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うみのくるしみ【毎日19:10更新】  作者: 咲翔


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9/10

9.『海の苦み』

 その日の夕飯を食べ終わった後、私は澄谷の本を読み始めることにした。

 早紀には帰り道で、読み終わったら貸すよう頼まれている。クラスメイトの書いた小説を読むなんて、もちろん山内を始めとした文芸部の面々の作品は読んだことあるけれど――不思議な気分だった。


「新人賞、直木賞を立て続けに受賞! ……か」


 その青い単行本にかかっている帯の文言を読み上げる。黒い背景に金文字で書かれているそれは、こちらを圧倒してくるかのような存在感を放っていた。


「……読みますか」


 ベッドにゴロンと横になり、私はその表紙を開いた。なんとなく一ページが重い。

 

 ぺらり。めくるとそこからもう、澄谷の物語は始まっていた。


 ***


『――母の毒は僕にとって少し強かったみたいだ。

 蜂蜜は十分成長した子どもにとっては甘い蜜だが、乳幼児にとっては死に至る毒薬となる。僕の母の場合は蜂蜜とは逆だった。小さい頃は母は少々甘すぎるほどの優しい親だった。しかし僕が年を重ねるにつれてだんだんとその甘さは無くなり、高校生になったころ彼女はもう母親の顔をしていなかった。

 そして僕が十八歳になったその日、ある出来事が起こって、彼女は本当に母ではなくなったのだ。』


 蜂蜜の例えから始まるその物語は、主人公の青年「僕」と母親との関係を主に描いた、ヒューマンサスペンスというジャンルに分類されるものだった。

 物語に出てくる母親は、若い頃は舞台俳優志望。器量よしで、スポットライトを浴びるのが大好きだった。しかし街の劇団の主役どまりで彼女の夢は途絶え、彼女にとっては地味だと感じる事務仕事につくことになり、両親が用意した見合いの場で結婚する。

 

 目立つのが好きで、自分の容姿が優れていることも自覚している彼女は伴侶に求めたのは見た目と財産であった。二件目の見合いで、彼女は自分の理想にピッタリな男性を見つけ結婚。それが「僕」の父親であり、「僕」たちは三人家族として暮らしていた。

 「僕」の母親は最初にも書いてある通り、主人公の小さい頃はきちんと優しい母親であった。しかしそれは彼女得意の演技であったのだ。もともと目立つのが好きな彼女は、他の人が自分より目立つのが面白くない。だから最初は、自慢できる旦那とその間に生まれた整った顔を持つ男の子を見せびらかすように、自分の武器の一つとして振りかざすように、優しい家族の母親のポジションを守り、そう振舞っていた。


 しかし、息子である「僕」が成長するにつれ、周りの反応は「素敵なご家族ね、素敵なお母さまね」よりも「かわいい息子さんね」というような息子にフォーカスした見方が増えてくる。彼女はそれを嫌った。息子といえども、自分より目立つことは、自分よりちやほやされることは許しがたかった。


 だんだんと絆が薄れていく家族。歪んだ考えを持ち、時折ヒステリックにもなる母親に、「僕」も父親も辟易しており、しかし父親は仕事が忙しいというのもあり彼女を止める術を知らない。「僕」は孤独感から絵を描くようになる。

 しかし絵筆やらキャンバスやらという道具は揃えてもらえないので、本格的な絵を究めることは諦め、安いスケッチブックとシャーペンで漫画を描くことに没頭していく。


 目立ちたがりな美しく歪んだ母親の言葉の暴力に苛まれながらも、絵を描くことに救われていく日々。しかし「僕」の中にはまだ母親を許す心、彼女を母親だと思いたいという希望が残っていた。

 漫画を描けば辛く愛情を注がれない毎日からは、救われる、しかし自分の世界に入り込むことによって彼女とまた良い関係になるという機会が奪われていく。


 そんな葛藤の中でも漫画を描き続けていたある日、それが大手出版社の目に留まり、瞬く間にデビューが決まり、新鋭の若手学生漫画家として注目されるようになった。「僕」は喜んだ。好きなことで認められたからだ。


