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追放同然に療養へ出され図案と工房の椅子を奪われた妹は、連名の注文札で受賞名義を取り戻します

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/28

痛い。胸ではない、春市の大通りいっぱいに垂れた受賞幕の、ずいぶん丈夫そうな余白が痛い。


 深い青に銀糸の蔓草、朝露を模した硝子玉。夜会服に仕立てれば、裾をひるがえすたび星屑を蹴散らす令嬢ができあがる。性格はもちろん高慢、求婚者は七人、階段の最上段で全員を振る。そんな豪勢な余白の真ん中に、金糸でひとつだけ名があった。


 セシル・ローデル。


 妹のエリン・ローデルなら、幕の裏側にも端切れにも、糸くずほどにもいない。見事な名消し。縫い代まできれいに始末してある。


 私は外套の内ポケットを押さえた。療養先まで持っていった連名の注文札が、紙らしい頼りなさで指に触れる。ローデル姉妹工房、図案打ち合わせ、セシル・ローデル、エリン・ローデル。二人の名が並んでいるのに、どちらが何をしたかはどこにも書かれていない、仲良し姉妹という名の底なし沼である。


 出立の朝、お姉様は私の襟を直してくれた。曲がってもいない襟を三度撫で、やさしい声で針を刺した。


「家族でしょう」


 恥を外へ持ち出さないで、と続いた。私が療養へ出される前から、工房の帳場には私の椅子がなかった。共同作業台には二人分の傷があり、看板には二人分の名があったから、椅子くらいは我慢できると思っていた。


 まあ、その看板も今は私を我慢しているらしい。通りの向こう、春色の布花に囲まれた工房の展示棚には、『セシル・ローデル工房』と新しい文字が光っていた。


 帰ってきた妹を迎えるには、たいへん隙間の少ない仕立てである。


 祝宴の鐘が一度鳴った。私は受賞幕の下をくぐり、まず工房へ向かった。入るか帰るかは、中を見てから迷えばいい。迷い事も採寸してから。図案師の基本だ。


    *    *    *


 展示棚の上には、見覚えのある衣装が五着並んでいた。見覚えどころではない。袖の曲線も、腰紐を通す位置も、私の頭の中から出ていった子たちである。


 葡萄酒色の乗馬服を見れば、馬上で帽子を押さえる婦人が浮かぶ。あの方は左肩を痛めていたから、右手だけで留められる前打ちにした。薄緑の舞踏服なら、踊りより菓子卓へ向かう少女が浮かぶ。隠しポケットは砂糖菓子三つ分。四つ入れると腰が片方だけ膨らむので、恋より先に食い意地が露見する。


 説明札には、どれも『図案・セシル』とあった。


 お姉様の虚言は表地だけなら上等だった。けれど裏返すと縫い目が走り回り、糸端がこちらへ手を振っている。こんにちは、エリン。私たちを引っ張ってごらん。全部ほどけるよ。


「お嬢さん」


 染め桶のそばから、オスカーが出てきた。昔より背が丸くなったのに、私を見る目だけは高い棚へ逃げた。


「戻られたんで」


「ええ。今しがた、幕から私がきれいに切り取られているのを拝見しました。お姉様は鋏の腕を上げましたね」


「今日は祝いの日だ」


「誰の?」


 オスカーは答えず、作業棚に置かれていた木箱へ手を伸ばした。蓋の角に青い糸が絡んでいる。私の針箱だ。親指で何度も押した留め金のへこみまで見えたのに、彼は布をかぶせて奥へ滑らせた。


 お嬢さん。エリンでも図案師でもなく、お嬢さん。名前を呼ばない仕事は、思ったより簡単らしい。


 奥で裁ち鋏が止まり、染め職人が俯いた。縫い手も糸巻きを数え始めた。一、二、三、床。一、二、三、床。誰もこちらへ来ない代わりに、誰も私へ帰れとも言わなかった。


「この乗馬服の留め具について伺いたい」


 背後から男の声がした。振り向くと、灰青色の礼装を着た若い方が乗馬服の前に立っている。華美ではないのに肩から腰までの線がきれいで、仕立てた職人を連れて帰って褒めたい。ご本人もついでに。いえ、服を先に見るのは図案師の礼儀です。人の顔を見忘れるのは欠点です。


