」
手を振りほどこうとしたとき、視界がぐにゃりと曲がる。
そして、次に身が捩れるような感覚となんとも言い知れない浮遊感を感じたときには、なぜが森ではなくなっていた。
足元も歩きづらさに変わりはないものの、枝や木の葉といったものが綺麗さっぱりなくなっていて変わりに赤い毛が足を優しく受け止めている。
しばらく起きた現象についていけなかった。
「はいっ、お城に着きました。お父様! この方が神聖な光の湖にいらっしゃった光の勇者様です!」
「おぉ、そなたが光の勇者か。ミリーナ、ご苦労だったな」
ぼおっとしていると、目の前でわけのわからない格好をした奴らが、わけのわからない話をしている。
王座に座っている、50過ぎに見える威厳を放つ砂色の髪の男。
真上は高い天井、シャンデリア。下は赤い絨毯、傷一つない大理石の床。
まるでおとぎ話に出てくる城のようで、王座に座っている男は王のように見える。
王のような男は、椅子から重い腰をあげ、高い位置から俺を見下ろす。
「勇者よ。召喚に応えてくれて感謝している。面を上げよ」
もともと下げてないが。
返事をしない俺に不満を感じてか、王の側近のように見える甲冑を着た数人の男が目を血走らせながらこちらを睨むが、このような茶番に付き合ってられないため受け流した。
ごほん、と王のようにみえる男の咳払いで側近たちは俺を睨むのを止め、佇まいを直す。
「我が国に勇者を召喚したのは他でもない、2、3年前から我が領地を侵略するようになった魔の王を倒して欲しいのだ。勇者よ、どうか我が国を救ってはくれぬか。」
意思を聞かれてはいるが、有無を言わさない雰囲気がこの場を包んでいる。
もはや何かの芝居に巻き込まれたとしか言いようがない。よくここまで真剣な芝居を出来るものだ。
(…芝居をするなら勝手にやってくれ、俺を巻き込むな。こんなことをしてる時間すら惜しい)
わけのわからない状況に自由を拘束され、思うように行かない状況に苛つく。
何かが昼を探しにいくことを拒んでいるようにすら思える。
こちらの内心の状況も知らずに、芝居は勝手に進んでいく。
「勿論魔の王を倒した暁には褒美として、爵位と土地、金も準備しておる。お主されよければ娘の、ミリーナの婿として迎える準備もできておる。魔の王の討伐に行く際の武器や防具、資金なども全て揃っておるゆえ心配するでない」
「お、お父様っ!?」
赤面している少女を傍目に、ここからどう脱出するかを考える。
あの背後に控えている兵たちに一人で太刀打ち出来るとは到底思えない。こちらが素手であるのに対して、あちらは当然のごとく腰に下げている武器を使用してくることを想像するのは容易い。
「本日は、明日旅の出立に向けて、城で身体を存分に休めるが良い。」
「…分かりました」
今は従っておいた方が良いと、そう結論を出し、返事をする。
王に見える男は、返事を聞いて満足そうに頷いた。
「ではミリーナ。勇者を客室に案内するのだ」
「はい、お父様」
明日には出立、ということは、こちらがアクションを起こさなくても此処から出してくれるらしい。
逃亡する手間隙が省けるのは嬉しい誤算だ。こうしている間にも昼を探しに行きたいが、此処から何処に向かっていけば良いか分からない上に、闇雲に探しても無駄に時間がかかり、昼が見つかる確率が下がる可能性もある。
体調も常に万全に整えておいたほうが良い。そう判断し、今は休めることに集中する。
目の前の砂色の少女が、スカートを掴んでお辞儀をする。
「では勇者様。お体が冷えているかと思いますので、先ずはお風呂にご案内いたしますね」
♪
風呂は、これまでドラマや映画でしか見たことがない豪邸の風呂のように巨大だった。ここまでされると、芝居ではないのでは、と嫌な予感が一瞬浮かぶが、すぐ荒唐無稽な話だと自分に対して嘲笑し、考えを消し去る。
取りあえず体を洗い温め、少女が何処からか持ってきた服の袖に手を通す。
白で統一されており、所々に金の装飾がついている。肌触りもなかなか良く、着心地は悪くない。
制服は濡れているため、扉前にいたお手伝いのような格好をした婦人に洗い乾かしてもらえるよう頼んだ。
「夕餉のときに呼びに参りますのでそれまでごゆっくりお休みくださいませ」と華美な客室に案内され、一人になる。
ようやくひと段落つけるとため息をつき、ベットに腰を下ろす。客室も豪華で、まるで高級ホテルのスイートルームのようだ。今座っている天蓋つきのキングサイズのベットが1番目に付く。
(…意味が分からない。なんなんだ…勇者、魔の王? 芝居だと思ったが、ここまで来るとそのように見えない。仮にここが日本だとして、日本は王政ではない。一体此処は何処だ?)
まさに“異世界”という言葉がぴったりと当てはまるのではないか?
まさか、と首を横に振り自分の突拍子もない考えを一蹴しながらも、頭の中ではそれが正解なのではないか?ともう一人の自分が認めているような気がして、言い表せないふわっとした感覚が体中を駆け巡る。
そして、聞き流してはいたがあの少女の、何回も繰り返されて嫌でも頭に残ってしまった台詞が思い浮かぶ。
『ようこそ勇者様!ヴェルトシリアへ。私たちは貴方が来るのを心待ちにしていました!!』
ヴェルトシリア?そんな国、もしくは地域が日本、外国にあっただろうか。
一瞬で弾き出される答えは無情。
ない。そんな国は存在していない。
片手で頭を押さえながらベットに盛大に寝転がる。思っていたより感触は硬い。
一体何が原因でこんなことに巻き込まれているのか。頭が痛い。
出た結論を否定したくてもそれをこの状況が許さない。
『此処ハ“異世界”ダ』
たったそれだけ。導き出された結論は唯ひとつ。
(頭がおかしくなりそうだ)
顔を冷たい水で洗ったら頭が冷えるだろうと、部屋に併設されている洗面台に向かう。
蛇口から水を出し、顔を上げると、どこかで目の覚めるような水色が煌めいた気がしてはっとする。目の前の鏡を見ると、見慣れた茶色の瞳ではなく、現実ではあり得ない水色の瞳に変わっていた。
目を閉じ、息を吐く。落ち着くために彼女の顔を脳裏に浮かべる。
名前を呼んだら振り向いてくれる、優しく綺麗に微笑んだ彼女。本当ならいつも隣にいるはずの彼女は今はいない。手元にない彼女の温かさ。この寂寥感。
「…ふざけるな。昼を、返せ」
ぽつりと呟いた言葉は空を彷徨い、何処にも行けずそのまま溶け込むように消えてなくなった。
第3話 終わり
2013/1/17改訂