母子同室
私が総合病院で第一子を産んだのは、昼を少し過ぎた頃だった。
分娩そのものは大きな問題もなく終わった。長く続いた痛みのあと、胸の上に置かれた赤ちゃんを見た時には、やっと終わったという安堵と共に、本当にここから出てきたのかという妙な驚きがあった。
小さな鼻も、薄い髪も、握るというには頼りない指も、まだ自分の子供という実感より先に、壊してしまいそうなもとというのが、正直な感想だった。
産科病棟の四人部屋は、カーテンでそれぞれの場所を仕切られていた。母親用のベッドの横には透明な新生児用のコットが置かれ、隣からも、その向こうからも、ときおり赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
誰かが起きればカーテンの向こうで衣擦れの音がし、コットをベッドへ寄せ、授乳をしたり、おむつを替えたりしている気配がある。
自分のベッドの横にも同じコットがあった。泣けば抱き上げ、教えられた通りに乳を含ませ、うまくいかなければ助産師を呼んだ。
おむつの替え方も、抱き上げ方も、初めてすることばかりだったが、分からなければすぐ誰かに聞けた。
翌日、廊下でその女を見た。
最初は何も不思議には思わなかった。産科病棟では、赤ちゃんを抱いて歩いている母親など珍しくない。泣き止まないから廊下へ出てきたのか、寝かしつけているのだろうと思った。
女はゆっくり歩いていた。腕の中に新生児を抱き、ときどき顔を覗き込んでは、穏やかに笑っている。
私は一度、その脇を通り過ぎた。
少ししてまた廊下へ出た時、女は反対側から戻ってきた。同じように赤ちゃんを抱いていた。
そこで、何となく気になった。赤ちゃんが、動いていない。眠っているだけなら、それほど珍しくもない。それでも私は女とすれ違いながら、無意識に自分のコットにいる赤ちゃんを思い出した。
眠っていても、ときどき口元が動く。指先がわずかに曲がる。何かの拍子に眉間へ皺を寄せたり、急に両手を上げたりする。女の腕の中の赤ちゃんには、それがなかった。
女が抱き直した時も、小さな手は動かなかった。頭が傾くと、身体もぐらりとついていくだけだった。
もう一度見たのは昼過ぎだった。やはり女は廊下を歩いていた。腕の中の赤ちゃんは動いていなかった。
しかし、女は楽しそうだった。赤ちゃんへ何かを話しかけ、ときおり口元を緩めている。その様子だけを見れば、生まれたての子供を抱いている母親と何も変わらない。だから余計に、腕の中の静けさが目についた。
死んでいるのではないか。
何の根拠があるわけでもなかった。顔色がおかしいわけではない。傷もない。腐ってもいない。毛布に包まれた、ごく普通の新生児に見える。それでも、そう思った。
私はナースステーションの前まで行き、少し迷ってから、近くにいた看護師へ声をかけた。
「あの、変なこと聞いてもいいですか」
「どうしました?」
「赤ちゃん抱いて、ずっと廊下歩いてる人っていますよね」
看護師はすぐには答えず、病棟の方へ目を向けた。
「どんな方です?」
「髪が肩くらいで……白っぽいパジャマ着てて。赤ちゃんをずっと抱いてる人です」
そこまで説明してから、こんなことを言っていいのかと思った。
「その赤ちゃん、全然動いてないんです」
看護師の表情が少し変わった。
「動いてないって、どんな感じでした? 顔色が悪いとか、呼吸がおかしいとか?」
「いえ、顔色は普通だったと思います。でも、ずっとなんです。何回か廊下ですれ違ったんですけど、一回も手も足も動かなくて。抱き直されても、そのままで」
「お母さんの方は?」
「普通でした。むしろ、すごく幸せそうで。赤ちゃんに話しかけながら歩いてました」
看護師は私の肩越しに廊下を見た。
「今もいます?」
私も振り返ったが、さっきまで往復していた女の姿はなかった。
「……今はいないです」
「どこのお部屋の方か分かります?」
「分からないです」
看護師は少し考えたあと、もう一度尋ねた。
「何かトラブルがあったとか、助けを求めてたとかは?」