「見回りの際、片手が塞がっていても開けられる留め具です。私の外套にも似た提案がありました。これを考えた方は、どなたでしょう」


「まあ、アルノー様。もう祝宴へいらしたものと」


 お姉様が帳場から現れた。薄金の祝宴着は受賞幕と同じ蔓草模様で、笑みまで刺繍したように整っている。私の方へは目を向けず、アルノー様と乗馬服の間へ、するりと体を差し入れた。


「そちらは私がまとめた図案です。細かな仕上げは職人たちに任せましたけれど」


「発案の際、着る者の動作まで書いた紙が添えられていたそうですね」


「ええ、工房では皆に、そのように考えるよう指導しておりますの」


「誰が書いたのかを尋ねています」


「昔の控えでございましょう? まずは祝宴へ。受賞作も壇上でご覧いただけますわ」


 お姉様は職人たちを振り返った。笑顔のまま、声だけが一段低くなる。


「あなたたちは片づけを。呼ぶまで宴席へ上がらなくていいわ。いいわね、オスカー。展示の説明は私がします。私が」


 言葉の裾を踏む前に、もう一枚重ねる。お姉様の説明には襞が多すぎる。三歩も歩けば、自分で自分の裾を踏む仕立てです。


 オスカーは布の下へ針箱を押し込み、頷いた。


 アルノー様は私を見た。目が合ったので、ようやくお顔も拝見する。服に負けていない。よかった。たいへんよかった。こんな場面で何を採点しているの、私。


「あなたは?」


 私が口を開くより早く、お姉様が答えた。


「療養先から戻ったばかりの妹です。まだ人の多い場に慣れておりませんの」


「エリン・ローデルです」


 自分の名を言うと、喉の奥に引っかかっていた糸が一本抜けた。


 お姉様のまつ毛が動いた。ほんの一瞬だけ、受賞幕より白い顔になったが、次の笑みはすぐ縫い付けられた。


「エリン、部屋で休んでいなさい。今日は大切なお客様が多いの。話はあとで、いくらでも聞くから」


「聞くのは、私の話でしょうか。それとも私がいつ帰るかでしょうか」


「体調が悪いときは、考えまで悪い方へ傾くものよ」


 私に向ける語尾は、昔のままだった。柔らかい布で口を塞ぎ、その上から結び目を増やしていく。職人たちは反論しない。お姉様はそれを承諾として着る。


 祝宴の鐘が二度目を告げた。


「評議長を待たせられませんわ。アルノー様、どうぞ」


 お姉様は彼へ向き直ると、声に敬称と砂糖を足した。アルノー様は乗馬服の説明札を一度見てから、私へ小さく会釈した。


「祝宴で、改めて伺います」


 逃げ道を塞ぐ言葉なのに、私には扉を開ける音に聞こえた。


    *    *    *


 春市の祝宴会場では、職人の席が壇上からずいぶん遠くに置かれていた。近づくと刺繍の粗が見えるからだろうか。いいえ、布ではなく話の方の。


 お姉様は壇上中央、受賞作の祝賀外套の隣に立っていた。銀糸で雨の筋を描き、その下へ濃淡の違う青を重ねた外套。夜明け前の見回りでも騎手の脚へ絡まず、濡れた手袋のまま留め具を外せる。私が描き、オスカーたちが形にしたものだ。


