第1話 二つ輝く銀色の月
黄金の光が地平線の向こうに沈んでいく。
次に空を見上げた時には既に無限に広がる暗闇を眩しく照らす二つの月が浮かんでいた。満月のようだ。
二つの月が一斉に満月になったのは何百年ぶりだろうか。記憶を辿ってみたが、余程大昔のことなのか以前二つの満月が浮かんだ空を思い出すことが出来ない。それほど知りたいわけではなかったため、すぐに思考を止める。
夜風は冷たく、腰より長い漆黒の髪を揺らしていく。
満月の所為か、通常より魔力に満ちた不思議な空気がこの森に流れていた。力が湧き、とても気分が良い。
何気なく崖から見下ろす先にある雄大な川を見下ろす。森の中心を流れるその川は、いつもと変わることなく穏やかに流れている。
一見そのように見えた。
「…?」
一瞬、キラッと何かが目を掠める。通常の森では感じることのない何かがある、と長年この森に居座る自分の勘が告げる。
目を凝らすと、川に異様な気配がする何かが流れているのがわかった。此処からでは遠すぎて微細な気配しかわからなかったため、流されている何かの近くに生えている草花影に意識を移し、流れているものが何かを探る。
そして想定とは反した何かの正体に思わず目を見開いた。
流されているのは一人の人間であった。
この森で意識が芽生えた時より、川に人間が流れてくることはこれまで一度もなかった。うつ伏せで流れてきているところを鑑みるに、生きてはいないだろう。
何処から流されてきたのだろうか。此処は魔物も人間も、易々と踏み入って来られない神域というのに。
神域より外にある川の源泉のある向こうの山から流れてきたとしても、水中に生息する魔物が見逃さないだろう。
推測の域を出ないが、どうやってこの神域には侵入したかは置いておき、神域内の森をさ迷い、なんらかが原因で川に落下したのだろう。愚かな人間だ。
このまま麓まで流されていけば、いずれは神域を抜け、水中の魔物にひとかけらも残されずに喰われることだろう、と息を洩らす。
このとき、とても気分が晴れていた。
通常なら、気にも留めずにただ流れていくのを眺め、この場を後にするだろう。しかしこの時ばかりは、二つの月が同時に満月になり、空気に多分な魔力が含まれる通常時からは明らかに逸脱していた。
だからだろう。気がつけば川に流されている人間を拾い上げようと考えた。
拾い上げて何をするかも考えられていないのに。
自分の影を眼下で手足のように動かすと同時に、
此処から遠く離れている川まで、森の木々や動物の影を媒介に伸ばしていく。
川の中の影から触手を出し、人間を川辺に移動させ、そっと草むらに置く。生きている中で、人間は脆いと知識として知っているからだ。
この闇で人間を掴み少しでも力を入れてしまったら、まるで砂のように掴めずに潰れてしまうことだろう、と推測し、できる限り力を弱めた。
人間を置いた場所に、草むらに影を通して一瞬で身体ごと移動する。
何気ない興味で人間の容姿を観察する。人間はとても物珍しかった。
存在自体も珍しいのだが、それよりも珍しいのは最初に目についた、闇に溶けそうな艶やかな黒髪だった。気紛れに神域の外に数回出たことがあるが、幼子以外が黒髪を持っている姿は見たことがなかった。
目蓋は固く閉じられていて瞳の色を見ることができなかったが、感覚的に分かった。
瞳の色も同じ黒だ、と。
顔立ちは中性的で最初は少年と見間違えたが、胸の微かな膨らみを見て少女だと再認識する。
そして触手で触れたときにわかったが、どうやら生きているようだ。息も正常で、溺れていた様子は微塵も感じられない。服はこれまで見たことがない形だが、水を含み色が黒ずんでいる。流されている間になくなったのか、靴は片方のみを履いていた。
「……」
普段ならば、流れているものが何か判明した時点で興味が尽きていたが、純粋な黒に興味を持つ。
自分と同じ黒を持つものが、どんな人間なのか。
感触を確かめるように影で人間を抱き上げ、いつもの場所に戻るため、森の中へ入っていった。
♪
身体全体を何か温かいもので覆われた気がした。重たい目蓋をゆっくり開く。
「…!」
緑が視界を埋め尽くしていることに驚き、勢いよく上半身を起こした。
暫し呆然と回りを見渡す。
「…森?」
自然に首が傾く。
何故森なのだろうか。目の前に映るのは青々とした木々のみ。どうみても森だ。
真上は木々に覆われているため周りは薄暗く、朝なのか夜なのか判断が出来ない。気候はジャングル(は熱帯雨林だと昼は思っている)とは違って、ひんやりと涼しく、神々しささえ感じる何かがこの森にはあるように感じた。
そして、見知らぬ薄暗い森の中だというのに、不思議と恐ろしさがなかった。
周りをこれ以上みても状況が理解できなかったため、自分のことを考える。
(私は、溺れ死んだんじゃ?)