「いえ。そういうのは全然。ただ、赤ちゃんがあまりにも動かないから、気になって」
「そうですか」
看護師の緊張が少し緩んだ。
「新生児って、ぐっすり寝てる時は本当に動かないこともありますからね。ここは昼でも夜でも、寝かしつけるために赤ちゃん抱いて歩いてるお母さんも多いですし」
そこで看護師は、何か思い出したように付け加えた。
「そういえば前にも、似たようなことを言ってた方はいましたよ」
「え」
思わず声が出た。
「様子のおかしい赤ちゃんを抱いた人がいるって?」
「まあ、似たような話は前にも何度かありました。でも、それで大事になったことはないですよ。今のところは、あまり気にしなくても大丈夫だと思います」
「……そうなんですね」
私はもう一度、誰もいない廊下を見た。女はいなかった。それでも、なぜか納得した。
やはり、いるのだ。自分だけが見たわけではない。前にも見た人がいる。病院側も知っている。
しかし、誰かを驚かせたり、危害を加えたりするものではないから、特に何もしていない。
死んだ赤ちゃんを抱いた母親の幽霊。そう考えると、不気味ではあったが、同時に少しだけ腑に落ちた。
その日の夜、赤ちゃんはなかなか泣き止まなかった。乳を含ませても、しばらくするとまた泣く。
抱いて歩けば少し静かになるが、コットへ戻すとすぐに声を上げる。助産師にも一度見てもらった。
「今日は甘えたい日なのかもねえ」
そんなふうに言われ、抱き方を少し変えてもらうと、確かにしばらくは落ち着いた。
けれど、深夜を過ぎる頃にはまた泣き始めた。同室の母親たちも眠っている。もちろん赤ちゃんの泣き声はお互い様なのだろうが、それでも申し訳なくなり、私は赤ちゃんを抱いて部屋を出た。
談話スペースには、すでに二組の母子がいた。一人は窓際でミルクを飲ませている。もう一人を見て、私は足を止めた。あの女だった。
女は動かない赤ちゃんを抱いてソファに座っていた。私を見つけると、ごく普通に笑った。
「寝ない?」
一瞬、自分に言われたのだと分からなかった。
「え?」
「赤ちゃん。今日は寝ない日?」
私は腕の中を見た。
「全然駄目です。さっきまで寝たと思ったのに」
「あるよね。何やっても駄目な日」
女は笑った。昼間に見た時と変わらない、穏やかな顔だった。
私は少し離れた椅子へ座った。
怖くないわけではない。それでも看護師の言葉を思い出す。大事になったことはないから、気にしなくて大丈夫。女の方から危害を加える様子はなかった。
「おっぱい飲んでも泣くし、おむつも替えたんですけど」
「暑いとか寒いとかでも泣くし、もう分からないよね。自分でも何で泣いてるか分かってないのかも」
普通だった。あまりにも普通の会話だった。女は自分の腕の中を見た。
「うちは逆。よく眠るの」
「そうなんですか」
「ほんと、ずっと寝てる。あんまり飲まないから、あとで相談しなくちゃね」
女はそう言って、赤ちゃんの頬へ顔を寄せた。
その赤ちゃんは動かなかった。近くで見ると、昼間以上にそれが分かった。女が話している間も、指一本動かない。唇も動かず、母親の声にも反応しない。女が抱き直すように腕を少し持ち上げても、身体は力なく、ぶらんとしたままだった。
私は視線を逸らした。可哀想だと思った。
この人は、分かっていないのだ。自分の赤ちゃんが死んでいることを知らない。あるいは、認められないままここに残っている。今も授乳のことを心配し、眠りすぎていると思い、あとで助産師へ相談しようとしている。
「あなたの子、元気ね」
女が言った。私の赤ちゃんは、まだ小さな声でぐずっていた。
「元気すぎて困ってます」
「いいじゃない。可愛い」
女は本当に愛おしそうに私の腕の中を見た。その視線に嫌なものはなかった。
しばらくすると、窓際にいたもう一人の母親がミルクを飲ませ終え、赤ちゃんをコットへ戻して立ち上がった。
「おやすみなさい」
ひどく疲れた様子で軽く会釈すると、足早に談話スペースを出ていった。