 けれど今、その外套はお姉様の肩へ掛けられている。似合う。悔しいけれど似合う。人の功績は、ときどき持ち主より盗んだ人に似合うよう仕立てられてしまう。


「療養へ出た妹に代わり、私は工房を守ってまいりました」


 お姉様の声が会場へ広がった。来客たちは壇上を見上げ、職人たちは遠い席で膝に手を置いている。


「商談だけでなく、図案から裁断、仕上げまで。慣れない針仕事で指を傷めた夜もございました。それでも注文主の皆様との約束を違えぬよう、ひと針ずつ——」


 ほう。ひと針ずつ。


 お姉様が針へ糸を通そうとして、糸の方を叱りつけた午後を知っている。針穴が小さすぎると言い張り、最後には私へ投げた。針穴に商才は通らないのである。


 笑ってしまいそうだった。笑えば客席の変わり者で終わる。私は外套の内側で注文札を握り、壇上へ続く通路へ足を出した。


「その祝賀外套について、質問があります」


 声は思ったより響かなかった。だから、もう一歩進んだ。


 お姉様の祝賀の笑みが止まった。口角だけが置き去りになり、目が私を捉える。


「エリィ」


 昔、熱を出した私へ水を運んでくれたときの呼び方だった。一瞬で消えた。


「……エリン。なぜここへ。皆様、失礼いたしました。療養明けで気持ちが不安定な妹なのです」


 お姉様は壇を下りかけ、途中でマルタ評議長の視線に気づいた。足を戻し、裾を整える。


「お身内のお話でしたら、祝宴のあとに」


「受賞作の話です」


 マルタは声を張らなかった。それでも会場の椅子が一斉におとなしくなる。


「エリン・ローデル。質問を続けなさい」


「ありがとうございます」


 お姉様は私の前へ降りてきた。客席からは姉が病み上がりの妹を気遣う距離に見える。指だけが私の肘へ食い込んだ。


「帰りなさい。今なら、誰もあなたを責めないわ」


「もう責めているではありませんか」


「工房を混乱させたいの? 私がどれだけ守ってきたと思っているの。あなたは途中でいなくなった。仕事を捨てたのよ、エリン。捨てたの」


 私だけを相手にすると、お姉様の言葉は針目が細かくなる。返事を挟む隙間まで縫い潰す。


「セシル・ローデル」


 マルタが呼ぶと、お姉様の指が離れた。


「はい、評議長。お見苦しいところを申し訳ございません。共同工房の混乱を整理するための処置が、妹にはまだ受け入れ難いようでして」


「では、整理された記録を見せてもらいましょう」


「もちろんでございます。工房の者に用意させますわ」


 お姉様は遠い職人席へ視線を投げた。答えまで彼らに縫わせる気だ。


 私は注文札を出し、マルタへ差し出した。角が柔らかくなるほど握ってきた紙には、姉妹二人の名がある。


「この受賞作の注文札です。療養へ出る前、私も打ち合わせに参加しました」


 アルノー様が壇の脇から紙面を確かめる。お姉様は一瞬だけ唇を結び、すぐに肩の力を抜いた。


「ご覧の通り共同経営の札ですわ。妹の名があることと、図案を描いたことは別でしょう? 工房名義で受けた注文に、経営者二人の名を置くのは当然です」


「途中でいなくなった者は仕事を捨てた、と先ほど言いましたね」


「ええ。完成させた者の名を出すのも当然ですわ」


「では、共同経営者としての私の取り分は?」


「療養費と相殺しました。家の中で決めたことです」


「共同経営の名は使い、取り分と署名だけ外したのですね」


「エリン、言葉を選びなさい」


 お姉様の声がまた強くなった。けれどマルタへ顔を向けるたび、敬称が一つずつ増える。布を足せば礼装になると思っているらしい。残念、下着が透けています。


「注文札だけでは、制作した者の証明にはなりません」


 マルタの断定は正しかった。


 紙が急に薄くなった。これ一枚を握って帰れば、名が戻るような気がしていたのだ。そんな都合のよい布はない。私は注文札を受け取り、折り目に沿って畳んだ。


 遠い席の職人たちは動かない。オスカーもこちらを見ない。私がもう一度ポケットへしまえば、祝宴は元の形へ戻る。お姉様は笑い、職人たちは働き、私は家の恥を持ち帰れる。


 指先がポケットの口へ触れた。


「あなたまで家を壊すの」


 お姉様の声が、私だけに届く細さになった。幼いころ、同じ作業台で布を広げた手が脳裏に浮かぶ。私が図案を間違えると、お姉様は紙を丸めず、もう一度描けばいいと言った。その手が今、私の名を丸めて捨てようとしている。


