4.教室の憂鬱
「詩織、ちょっと」
次の日の朝、教室の机で私がぼんやりとしていると、早紀が顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 元気ないじゃん」
「ううん、平気。ちょっと考え事していただけ」
私は笑顔になって早紀にそう答える。いつもなら彼女は「そう……ならいいけど」と引き下がるのだが、今日は違った。
「なんか変だよ。詩織、昨日の午後もこんな顔してた」
早紀の手が私の肩に乗せられる。
「相談、乗るよ? ほんとにどしたん」
きゅっと眉を寄せて、早紀が言う。その表情は私のことを本当に心配してくれていて、私はすべてを話してしまおうかという気持ちになる。
だけど、と開きかけた口を閉じる。
「話す」と言ったって、何を話すのだ。あの夜夢をあきらめたこと、澄谷が転校してきたこと、どの出来事が私をこんなにさせているのか――自分でもよくわかっていないくせに。
「ほんとに大丈夫だよ」
私はやんわりと早紀の手を肩から外した。
「自分でもよくわかってないんだ。疲れちゃってるのかもね、だから元気なさげに見えるんだと思う」
「……そう、なら今日は帰ったらすぐ寝なよ。疲労回復には睡眠が一番っていうし」
「うん、ありがとう」
早紀は自分の席へ帰っていった。その時の彼女の横顔を見ながら、やっちまったと思う。
――早紀、少し傷ついたような顔をしていた。
あーあ、私何やってんだろ。せっかく相談に乗ろうかとまで言ってくれた友人を嘘の笑顔で押し返して。
きっと早紀は優しいから、傷ついた振りなんて全く見せないで今日の放課後も「一緒に帰ろう」と誘ってくれるだろう。帰路でも、たけみっちーの話や最近見つけたイケメンの話など、日常話を何事もなかったかのように話してくれるのだろう。
――友達に気を使わせてまで、私、何に悩んでるんだろう。
ずっと考えていても、わからなかった。早紀の言う通り疲れているのかもしれない。予想外の出来事が立て続けに起きて、自分がどうすればいいのか、気持ちが追い付いていないんだと思う。
はぁ、とため息をついたその時だった。
「お、澄谷ー! おはよー!」
クラスの男子の誰かが、そう言ったのが聞こえた。
「おう、おはよう」
澄谷海斗が来た。昨日の昼休み以降、特に接触はしていない。だけれど何だか心臓がキュッとなる。
これと同じ感覚を、前に感じたことがある。……確かそれは遊園地で、怖いと噂のジェットコースターに並んでいる時だったはず。
そうだ、これは恐怖だ。
私は澄谷を恐れている。
……いや、彼自身を恐れているのではないのかもしれない。
私が恐れているのは――。
そんなことを考えていた、その時だった。
「あ、あの、誰か。人を呼んでほしいんですけど」
かすかに教室の後方ドアの付近から声が聞こえた。細い、女子の声だ。聞いたことのあるような気もするが、周りが騒がしいから聞き取るのが精いっぱいだ。きっと他学年の誰かが、うちのクラスの人を呼びに来たに違いない。
「はい、誰呼びますか」
ドア付近に居た澄谷が答える。
「あの」
その女子の声が、小さく聞こえた。
「文芸部の、詩織先輩です。今いらっしゃいますか?」
ガタンっ! 私は席から立ち上がった。
私だった。どこかで聞いたことのある声だと思ったら、部活の後輩だったようだ。おそらく一年の坂口あかりちゃんだろう。
あかりちゃん、よりにもよって――なんであいつがいるところで声をかけたの。
「詩織……って」
澄谷の言葉に、あかりちゃんが焦ったように付け足す。
「あ、すみません。苗字は水上さんです。水上詩織先輩」
「ああ」
澄谷が頷いたのが分かった。私は立ち上がったのはいいものの、そのまま席から動けなかった。
聞かれた、知られてしまった。
私が文芸部だってこと、つまり小説を書いていることが、澄谷にばれてしまった。
――動け、動け、足。澄谷に今会いたくはない。先に前のドアから出て、あかりちゃんに会ってしまえば、澄谷に声をかけられなくて済むのに。
そう思考は回るのに、私の体は動かなかった。
「水上さん」
背後から声をかけられる。
「なんか後輩が来てるけど」
「……うん、あり、がとう」
それだけ言って、俯いたままその場を離れようとする。澄谷の顔は見ずに、一歩踏み出す。
すれ違いざま――澄谷海斗が、ただ一言つぶやいた。
「水上さんも『書く人』なんだ」
「……」
私は聞こえていないふりをして、足早に通り過ぎる。
――聞かれた、知られた、ばれた。
私が昨日、澄谷に関するニュースを見たきっかけをぼかして言って、さりげなく「書くこと好き?」と聞いた努力。すべて無駄になった。
知られたくなかったのに。
私が物を書くのが好きだったこと、澄谷だけには……天才高校生作家には、気づかれたくなかったのに。
あかりちゃんに会う前に、せめてもの笑顔を作る。いつもどおりの私を思い出す。口角をあげる。
廊下に出る。目の前には、おさげ髪がかわいらしい後輩の姿。
「あかりちゃん、どうしたのー?」
「あ、先輩! あの、部活の活動日の話なんですけど……」
あかりちゃんの話を聞きながら、私は不安な気持ちになる。
澄谷海斗が来てからというもの、調子が変にくるっていた。
私は――後輩の前で、ちゃんと「詩織先輩」をできていただろうか。
「ね、ねぇ、あかりちゃん」
あかりちゃんからの話が一段落したところで、私は無意識に尋ねていた。
「私、何も変じゃないよね?」
コテン、と首をかしげる後輩。
「詩織先輩が『変』かどうか、ですか? 全然そんな感じしませんけど……」
「そ、そうだよね。ごめん、おかしなこと聞いて」
あかりちゃんと小さく手振り合ってから、踵を返して教室の中へ戻る。
馬鹿だ、私。後輩に何を聞いているんだろう。
うつろな気持ちで教室を見渡す。澄谷はもう自席に戻って、その周りの子たちと話している。早紀はというと、彼女もまた私のほうを気にしてはいなかった。
――大丈夫。今の私は、誰にも見られていない。
今なら泣けそうな気がした。大切な友人に心配をかけて、後輩に変なことを聞いて困らせて、そして何も悪くない澄谷海斗に対してどうしようもない嫌悪感と恐れを抱いてしまっている――そんな情けない私自身を嘆く涙。
不安定な心も、その心のどこかでまだ未練がましく思っている自分の夢も、ぜんぶ、ぜんぶ。
涙にして流してしまえば、楽になるような気がした。
――でも。
ここは教室だ、泣けるわけなんてない。
私は俯いたまま自分の席へ戻る。