水溜り…ではなく、底なし沼に落ちた、と思う。
私は水に沈んで、息が苦しくなって、目の前が真っ暗になって、もう駄目だとあのときたしかに思った。死んだと、思った。
それなのに、どうして自分は森に居るのだろう。森が天国とでもいうのだろうか。
(もしそうなら天国の概念を書き直さないといけないけど…。
…全然分からない。頭が混乱している。一体何がどうなっているの…?)
何もかもがわからない。一度落ち着こうと思い息を吐く。
そういえば、と視界を自分の方へ移動させる。
目が覚めたときから無意識に触っていて、今気がついたが、私はいつのまにか黒い服に着替えていた。服、というより、身体に黒い布が巻きつけられている、といった方が正しそうだ。
不思議な肌触りだ。さらさらしていて、それでいて優しいぬくもりを感じる。そう、ぬくもりを肌全域で直に感じているのだ。
どうやら私は裸になっているらしい。
(…へぇー。……なんで!?)
水に沈んだときはたしか制服を着ていた。
学校から帰宅途中だったのだから、制服を着ているのが当たり前だ。一日の中で逆に服を着ていない状況なんて数えられるほどしかない。
そういえば、あの日は特別な日で、帰りは一人じゃなかった。
「春ちゃん!」
名前を呼ぶと同時に、無意識に薄茶色のさらさらの髪の毛を目で探していた。
あのとき、たしかに春ちゃんが隣に居てくれてた。もしかしたら春ちゃんもここに来ていて、私を助けてくれたのかもしれない。
少し待っていれば、此処に戻ってくるかもしれない。
体感時間で、三時間くらい待った気がする。(実際は三十分しか経っていない)朝か夜かもわからないが、少し明るくなったような気もする。
でも春ちゃんは姿を表さない。いくら見渡しても、彼の姿は何処にも見当たらない。
とりあえず立ち上がり、春ちゃんを探しに行くことにした。此処にいることを信じて、見つけたらお礼を言わなくちゃ、と強く思い、自分にカツをいれる。
靴もなくなっていることに、立ち上がって初めて気づく。
裸足の所為か、土に足をつけると、ひんやりとした感触が足の裏の皮膚を伝って体中を包み込む。
冷たさに思わず驚いて、声を出してしまいそうになったものの、なんとか抑えることが出来た。
(よしっ!)
かわりに自分にカツをいれる。
もし彼が私を助けてくれたのだとしたら、この近くに必ず居るはずだ。春ちゃんが、私を置いて遠くにいくはずがない。
土は冷たかったのと、足が汚れると思い、なるべく土に生えている苔や太い木の根っこの上を歩くようにした。このほうが、なんとなく精神的に落ち着く気がした。
普段ならこんな根拠の無いことはあまり信じないが、今はひとつひとつが大事なことのような気がしてきている。
(夢みたいなのに、変なの…)
意外にも素足で苔や根っこの上を歩くのは気持ちが良かった。時々木の根のごつごつな部分に当たったときは、「自然の中を歩いているんだなぁ」という気がして、気分が良くなってくる。マイナスイオンが此処には沢山充満しているのだろう、多分。
そんなことを考えているうちに、知らず知らずのうちに気が大きくなり、歩くペースが速くなり、木の根から木の根へと跳ねるように進んでいく。
なんてことをしていたら、木の根に躓いて、意思とは無関係に体が前に傾いた。
「!!」
気づいたときにはもう遅く、体制は直せないと直感でわかる。すぐに顔面に来るだろう痛みを堪える為に、反射的に目を強く瞑る。
しかしいくら待っても衝撃がやってくることはない。
転んだはずなのにどうして?、と不思議に思って恐る恐る目を開く。
「!」
身体に衝撃は来ないことがわかったが、他の意味で衝撃を受けた。
目前に、銀色に輝く二つの月のような、切れ長の双眸が目の前にあった。闇夜にキラキラと輝き、まるで、夜に見かけた黒猫の瞳のようだ、と思う。