 私は注文札をしまわなかった。


「ひとつ、教えてください」


 私はお姉様の目だけを見た。


「針を持てないお姉様が、どの指でこの返し縫いを仕上げたのですか」


 祝賀外套の裾を指した。雨粒の刺繍の裏、表からは見えない場所に、細かな返し縫いが連なっている。


 お姉様の口が開いた。


「それは、職人が——」


 自分で全工程を完成させたという祝辞が、裾へ絡んだ。


「細部を任せたと言ったでしょう。図案は私が」


「では、この切り替え線を二度変更した理由は?」


「オスカーが覚えていますわ。オスカー、説明なさい」


 声が壇上から遠い席へ飛んだ。命令だけは迷わない。


 オスカーが立った。


    *    *    *


 オスカーはすぐには壇へ来なかった。会場の外へ出て、ほどなく木箱を抱えて戻ってきた。


 青い糸の絡んだ、私の針箱だった。


 彼はお姉様の前を通り過ぎた。壇上にも、マルタの机にも置かず、まっすぐ私のところまで来る。箱を差し出す手には、針傷が幾つも重なっていた。


「預かったままだった」


 私は注文札を外套のポケットへ戻し、両手で受け取った。留め金のへこみが親指に合う。蓋を開けると、針山の横に、短くなった青鉛筆まで残っていた。


「オスカー」


 お姉様が低く呼んだ。


 彼は振り返らない。


「この人が描いて、俺たちが縫った」


 短い一言だった。私が何か言えば、その一言までほどけそうで、針箱を抱えたまま息をした。


「具体的に」


 マルタが促した。


「雨筋の銀糸は、初めは裾まで通す図案だった。エリン様が切った。泥が跳ねりゃ、光って脚の動きを邪魔するってな」


 染め職人が席を立った。隣で裁ち手も立つ。


「夜明け前でも騎手の位置が分かるよう、肩だけ一段明るく染めろと指示を受けました。染め見本に、井戸端と厩の二か所で色を確かめるよう書いてありました」


「裾の左右を変えたのもエリン様です。馬から降りる側へ布が溜まらないように。紙の端に、外套を着た人が鞍から転げる絵まで描いてありました」


 転げる絵。描いた。たいへん躍動感のある転び方だった。隅には『注文主を落馬させないこと』と三重線も引いた。アルノー様本人の注文だと知っていたら、もう少し凛々しく転ばせたのに。


「その紙を見せてもらえますか」


 アルノー様が尋ねた。


「セシル様に処分するよう言われました」


 染め職人の声に、お姉様の顔が動く。


「古い走り書きを整理させただけです。工房には不要な紙が溜まりますもの。正式な図案は私が管理して——」


「俺が持ってる」


 オスカーが懐から四つ折りの紙を出した。開かれた紙の端に、脚を跳ね上げて落ちる外套姿がいる。ああ、私の絵。再会したくなかった種類の我が子である。


 アルノー様は紙を受け取り、絵を長く見た。笑わなかった。笑ってくださってもよかったのに。むしろ今は、笑ってくれない方が恥ずかしい。


「以前、同じ筆跡の提案を受け取りました」


 彼は私へ紙を向けた。


「冬の見回り用の外套です。右手で手綱を持ったまま、左肘で開けられる地図入れを。休憩を忘れるから、内側に携帯食を入れる袋もつけろとありました」


 私は目を逸らしたくなった。あの注文主、食事を抜いて巡回する困った方だとオスカーから聞き、勝手に干し果物専用袋を追加したのである。まさか領主様だったとは。領主に食事を命令する図案師。療養前の私は元気が余りすぎていた。