二人はもう少し話した。出産後は座っているだけでも身体がしんどいこと。眠れる時に眠れと言われても、赤ちゃんが静かすぎると今度は気になって目が覚めること。
「分かる」
女は何度も頷いた。
「静かだと、息してるかなって見るよね」
「見ます。さっきまで寝てたのに、急に不安になって」
「そうそう。泣いたら泣いたで大変なのにね」
女は笑った。
「うちなんてよく寝るから、何回も見ちゃう」
私は女の腕の中を見なかった。胸の奥が、少しだけ痛んだ。
産後二日目にも、女を見た。昼間、談話スペースへ行く途中だった。
「あ、こんにちは」
昨日とは違い、私の方から声をかけた。女は嬉しそうに笑った。
「今日は寝た?」
「少しだけ」
「良かったね」
その日、女は自分の赤ちゃんについて「昨日より少し飲めた気がする」と言った。私は何も言えなかった。
赤ちゃんは昨日と同じだった。小さな手は毛布の上にあり、その指先は一度も動かなかった。
それでも、女と話すこと自体は嫌ではなかった。むしろ楽しかった。周囲の母親たちとは、挨拶をしたり、授乳の時に少し話したりする程度だった。皆、自分の赤ちゃんのことで精一杯だ。
だが、女は違った。私が眠れなかったと言えば聞いてくれる。乳首が痛いと言えば「分かる」と笑う。赤ちゃんが少し吐き戻しただけで心配になったと話しても、大袈裟だとは言わない。
「初めてだもん。全部怖いよね」
そう言ってくれた。
私は、女が幽霊であることを忘れそうになる時があった。忘れられないのは、腕の中の赤ちゃんだけだった。どれだけ近くで見ても、一度も動かなかった。
産後三日目の夜、私は一緒に談話スペースへ向かった。もう深夜だったが、少し女と話したくなったのだ。
ほんの少しだけ話して、眠くなったら病室へ戻ればいい。女はいつもの場所にいた。私を見ると、すぐに笑った。
「今日もあなたの赤ちゃん、可愛いね」
「ありがとうございます」
「少し寝られた?」
「今日はやっと。昨日よりはだいぶ」
「よかったね」
女はいつものように優しく頷いた。
それから、ふいに涙が出た。自分でも何に泣いているのか、うまく分からなかった。眠れていないことも、まだ身体のあちこちが痛むことも、赤ちゃんが泣くたびにこれで合っているのか不安になることも、ちゃんと母親になれているのか自信が持てないことも、全部が少しずつ積もっていたのだと思う。
「私、こんなんで大丈夫なんですかね」
女は笑わなかった。
「大丈夫だよ」
女の前では、それを無理に平気なふりをしなくてもいいような気がした。私はしばらく俯いていた。女の腕の中では、赤ちゃんが静かに抱かれていた。
翌朝、看護師に声をかけられた。
「昨日、眠れました?」
「はい。まあ、ちょっとは」
「夜、談話スペースにいましたよね」
「ああ、はい」
「最近よく行ってます?」
「たまにです」
看護師は私の顔をしばらく見ていた。
「疲れてないですか?」
「大丈夫ですよ」
私は笑った。気にかけてくれているのだと思った。
その日も女と会った。女は私の赤ちゃんを覗き込み、
「今日も可愛いね」と言った。私は素直に嬉しかった。
「そっちのお子さんは?」
「今日はずっと寝てる」
「いつもよく寝ますね」
「ほんと。親孝行な子」
女は笑った。私も笑った。
その時にはもう、初日にこの女を怖いと思ったこと自体が申し訳なく感じられていた。この人自身は、ただ子供を愛している母親なのだ。
その頃から、更に看護師から声をかけられる回数が増えていた。
「ちゃんと食べてます?」
「夜、眠れてますか?」
「談話スペースにいること多いけど、しんどくない?」
私はそのたびに大丈夫だと答えた。
確かに眠れてはいない。でも、新生児がいる母親ならそんなものではないのか。女も同じことを言っていた。
「みんな寝不足だよ」
女は自分の赤ちゃんを抱いたまま、笑った。
「この時期だけだもんね」
私はその言葉を聞いて、女の赤ちゃんを見た。この時期だけ。この子には、この先がない。そう思うと急に胸が詰まった。
「どうしたの?」
女に聞かれ、私は首を振った。