闇夜のように艶やかな美しい黒髪は、前髪から視線を移していくと腰までの長さがあることがわかる。
そして、この世のものとは思えない整った顔が、私の鼻先にくっついてしまうのではないかという至近距離にあった。
そこまで状況把握をして、やっと自分が抱きあげられていることに気が付く。目の前の人が誰であるかは置いておき、まず一番最初に思ったのは、
(は、恥ずかしい)
という言葉だった。
その後すぐに、恥ずかしさを打ち消すような勢いで疑問が湧く。この人は明らかに春ちゃんではなかったからだ。
切れ長の瞳は春ちゃんに似てなくもないが、瞳の色も、髪の色も、全く別人としか言いようがなかった。心細さが一気に増した瞬間でもあった。
その心細さを打ち消すように、目の前の人を観察する。
普通だったら、よくわからない人に抱き上げられている、という時点で恐怖で発狂しそうだが、あまりにも浮世離れした美しさに、思わず見惚れてしまった。
繊細な雰囲気から女の人かと見間違いそうになるが、思わず手をついてしまった相手の肩つきからして、男の人であろうと推測する。
こんな綺麗な男の人は、春ちゃん以外で会ったことがなかった。
数分間、お互いに見つめあい、もとい観察し合っていると、突如気がついたかのように、そっと地面に降ろしてくれた。呆気にとられて突っ立っているのもつかの間、はっと気がついて男の人にお礼をいう。
「あ、あの、助けてくれてありがとう。…えっと、薄茶色の髪の毛で、これくらいの背の男の人、見ませんでしたか?」
敬語とタメ語が混じってしまったのは許してほしいです。
ただでさえ、周囲の状況と自分の状況も整理できておらず、頭の中は混乱していて、とてもじゃないが些細なことに気がつける余裕もない。
少しの間、沈黙になるが、微かにこの人が首を横に振っていることに気づいた。
不安が胸を騒がす。
一体何処にいるのだろう。早く会って無事を確かめたいのに。
「あ、ありがとうございました。では私はこれで」
失礼します、と呟き、歩みを再開する。
早く会いたい。会って、無事を確かめたい。
果たして、彼も同じようにあの底なし沼に飲み込まれてしまったのかも分かっていないのに、気持ちだけが先へ先へと行く。
もうなんだか泣きそうだった。
不安ばかりが心の中で膨らみ、足を早く動かそうとする。だが、思うように足が素早く動かないばかりか、頭もぼうっとしてきた。
意識がなくなったのは一瞬で、気がついたときには美しい黒髪の人の腕の中に収まっていた。感謝よりも先に、一度ならず二度までも…と恥ずかしさがこみ上げ、頬が熱くなるのがわかった。気まずい。
「あ、えっと…す、すみません…」
目を泳がせ、俯いて尻すぼみになりながら、謝った。
失礼なのはわかっているが、とてもじゃないが相手の目を見ることは恥ずかしさからできなかった。
すると間いれず、聞き覚えのないが、やけに聞き心地のいい声音が響いてくる。
「…人間の体は脆い。…まだ動かないほうが身のためだ」
ぶっきらぼうな言い方だが、私のことを心配してくれているように聞こえた。それにとても不思議に思うが、この腕の中に居ると不安が薄れ、気が和らぐ気がする。
悪い人ではないのかもしれない。
「…ありがとうございます。」
余裕が出てきたためか、笑みを浮かべることもできた。
すると目の前の美人さんもつられてか、綺麗な銀色の目を見開き、無表情を崩したようにみえた。すぐ元の無表情に戻ってしまったが。
「ふ、あぁ…」
今度は欠伸が口から漏れ、目の前が霞んできた。目蓋が自然と下がる。
今までの疲れが一気に押し寄せてきたような強い眠気を感じる。もうどうでもよくなってしまった。人間、眠気には逆らえないと思う。
春ちゃんが、頭を優しく撫でてくれているような気がしながら、眠りに落ちた。
第1話 終わり
2013/1/17改訂