インターホンをならす頃に
執筆開始日:2010/06/12
作品完成日:2010/06/17
我が家のインターホンが使われたことを、俺は一度も見たことがない。
俺がこの家――二階建てアパートの角部屋に引っ越してきてから一年と経っていないという期間の短さもあるのだが、それにしても来客はある。
大学の連れ共が大学の近所だからと我が物顔で我が家を占領するのもままあるし、隣人のお姉さん(推定二十台後半)とも仲が良く、よくおかずを作りすぎたと言ってはおすそ分けをしていただいたりもする。
正直隣のお姉さんは俺に気があるんじゃないかと思うが、それは置こう。
兎にも角にも、上記の来客によって我が家のインターホンが使用されることはない。
大学の糞野郎共は大げさにドアを叩いて中に入れろとせがむし、隣のお姉さんはコンコンと控えめなノックと共に俺の下の名前をお呼びになる。
やっぱり隣のお姉さんは俺を好いているに違いないだろうが、また置こう。
よって我が家のインターホンは、俺がこの家に引っ越してきてから数ヶ月間、全く使われていないのである。
しかしそれだけの理由でインターホンが使われないのはおかしいんじゃないかと思ったことがある。
我が家には宅配便も来るし、望んだわけではないが新聞の勧誘に訪問販売も来る。
だがいずれも親しくない間柄にも関わらず、やつらはインターホンを使わずにノックを使うのだ。
……なぜ?
そう思い、一度実家からの仕送りを届けてくれた宅配便のあんちゃんに聞いてみた。
その回答がこうだ。
『あ、インターホンあったんすか? いやあ気が付かなかったっすねえ』
我が部屋は角部屋であり、アパート二階廊下の最奥にある。
廊下の突き当たりには、大家のおばさんの趣味で小さな植木がいくつもあった。
その葉がインターホンの位置に被って邪魔をし、その存在が希薄になっていたらしい。
大家さん……。
そしてその話を聞いた翌日、俺は大家さんに掛け合った。
大家さんの植木のせいでうちのインターホンが隠れてしまっている。
このままではうちのインターホンが意味をなさないから、何とかしてくれ、と。
だが大家さんは冷酷非情。
こう言ったのである。
『あら、別に使わなくたっていいじゃないの。ノックがあるでしょノックが』
そう言えば大家さんも、うちに来るときはノックしていた。
とまあこんな理由で、我が家のインターホンちゃんは日の目を見ることができずに生涯を終えそうなのだ。
これはあまりに可哀想だと思う。
せっかくインターホンとして授かった命をむげにするわけにもいくまい。
何とかしてやりたい。
そう思う気持ちは人情と言うものだろう。
しかしどうすればいいか。
そう考え、俺は詰まってしまう。
まさか玄関のドアに『インターホンをお使いください』と張り紙をするわけには……。
それを貼ってやりたいくらいの気持ちは十二分にある。
だが、それではまるでインターホンに何かしらの罠を仕掛けていると言っているようなものじゃないか。
しかし、かと言って何か他に妙案があるわけでもなく……。
そう悩み始めた刹那だ。
――ぴんぽーん
インターホンの音。
ハッとして黒いブラウン管テレビを見やるも、画面は消えており、そこから音が流れていたわけではない。
と言うことは――
気が付いた次の瞬間、体中の血液が沸くような感覚と共に駆け出す。
どこに、なんて質問は野暮というものだ。
玄関のドアにたどり着く直前、足を滑らせ急ブレーキ。
止まりきらないスピードを介せず、すぐさまドアロックを解除。
後にドアノブを捻り――
「ありがとうインターホン! インターホンありがとう!!」
来訪者に向け、俺は思い切りよくハグをかました。
後悔という言葉は後に悔いると書く。
当たり前のことだ。
もし後に悔いず先に悔いることができたなら、それは物事の予知に他ならない。
そしてそれができたとすれば、悔いる必要もない。
だから、俺の今の感情は後悔だ。
俺の腕の中。
何のためらいもなしに抱きついた来訪者は、女性。
頬を僅かにひきつらせて俺の顔を見上げている。
……やっちまった。
途端、
「キャァアアア――ッ!」
堰を切らしたように耳をつんざく金切り声。
腕の中の女性が目をつむり、口を目一杯開けて。
鼓膜を激しく揺らす声は、なんだかサイレンみたいだな、なんて呑気に思った。
*
「ほんっとうにすみませんでした!」
古び茶ばんだ畳の上、これまた古くなったちゃぶ台に手をつき、これでもかと頭を下げた。
下げた先は、俺の対面に座る女性。
差し出した紫色の座布団に凛と正座し、こちらを見ている。
しかし言動は、その立派な座りずまいと反するものだ。
「い、いえあの、大丈夫です! ただちょっとビックリしちゃっただけなんで、全然、全然謝ってもらうことなんてないんですよ!」
俺が顔を上げると、これでもかとばかりに眉尻を下げ、その前で懸命に手を横に振る彼女の姿があった。
不謹慎にも、その様子を可愛いと思ってしまう。
小動物の愛らしさを象徴するような仕草に、肩口で切りそろえられたキューティクル満載の黒髪。
小柄な体型に小顔で、赤くぷっくりとした唇。
何というか、これは……。
「あ、あの……どうかしましたか?」
「いっ、いや!」
視線に気付かれてしまったことを恥じ、声を大きくしてしまったことも恥じる。
けど……俺の視線は、自然と彼女の顔に向いていた。
初めは謝るつもりだった。
ただ謝罪の思いを伝えたいあまり、無理にでも家に上がってもらったのだ。
本来なら、出会い頭いきなり抱擁かますような男の部屋に上がるなど考えられないだろう。
だが彼女は、遠慮がちながらもうちに上がることを許諾してくれた。
困ったように眉尻を下げ、でも僅かに笑みを称えながら。
そんな彼女の顔は……見ているだけでどきどきした。
会って間もない彼女にこんな感情を抱くなんて、おかしいかもしれない。
運命を感じている節があるだなんて、どうかしているのだろう。
けど、彼女は奇跡を起こした。
誰も成し遂げなかった我が家のインターホンを鳴らす偉業を、ついさっきやってのけてくれたのだ。
そしてその嬉しさあまり、俺は彼女に抱きついてしまった。
――これが始まりなんだ。
隣のお姉さん、ごめん……でも、俺……。
……そうだ、せめてお茶くらい出してやらねば。
「お茶入れますよ。何か希望はありますか? なんならコーヒーでも」
膝を立てて立ち上がり彼女に問うと、慌てたように首を横に振り出す。
「い、いいですいいです! そんなに気を遣っていただかなくて結構です!」
拒否するような言葉だが、ニュアンスはとても柔らかい。
それがより愛おしく思える。
……と、そうだ。
「そういえば、どうしてうちに?」
彼女は我が家への来訪者だ。
インターホンを使ったということはそういうこと。
だから見ず知らずの彼女は俺に用があるはずで、
「あ、はい」
彼女は花咲くように笑い――
そして、
「――あなたは、神を信じますか?」
この人はただの宗教勧誘の方でした。




