語彙の墓場
築四十二年、六畳一間のワンルーム。
畳のささくれを数えるのにも飽きた三日目の深夜、それは「現れた」。
いや、この記述はあまりに怠慢だ。
あの直木賞作家の先生を崇拝し、言葉という名の真珠を拾い集めることを生業とする者にとって、この事象を単に「現れた」という文字で片付けることは、自らの魂を切り売りするに等しい背信行為である。
部屋の隅、結露で湿った壁紙の継ぎ目から、墨汁をこぼしたような「黒」が染み出してきた。
普通のライターなら、ここで心拍数を上げ、脊髄反射で「出た!」と叫び、這う這うの体で逃げ出すのだろう。
しかし、傍らに置いた広辞苑をひっつかみ、万年筆を握りしめた。
黒い塊は、徐々に人の輪郭を形成していく。
それは首に真っ赤な索条痕を残した、女の霊だった。
重力に逆らうようにして、じわじわと床から浮上してくる。
今のは、何だ?
『立ち上がる』か?
いや、膝の伸展を伴わない動きにそれは不適当だ。
ならば『浮き上がる』か? ……いや、それだけでは彼女の纏う執念の重みが表現しきれない。
女の霊が、こちらを睨みつけながら、ゆっくりと垂直方向に高さを増していく。
歓喜に震えた。これだ!
この瞬間のために、あえてあのサイトで「心理的瑕疵」のアイコンが不気味に炎上しているこの物件を選んだのだ。
「そうだ……今の動きは『のぼる』だ。しかし、どの『のぼる』だ?」
ノートに激しくペンを走らせる。
上がる:低い所から高い所へ移る。完了した状態に重きがある。
上る:階段や坂を自力で進む。高い所を目指すプロセス。
昇る:空高く、あるいは太陽のように神々しく上昇する。
「君、ちょっとストップ! 今のは『昇る』じゃないな」
君の恨みは決して天には届かない性質のものだ。
かといって『上る』ほどの能動的な意思も見えない。
消去法でいけば『上がる』だが……それでは君のその、畳から這い出してきた時の粘り気が死んでしまう。
もっと、こう……『湧き上がる』に近いが、水気よりも死臭が強い……
女の霊は、僕の喉元まで数センチの距離に迫っていた。
青白い指先が、僕の鎖骨をかすめる。
「ああ、もどかしい! 今、物理法則を無視して僕のパーソナルスペースを侵食しているこの現象を記述するのに、最もふさわしい動詞は何だ? 」
『迫る』か? 『寄る』か? それとも『昂ぶる』のか!?
女の霊は、明らかに困惑していた。
何人もの入居者を精神疾患に追い込み、あるいは死へと誘ってきた彼女のキャリアにおいて、目の前で「適切な語彙」を求めてのた打ち回る人間は初めてだったに違いない。
幽霊は、一瞬だけ動きを止め、それから深い、深い、ため息のような音を漏らした。
「……今のは『嘆息』か? それとも単なる『漏らし』か? 頼む、もう一度やってくれ! 喉の震えを視認したいんだ!」
だが、熱い訴えも虚しく、女の霊は「しゅん」と――擬音語に頼りたくはないが、まさにそうとしか形容しようのない素早さで――霧散してしまった。
オノマトペという安易な逃げ道に、僕は今、精神の避難を許してしまった。
この「しゅん」という三文字の敗北感。
現象の速度が語彙の抵抗を上回った瞬間に、作家としての矜持は音を立てて崩れ去る。
「ああっ! 待て! 行かないでくれ! まだ『顕れる』の『顕』の字の画数も確認していないのに!!」
静まり返った六畳一間で、絶叫だけが空虚に響いた。
ノートに残ったのは、ぐちゃぐちゃに書き殴られた「上・昇・挙・揚・騰」の文字だけだった。
白紙のページが、冷ややかに僕を見返している。そこには、一文字の「幽霊」さえも存在していなかった。
一度目の敗北は、より狂気的な慎重さへと駆り立てた。
翌晩。
部屋の中央に、広辞苑、新明解、大辞林、そして類語辞典を城壁のように積み上げ、その中央に鎮座した。
もはやルポライターではない。
僕は、言葉という名の網を張る蜘蛛だった。
午前二時。
昨日と同じ壁から、彼女が「滲み」出してきた。
叫びそうになる歓喜を押し殺し、万年筆のキャップを口で抜く。
「……来た。さあ、記述の時間だ」
彼女は昨日よりも、心なしか戸惑っているように見えた。
それでも幽霊としての本分を果たすべく、じわじわと僕の城壁へ向かって接近してくる。
「ストップ! 動くな!」
辞書を叩いた。
幽霊が、物理的にあり得ない角度で首を傾げる。
「今、君が畳の上を移動しているその動作だ。一般的には『忍び寄る』と書くのだろうが、耳には足音が届いていない」
「『忍び寄る』には、隠密ながらも確かな『歩法』が必要だ。しかし君には足首から下がない。となれば……『滑る』か?」
畳に顔を近づけ、彼女の足元(だった場所)を凝視する。
「いや、違う。畳の摩擦係数を完全に無視したこの異様な滑らかさは、『滑行』……あるいは『遷移』と呼ぶべきか。君、もう一度左へ三センチ戻ってくれ。その……初速を確認したい」
女の霊は、明らかに引いていた。
恨みを晴らすべき対象が、自分を「恐怖の対象」ではなく「観察対象の動詞」としてしか見ていない。
その目には、これまで僕が語彙で解剖してきた証拠のようなものが映り込み、そして――初めて、幽霊の口から言葉が漏れた。
「……怖い」
彼女の輪郭が、困惑ゆえか、わずかに細かく震え始める。
「いいぞ! その震えだ!」
身を乗り出した。
「それは『震える』なのか? それとも『戦慄く』なのか! 恐怖や寒さで震えるなら前者だが、君のようにこの世への未練で空間そのものを歪ませているなら後者だ。判別がつかない! もっと大きく、心臓に響くように戦慄いて見せてくれ!」
類語辞典を猛然と捲り、彼女の至近距離まで詰め寄った。
「ほら、どうした! 『慄える』か? 『震える』か? それとも、ただの『共振』か!? 語彙を選ばせてくれ! 君が僕を呪い殺す前に、僕が君を正確な日本語で定義してやる!」
幽霊は、じり、と後退した。
呪う側の人間が、呪われる側の気迫に押されて物理的に距離を取る。
彼女の目には、もはや怨念ではなく、「この人、関わっちゃいけないタイプだ……」という、現代的な、極めて生々しい拒絶の色が浮かんでいた。
次の瞬間、彼女は距離を消した。
言葉の網で追い詰められ、存在を解剖され続けた果てに訪れた、躊躇の完全な不在。
彼女の青白い手が、喉元へ電光石火の速さで伸びる。
――冷たい。
だが、脳裏に浮かんだその一語を即座に叩き潰した。
「氷のよう」か?それとも「冷え切った」か?