 しかし――それを知った母親は狂った。

 手の付けられようがないくらいに怒り、悲しみ、狂った。


 自分よりも幼少のころから可愛がられ褒められた息子が、今度は近所の人たちや親戚からではなく、日本全国の人々に知られるようになった。若手、天才、神童だといわれ、彼の書いた漫画は飛ぶように売れた。


 それが母親は許せなかった。「僕」に対して手をあげ、抵抗しなかった「僕」は全治三週間の怪我を負った。そして両親は離婚し、父親の計らいで母親とは別居することになる。

 「僕」はもうどうすればいいか分からなかった。母親と仲良く暮らすという夢を見ながら、辛い日々から逃げ出して描いていた漫画が、本当にその夢を絶ってしまったのだ。

 悩みに悩んだ「僕」は失意のうちに海へと歩く。辿り着いたのはさびれた海水浴場。

 母親との問題はもちろん、若手の天才漫画家として世に出たことで、色々な場所で批判にもさらされており彼の心は荒んでいた。

 「僕」は最後に海水を掬って飲む。


『それは想像していたしょっぱさというよりも、より苦く感じられた。喉が焼けるような感覚に襲われる。しかし僕はもうそれに対して心地いいという感想しか抱けなかった。


 苦い海を僕はまた喉に流し込む。』


 海水は脱水症状やその他健康被害に遭う可能性があるため、普通は飲んではいけないものだ。しかしこの物語は、そのシーンで終わっていた。だから失意のうちある「僕」がこの後どうなったのかすら書かれていない。


 『海の苦み』――このタイトルは、主人公が感じた終末というものの味だったのかもしれない。


 ***


 ぱたり。


 私は最後の一ページを読み終え、本を閉じた。


「何これ……」


 本を持つ手が震えていた。結末としてはハッピーエンドではなく、母親の狂った描写や、主人公がいわゆる「闇堕ち」していってしまうところは読んでいて苦しかった。それを読者まで伝わらせる表現力、描写力、語彙力。

 それらを駆使し、学生とは思えない筆致で書かれていた。


「二作目でこれ? 澄谷がこれを書いたっていうの……?」


 一人しかいない部屋に、私の呟きが響いては消えていく。

 直木賞受賞は、頷けた。これは凄い作品だ。今までのルールを破ってまで、賞をあげたくなる。


 しかし私の疑問は別のところにあった。脳裏に浮かぶのは、彼の転校してきてからの様子――友人たちと馬鹿笑いしている澄谷。山内と楽しそうに二人でいる澄谷。授業中、指名されたときに寝ていることがバレた澄谷。


 彼はまるで、普通の高校生だった。こんな作品を書いたとは考えられないほど、普通の高校生だった。


 ――いや、でも。今世の中に出ているディストピアものの作家さんたちだって、別に普通に暮らしている。作品と作者は別物。ミステリ作家が物語の中で人を何人も殺しているが、実際に殺した者はいない。それと同じ話である。


「はぁ……やっぱ澄谷って、す」


 すごいんだなぁ。

 そう、感嘆の声を上げかけたそのとき。

 あの日の彼との会話がフラッシュバックしてきた。


 ――「澄谷はさ、書くこと、好き?」

 ――「嫌いだよ」


 あの時の、無表情でいて、どこか苦しそうな横顔。

 そこまで思い出したところで、私は思わず手元の青い本を見た。


 彼の横顔が、私の想像の中の、主人公「僕」と重なる。

 終始一人称で語られていることもあり、最後まで主人公の名前が出てくることは無い。


 だけど。


 ――私は気づいてしまった。


 好きなことで家族に対するわずかな希望を砕き、失意に陥った「僕」。

 その物語の真の語り手は、書き手である澄谷だ。

 二人の共通点は、若くして才能を発掘されデビューし「天才」と称されたこと。


 あれは、あの物語は。


「澄谷の物語なの……?」


 『海の苦み』は澄谷海斗の苦しみを描いたものなのかもしれない。

 そう思うと居ても立ってもいられなかった。


 明日、絶対に澄谷に謝ろう。そして彼の話を聞こう。聞いてもらえるか分からないけれど私のことも聞いてもらおう。

 彼と話すこと、それが早紀に言われた「自分自身の心との仲直り」にもつながるような気がした。


 私は本とともに、布団を頭まで被る。そうしていないと、なんだか泣いてしまいそうな気がしたから。



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