8.早紀の声
「え?」
早紀は、今何と言った? ――嘘つき?
何それ、なんで。
私がフリーズしていると、早紀が黙って私の手を引いて速足で歩き始めた。
「ちょっ、早紀、待っ」
「いいから」
短くそれだけ言って、早紀はさらに足を速める。私は引きずられるように早紀の後ろで走る。
彼女が向かったのは、私たちの行き先である本屋だった。
そのままズンズンと早紀は進み、自動ドアにもぶつかりそうな勢いで店の中へ入っていく。
「いらっしゃいませー」
来客に気が付いた店員さんが明るく声を掛けてくれるが、早紀は見向きもしない。
突然、早紀が足を止めた。私は息を整えながら、早紀の方をうかがう。
「詩織」
すると早紀は私の目の前で一冊の本を手に取った。それは、店頭にたくさん積んであった特集コーナーの本。
「あんたが買おうとしていた本、これでしょ」
目の前に差し出される、青を基調とした表紙。
そこに印刷されている文字を見て、私は目を見開いた。
『海の苦み』
『澄也海人:著』
「うみの、にがみ……」
脳裏に澄谷の顔が浮かぶ。
あいつ、そんなタイトルの本を書いていたんだ。どんな意味なのか、分からないけれど。
「早紀、なんで……それ」
「それ、澄谷くんなんでしょ。漢字違うけど、転校してきた彼でしょ」
早紀は淡々と続ける。
「詩織、澄谷くんが転校してきたあの日から、ずっと変だった。変に澄谷くんのことを意識していないようにしているような、でも意識しているような。それに、わたしが詩織と別々にお昼を食べることになったあのお昼休みさ……詩織、澄谷に何か言われた? それとも、何かされた? 屋上から二人が同じタイミングで帰ってきたの、友達が見たって言ってて」
早紀は青い装丁のその本を、ぎゅっと握りしめた。
「詩織はさ、小説書くのずっと好きだったじゃん。小学生の頃から作文も上手かったし、中学でも高校でも文芸部入ってさ。わたしは好みがころころ変わるような軽い女だからさ、一つのことにずっと一生懸命になれる詩織のことかっこいいって思ってたよ」
「早紀……」
「最近の変だった詩織さ、もしかしたら書くのやめたんじゃないかって直感で思ったんだよ。なんでか分からないけど、やっぱり長い付き合いだからかな。それでさ、訊いたの」
早紀はその名を口にする。
「山内に」
眼鏡の奥から覗く彼の瞳を思い出す。私は黙って早紀の言葉を待った。
「そしたら案の定、部活でも筆が進んでない様子だって。山内はそれ以上教えてくれなかったけど、わたし、調べたよ、全部。澄谷くんが直木賞……だっけ? 凄い賞もらってて、今をときめく高校生作家なのにこんなド田舎に引っ越してきて。それをさ、詩織は知っていたんでしょ?
だから書くのやめたんじゃないの?」
「私は……」
何か言おうとしても、そう言いかけただけで続かなかった。そのとおり、早紀の言う通りだ。私は澄谷の才能の輝きにあてられて、書くのをやめた。夢を捨てた。
「早紀の言う通りだよ」
私はようやく小さな声でそう言った。
「全部あってる。作家になりたくてずっと書いてて、でも最近スランプで、そんな中澄谷のことを知ったの。それで、なんかもういいやって思っちゃって」
ノートパソコンをバタンと閉じたあの日。書きかけの原稿を投げ出したあの日。
そう、私が夢を捨てたのはただの嫉妬からきた諦めが理由だった。
そのうえその諦めのきっかけが実際に目の前に現れたのだから、それで大きなダメージを食らったのだ。ずっと分かっていたはずなのに、今早紀の前で言葉にしたら、ようやく改めてストンと腑に落ちたような気がする。
「早紀は全部お見通しなんだね。私が買おうとしてたのは、その澄谷の本だよ。ほんとは一週間前くらいに澄谷とは喧嘩別れして、距離を取ってるからさ……。今なら読める気がして」
ぽつ、ぽつと言葉を紡ぐ。私の本音を、早紀は黙って聞いてくれていた。
「本当にさ、なんか情けないよね、私。ずっと何やってるんだろう。書くこと好きだったはずなのに、私にはそれに代わる好きなものも夢もないのに」
「詩織……」
「早紀、ごめん。心配してくれてたのに、私は……何も話さなくて」
話さなかった理由――話せなかったわけ。
もしかしたら早紀くらいの親友なら、今みたいな相談をもっと早くからできたはずだ。
でも私がそうしなかったのはきっと――。
「無意識に意地張ってた、悩んでること、嫉妬と諦めを覚えたこと、こんな自分を見せたくなかったのかもしれない。本当にごめん、早紀。澄谷にも、山内にも迷惑かけて……私、どうすればいいんだろう」
私がそう言い終えると、早紀はしばらく私の顔をじっと見つめていた。やがて、口を開く。
「さすが物書きだね、詩織は」
「……え?」
思いがけない言葉に目をぱちくりさせる。すると早紀はニッと笑って言った。
「自分の心、よくわかってるじゃん。心情描写、ちゃんとできてたよ」
「心情描写……」
「そんなに自分のこと分かってたら、もうやるべきことは分かってるんじゃない? わたしは文章書かないし、ボキャブラリーもないからうまいこと言えないけどさ……詩織、仲直りしたいんじゃないの?」
私の脳裏に、澄谷の顔が浮かぶ。
「澄谷と……ってこと?」
すると早紀は、それもそうだけど、と頷いた。
「わたしは詩織と澄谷がどんな喧嘩したのかは知らない。だから澄谷と話したければ話せばいいと思うよ。わたしが言ってるのは、詩織、あんたの心との仲直りだよ」
「心と仲直り」
思わず復唱してしまう。
「そう。詩織、確かにスランプだったのかもしれないけれど、本当はまだ心の奥底では『書きたい』って思ってるんじゃないの? 書くことに関してはど素人だけど、篠川早紀は水上詩織の友人としてはテレビで特集されてもいいくらいプロフェッショナルなんだからね! それくらい顔見ればわかるもん」
早紀は私にその青い表紙の単行本を渡しながら言った。
「その本当の気持ちに、勝手に押し込めて、夢を捨ててごめんなさいって謝りなよ。それでまた書けばいいじゃん。ね?」
「う、うん」
本当はそんな簡単にいくものかとどこかで考えている自分がいた。
早紀の言う通り、心の奥底の私は本当は書きたいと思っているのだろうか。
わからない――だけど。
「早紀、ありがとう」
彼女の言葉でいくらか救われたことは確かだった。
「じゃあ、わたしは雑誌コーナー見てくるから! 今思い出したけど、たけみっちーが表紙のやつ今週発売なんだー! 詩織はそれ買ったら先帰っていいからねー」
「ううん、待ってるよ」
「あ、ほんと!? じゃあお言葉に甘えて。じゃあまたあとでー」
早紀は手を振り、スキップしそうな勢いで雑誌新刊売り場にすっ飛んでいった。いつもと変わらぬ友人の姿にほっとしながら、私はその『海の苦み』と書かれた一冊の本をレジまで持っていったのであった。