笑わせるな!そんなものは思考停止の産物だ。
喉が、めきめきと音を立てる。
頸椎が悲鳴を上げ、視界が明滅し始める。
酸素が途絶え、意識が遠のいていく。
死の恐怖が心臓を叩いているはずなのに、脳内は「動詞」の選定作業に全リソースを割いていた。
かつて、ある天才作家が到達した境地へ、僕も――。
……待て。あの人の名前は何だったか。
あんなに心酔していたはずの、あの「先生」の名前が、霧のように溶けて思い出せない。
「この……喉が圧迫される感覚は、何だ? 『絞める』か?」
「いや、それは道具を用いた他動詞だ。ならば『締める』か? それも違う。今のこれは、より直接的に、生命の紐を解くような……そうだ、『縊る』か!」
しかし、その語に手を伸ばした瞬間、意味のゲシュタルトが崩壊する。
「縊る」という文字が、ただの歪な図形に成り下がる。
違う。これではない。
本物を知りたい。
インクと紙の上でこねくり回した「死」ではなく、いま気管を押し潰しているこの指先が提供する、生身の、剥き出しの――。
逃げなかった。
むしろ、自ら彼女の冷たい指に、喉を差し出した。
これだ。
この圧迫、この窒息、この絶望。いま、全細胞が、かつてない解像度で「死」を記述しようとしている。
究極の、至高の動詞が、いま喉の奥からせり上がって――。
……ああ。見つけた。言葉の形をしていたが、意味を持たなかった。
万年筆が手から滑り落ち、畳に黒いシミを作る。
意識は、真っ白なページの海へと没した。
――冷たい。
意識の底から浮上したとき、僕は自分の死を、客観的な事実として受理した。
それはもはや温度ですらなかった。
意味という輪郭を失った「無」の感触だった。
僕は霊体となり、自分の死体の傍らに立っていた。
畳に倒れ伏した「僕」は、喉にどす黒い指の跡を刻み、目は異様な恍惚に見開かれている。
その手元には、命と引き換えに記述しようとしたノートが、無惨に開かれていた。
「これでいい」
自分に言い聞かせた。
肉体は滅んだが、あの「一語」は僕の中に刻まれている。
意味を失ったはずの、あの究極の動詞を今なら記述できる。
霊体となった僕には、もはや語彙の限界などない。
そのとき、部屋のドアが乱暴に開いた。
入ってきたのは、担当編集者の村田だ。
彼は僕の死体を見るなり、「うわっ」と声を上げ、鼻をつまんだ。
「マジかよ佐藤さん……死んでんじゃん。最悪。これ、企画ボツだわ。原稿料どう処理すりゃいいんだよ」
村田は、僕の死そのものよりも、発生した事務手続きの煩雑さに顔を歪めている。
彼は死体を避けるようにして、床に落ちたノートを拾い上げた。
期待に胸を膨らませる。
見ろ、村田。そこには君のような凡庸な人間に一生かかっても辿り着けない、言葉の真理が書かれている。
村田は、命を削って書き殴ったページを、パラパラと無造作に捲った。
「なんだよこれ……『のぼる』か『あがる』か、漢字の書き分けに三ページ? ……うわ、後半は何これ、文字じゃないだろ。ミミズが這ったような図形ばっかり。一文字も読めねえ」
「もっと平易に書いてくれません?読者、こんな難しい言葉読まないんで……使えねえなあ、マジで。文章力がない奴に限って、こういう不毛な言葉遊びにこだわるんだよな」
村田はノートをゴミ箱に投げ捨てた。
そして、おもむろにスマホを取り出すと、死体の写真を一枚撮り、SNSを開いた。
『【悲報】担当ライターが事故物件でビビりすぎてショック死w 現場ヤバすぎ。幽霊マジで出るわここ。マジウケるんだけどw #事故物件 #心霊 #リアルガチ』
その投稿は、瞬く間に拡散されていく。
「ヤバい」「ウケる」「草」
そして、僕の意識を最後に引き裂いたのは、見知らぬ誰かのたった一言のコメントだった。
『てか、このライターの名前、なんて読むの? 有名人?』
「……あ、あ……」
叫ぼうとした。
だが、僕の口から漏れたのは、言葉ではなかった。
意味を失い、誰にも届かない、ただの「音」だった。
ゴミ箱の中で、白紙のページが風に揺れている。
そこには、もう主語すら存在しなかった。