「袋には、食べ終えるまで閉じられない留め具までついていました」


「閉じられると忘れますから」


 つい答えると、アルノー様の目元がわずかに緩んだ。


「おかげで忘れませんでした」


 お姉様は祝賀外套の襟を押さえた。指には針傷が一つもない。傷が勲章だとは思わないけれど、ない傷を祝辞に縫い付けるのは別の話だ。


「職人たちが妹を庇っているだけです。療養から戻ったばかりで、居場所がないのを哀れんで。皆、私に雇われている身なのに、何をしているか分かっているの?」


 最後の問いだけ、壇上ではなく職人へ向いた。返事を求める声ではない。明日からの席を数えさせる声だ。


 オスカーが私の右側へ立った。


 染め職人が一歩進み、左側へ来た。裁ち手も、縫い手も、遠い席を離れる。誰もお姉様を罵らず、誰も長い弁明をしなかった。ただ一人ずつ、私の側へ並び直した。


 人が立つ音は、小さい。けれど消された名の周りに場所ができていく。


 お姉様の後ろには、受賞作だけが残った。


 私は針箱を抱え直した。よし。今だけは胸を張らせていただこう。私の図案は、紙を捨てても、人の手に残っていたのだ。


「アルノー様、発注者として確認します」


 マルタが言った。


「その提案を含め、あなたが評価したのは誰の仕事ですか」


「エリン・ローデルの仕事です」


 名前が会場の中央へ置かれた。借り物でも、家族の添え物でもない。私一人の名として。


    *    *    *


 マルタは壇上へ上がると、お姉様の肩から祝賀外套を外した。留め具を確かめ、受賞布の上へ静かに置く。


「春市の受賞は、図案と制作を合わせて裁定したものです。図案者を偽った名義のまま、祝うことはできません」


「お待ちください、評議長。私は商談をまとめ、材料を揃え、納期を守りました。それまで否定なさるのですか」


「否定しません。あなたの仕事はあなたのものです」


 お姉様の肩がわずかに下がった。


「同じように、エリンの仕事はエリンのものです」


 マルタはお姉様の前に広げられていた受賞布を、端から畳み始めた。金糸の『セシル・ローデル』が折り目へ入り、半分になり、もう一度折られて見えなくなる。


「祝う名を、間違えました」


 布はお姉様へ返されなかった。マルタの補佐が抱え、壇を下りる。


「受賞名義をエリン・ローデルと制作職人たちへ訂正します。セシル・ローデル単独名義の看板は、本日中に外してください。春市での注文受付も、工房の権限と取り分を正しく戻すまで停止します」


「そんな、急に止められては工房が」


「共同工房なのでしょう。共同経営者を抜きに、続ける方が不自然です」


 お姉様はアルノー様を見た。


「フェルゼン様、どうかご判断を。私は工房を守るために必要な整理をしただけなのです。妹は長く不在で、現場を知らず——」


「私が求めていた作り手は見つかりました」


 彼はそれだけ答え、私の側へ下りた。


 お姉様の口元から、ようやく笑みが消えた。刺繍糸を抜いた跡のように、そこだけ何もない。


「エリン」


 今度は命令が続かなかった。壇を下り、私の袖を掴もうとして、針箱を抱く腕に阻まれる。


「私には工房を動かす責任があるの。あなたは図案だけ描いていればよかった。面倒な客も、支払いの遅れも、全部私が引き受けたでしょう。少しくらい、私の名で受け取っても——」


「少しくらい?」


「言葉の綾よ。取り分は戻すわ。看板にも名を足す。だから評議長へ、姉妹で解決すると言って。今ここで」


 私しか相手にいないときの声が戻りかけ、マルタの視線で痩せた。お姉様は袖を掴む代わりに、両手を胸の前で重ねた。


「家族でしょう」


 お姉様の両手は、胸の前でまだ重なっていた。


「だから、私の名まであなたのものにはしません」


 お姉様の唇が震えたが、謝罪は出てこなかった。出てきたとしても、私の署名欄にはもう入らない。


 私はマルタへ向き直った。


「工房の権限と取り分を確認します。お姉様が担当した商談と運営の報酬まで、私へ移す必要はありません」


「当然です」


「私の図案と受賞、未払いの取り分は返していただきます」


「そのように」


 マルタの補佐が、畳んだ受賞布を私へ渡した。重くはない。なのに抱えた腕がうまく曲がらず、針箱と布の間で指が迷子になった。


 ざまあみなさい、と胸の中だけで言った。上品さには裏地が必要だが、私の裏地はいま、たいへん柄が悪い。


    *    *    *


 春市が終わるころ、工房の看板には『ローデル姉妹工房』の文字が戻った。その下には担当と取り分が書き添えられた。図案師エリン・ローデル。商務セシル・ローデル。姉妹という一枚布に戻したのではなく、縫い合わせた場所を表へ出した形だ。


 お姉様は商談記録の確認へ呼ばれ、私は制作室へ戻った。生活をどうするのかも、どこで仕事を続けるのかも、彼女が決める。私の机の引き出しに、その面倒までしまう場所はない。