「なんでもないです」
女はそれ以上聞かなかった。ただ、私の赤ちゃんを見て、「いいなあ。ほんとに可愛い」と笑った。
産後五日目の朝、私は退院の話をされるのだと思っていた。だから医師と看護師が一緒に来た時も、特に不思議には思わなかった。ところが、話は違った。
「もう少し入院してもらおうと思っています」
私はすぐにコットを見た。
「赤ちゃん、何かありますか?」
医師は首を振った。
「赤ちゃんではなくて、お母さんの方です」
「私?」
「少し心配なことがあって。念のため、もう少し様子を見たいんです」
私は意味が分からなかった。
「でも、私、普通ですけど」
「今、精神科の先生にも相談しています」
その言葉を聞いて、私は黙った。
「なんでですか」
医師は落ち着いた声で説明し始めた。眠れていないこと。夜間の行動。会話の様子。私には、そのどれにも覚えがあった。しかし、それがなぜ精神科につながるのか分からなかった。
「私、ちゃんと赤ちゃんの世話してますよ。おっぱいもあげてるし、ミルクもあげてるし、おむつだって替えてます」
「それは分かっています」
「じゃあ何が駄目なんですか」
看護師が静かに言った。
「何度か、赤ちゃんを病室に置いたまま、夜中に談話スペースへ行かれてましたよね」
「え?」
思わず聞き返した。
「置いてなんてないです。連れて行ってました」
「いいえ。少なくとも、何度かはお部屋のコットに残ったままでした」
何を言われているのか、すぐには分からなかった。あの夜も、赤ちゃんと一緒に談話スペースへ行ったはずだった。
女に「今日もあなたの赤ちゃん、可愛いね」と言われた。私はそれに笑って答えた。確かにそこにいた。そう思っていた。けれど、思い返そうとすると、赤ちゃんの顔が出てこない。泣いていたか。眠っていたか。コットを押していたか。抱いていたか。そこだけが、妙に曖昧だった。
「そこで、長い時間お一人で話されていたのも覚えてますか?」
私は看護師を見た。
「一人じゃないです」
声が少し大きくなった。
「あの人と話してたんです」
看護師の表情は変わらなかった。
「あの人って?」
「前に言ったじゃないですか。赤ちゃん抱いて歩いてる女の人」
そこまで言って、急に自分の言葉がおかしく聞こえた。
あの女は、最初から普通の入院患者ではなかった。死んだ赤ちゃんを抱いて歩く幽霊だと思っていた。けれど、何日も話しているうちに、その感覚が薄れていた。
女は昼にも夜にもいて、私の話を聞き、赤ちゃんを可愛いと言ってくれた。看護師も以前から似た話を聞いていると言っていた。だからいつの間にか、病院の人たちもあの女のことを知っていて、そこにいることを認めているのだと思うようになっていた。
幽霊なのに。そうだ。最初から、幽霊だと思っていたのだ。では、私は何日も幽霊と話していたことになる。それをどうして、あんなに普通のこととして受け入れていたのだろう。
胸の奥が、ゆっくり冷えていった。さっきまで確かだったものが、思い返すたびに形を変えていくようだった。
「最初に聞いた時、前にも見た人がいるって言いましたよね」
「似たようなことを言った方がいた、とは言いました」
「同じでしょう」
「違います」
看護師はゆっくり首を振った。
「その人が実際にいるとは、私は言ってませんよ」
私は何も言えなかった。
「産科ですから、赤ちゃんを抱いて歩いてるお母さんは昼でも夜でもいます。それに、廊下ですれ違った赤ちゃんがあまり動かないとか、元気がないように見えるって心配されるお母さんも珍しくないんです」
看護師は、私の反応を確かめるように少し間を置いた。
「前にも、廊下で抱かれている赤ちゃんの様子がおかしいって言われたことは何度かありました。でも、その時はちゃんとそれぞれのお母さんと赤ちゃんを確認して、みんな問題ありませんでした」
「じゃあ……」
「何人もの人がその人を見たって意味じゃないんです。私も、疲れていたり、遠目だったりして、そう見えたのかなと思っていました」
それを聞いて、今度こそ言葉が出なかった私はずっと、病院の人たちもあの女を知っているのだと思っていた。前にも見た人がいる。病院も把握している。それでも何もしてこないから、害のない幽霊なのだと。けれど、看護師が言っていたのは最初から、まるで違う話だった。
「でも」
私は言った。
「私、ずっと話してました」
「だから心配してるんです」
看護師の声は優しかった。それがかえって怖かった。
夜中の談話スペース。女と向かい合って話した。確かにいた。そう思うのに、病院の人間は誰も見ていない。
私は初日の夜を思い返した。談話スペースには、もう一組の母子がいた。けれど、あの母親は女と一度でも話しただろうか。見たことすらあっただろうか。分からなかった。何も思い出せなかった。
「私がおかしいってことですか」
医師は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「産後は、身体も精神状態も大きく変化します。今は安全のために、専門の先生と一緒に診た方がいいと考えています」
「赤ちゃんは?」
「赤ちゃんは、しばらくこちらでお預かりします。精神科の先生にも相談していますし、ご家族にも連絡して、今後のことを一緒に考えていく予定です」
「……会えないってことですか」
「少なくとも、今は少し離れて過ごしてもらいます」
その言葉だけが、はっきり耳に残った。
「嫌です」
私はコットへ手を伸ばした。
「私、何もしてないです。この子に何もしてない。ちゃんと世話してます」
「分かっています」
「じゃあ、じゃあ赤ちゃんと離れる必要ないでしょう」
「今だけです」
私は何度も首を振った。
違う。自分は普通だ。赤ちゃんが泣けば抱き上げた。乳もあげた。おむつだって替えた。眠っている時には、生きているか心配で何度も覗き込んだ。可愛くて仕方がない。この上なく大事で、愛している。今だって愛している。それなのに、どうして私がおかしいことになるのか。どうしてこの子から離されなければならないのか。何を間違えたのかも分からないまま、全部を取り上げられようとしているようで、息が詰まった。
その日のうちに、産科から精神科へ移ることになった。荷物は後で運ぶと言われ、赤ちゃんとはそこで一度離された。私は何度も振り返った。もう、自分が何を見ているのか分からなかった。女は本当にいなかったのかもしれない。死んだ赤ちゃんも。あの会話も。全部、自分が作ったものだったのかもしれない。そう考えると、怖かった。
病棟を出ようとした時、泣き声が聞こえた。
新生児の泣き声なんて、どれもよく似ている。それでも、なぜか分かった。あれは自分の赤ちゃんの声だと、確信があった。私は足を止めた。
廊下の先に、女が立っていた。いつもの白っぽいパジャマ。いつもの穏やかな顔。女は赤ちゃんを抱いていた。けれど、これまで何日も抱いていた、微動だにしない子ではなかった。腕の中の赤ちゃんは顔を真っ赤にして泣き、両手を動かし、細い足を毛布の中でばたつかせている。
自分の子だった。
「待って」
女は泣いている赤ちゃんを覗き込み、幸せそうに笑っていた。
「待って、それ、私の」
私が歩き出そうとすると、付き添っていた看護師が腕を支えた。
「どうしました?」
「あそこ」
私は指をさした。
「あの人です。あの人が、私の赤ちゃんを」
看護師は私が指した先を見た。けれど、その視線は揺れたまま、どこを見ればいいのか分からないような顔をした。
「行きましょう」
看護師の声に続いて、廊下の奥から別の看護師が二人駆け寄ってきた。何かを確認するように短く言葉を交わすと、私の左右に回り込み、腕を取ろうとする。
「ちょっと、待って」
肩を掴まれた瞬間、私は反射的にその手を振り払った。もう一人が前に回り込み、逃げ道を塞ぐ。
「いるでしょう!」
私の声に、赤ちゃんの泣き声が重なった。
女は私を見た。穏やかに笑っていた。ただ、自分の腕の中で元気に泣く赤ちゃんを愛おしそうに抱き直し、いつものような優しい声で言った。
「この子、よく泣く子なのね」