 共同作業台には、お姉様が商談の件数を数えるため刻んだ印と、私が袖丈を測るたびつけた線が残っていた。お姉様の印だけを削れば、復讐らしくて格好はいい。けれど天板は凸凹になり、紙が破れる。図案師としては断固反対。復讐より作業効率、なんと勤勉な私。


 私は鉋をかけた。姉の印も、私の線も、同じ薄さで木屑になった。過去を選んで消せないなら、天板ごと均せばいい。


 夕方、削り粉だらけの戸口にアルノー様が現れた。従者も連れず、新しい注文札と椅子を一脚ずつ抱えている。領主様の使い方として正しいかは知らないが、椅子の運び方はなかなか上手だった。


「お手伝いを呼びましょうか」


「この程度も運べないと思われると、外套にまた注意書きを縫われそうですので」


 思ったより根に持っていらっしゃる。干し果物袋は善意です。


 彼は私の椅子の横へ、新しい椅子を置いた。背もたれの高さも座面の高さも同じで、壇上と職人席のような段差はない。


「新しい注文です。領内の巡回服を一式、お願いしたい」


「食事を忘れない服でしょうか」


「そこは前回ので十分です。今度は、子どもが見ても怖がらない礼装を。祭りで話しかけやすく、馬へ乗っても邪魔にならないものを希望します」


 もう見える。深緑の上着に、襟元だけ明るい麦色。子どもの目線では領主の顔より留め具が近いから、角を丸くする。隠しポケットには飴。三つでは足りない。領主様が一つ食べる可能性も考えて六つ。


「なぜ笑っているのですか」


「ポケットへ何個、飴を入れるか考えていました」


「私の分も入りますか」


「働き次第です」


「では、励みます」


 アルノー様は注文札を作業台へ置いた。発注者欄には彼の名があり、図案師欄は空いている。共同という便利な霧は、どこにもなかった。


 私は針箱から青鉛筆を取り出した。


「もう一つ、お願いがあります」


「外套の次に礼装、その次は何でしょう。寝台の天蓋まで服に見えてくるので、先に申し上げますが私は家具職人ではありません」


「仕事の話でもあり、私個人の話でもあります」


 軽口が喉で止まった。


 アルノー様は椅子の背へ手を置いた。私を見下ろしたままでは言わず、椅子を引いて座る。立っている私より低くなったので、慌てて私も自分の椅子へ腰掛けた。


 同じ高さで目が合った。


「あなたの図案を、これからも私に頼ませてください。着る者がどこで困り、何を忘れ、誰へ会いに行くかまで考える仕事を、私は必要としています」


「はい」


「それから、急いで答えをいただくつもりはありませんが」


 アルノー様は注文札の端を指で押さえた。仕事の紙が逃げないようにする、ごく普通の仕草だった。


「工房の上ではなく、あなたの隣に席をいただけませんか」


「それは、今後も注文をくださるという意味で?」


「仕事では」


 彼は一度言葉を切った。


「人生でも。結婚を申し込みたいのです」


 頭の中で、深緑の礼装を着たアルノー様が祭りの広場を歩き出した。子どもへ飴を配り、最後の一つを自分で食べ、私に見つかって気まずそうにする。隣には誰かいる。顔を描こうとすると、青鉛筆を持った私の指がむずむずした。


 待って。いま私、求婚されています? 削り粉まみれで? もう少しこう、月明かりとか花びらとか、衣装を妄想する暇くらい——いや、椅子を同じ高さへ運んでくる方に、花びらの手配まで求めるのは欲張りかもしれない。椅子、かなり重いし。


「お返事は、新しい仕事を終えてからでも?」


「もちろんです」


「その間に、ポケットの飴を盗み食いしたら減点します」


「厳しい図案師ですね」


 アルノー様の声に、わずかな笑いが混じった。


 私はまず注文札の図案師欄へ署名した。


 エリン・ローデル。


 一人分の名は、思っていたより長かった。横へ誰かの名を添えなくても、紙の上で堂々と場所を取る。


 鉛筆を置き、それから隣の椅子を、ほんの少しだけ自分の方へ引いた。


 一人分の署名は、こんなに場所を取るものだったらしい。胸の中でも、作業台の上でも。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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