2.屋上の人影
「ねー、詩織」
その日の帰り道、早紀が私の目を覗き込んで言った。
「澄谷くん、ちょっとかっこよくない?」
「そうかしら」
早紀がメンクイなのは、いつものことだ。私は軽く受け流す。
「でもアイドル顔って感じじゃないでしょ? あんたが好きな……なんだっけ、武満くん? とは似ても似つかない」
「それはそれ! たけみっちーは推しなのよ、推し! 推しの顔面を現実の三次元に求めることが間違ってるのよ」
武満くん、通称「たけみっちー」は今売り出し中のアイドルグループの一員。早紀は彼を推していて、幾度となくその魅力を私に語ってくれている。武満くんが存在するのも三次元だぞ、というツッコミを心の中でしながら、私は澄谷海斗の顔を思い浮かべる。清楚系、少しはかなげで、繊細な顔立ち。
「なるほど、……頑張ればイケメンの部類に入る顔ね」
私がそう言うと、早紀はかわいらしく頬を膨らませて言った。
「なによ、頑張ればって! あれは普通にイケメンでしょうがぁぁ!」
「はいはい」
澄谷海斗、ねぇ。心の中でため息をつく。少し特殊なフィルター越しに彼を見ているため、なかなか普通の男子として「かっこいいかどうか」を判断できないでいた。まあ、そんなことどうでもいいけど。「澄也海人」の顔面なんて、私は気にしない。
そのあとも他愛のない話をしながら歩いていると、すぐに私と早紀が別れる十字路へたどり着いた。早紀が私に手を振る。
「じゃあ、またね詩織」
「うん、また明日」
いつも通り手を振り返して、家の方へ歩き出す。盆地であるこの町を囲む山々の向こうから差してくる橙色の光。それが私の背中を照らして、アスファルトに長い影を映す。
「あ」
思わず小さく呟いた。私の姿を映し出しているだけのはずの影法師が、不自然に動いたような気がしたのだ。そんなはず、ないのだけれど。そのとき、私の頭の中に、ふとアイデアが浮かんだ。――帰り道、とぼとぼと歩いている少女。道路には長い影法師。その影が突然少女に語り掛けてくるのだ。「あなた、泣いてるの?」と――。
(いいじゃん、面白そう)
無意識に微笑みが漏れる。いつもなら、ここで「つづき」を考え始めるのだけれど、今日は違った。ハッ、と足を止める。
「……何が面白そう、よ」
いいじゃん、なんて思って笑って。なによ、違うでしょ。私は書くのをやめたんだから。夢を見るのをやめた水上詩織なんだから。それに影が自分から分離して話しかけてくるなんて、よくありそうな展開。それを思いついただけで、なに嬉しくなっちゃってんのよ。
馬鹿みたい。
私は再度歩き出した。今度は影になんて目を向けないで、ただひたすらに歩く。脳裏に蘇るのは、今日来た転入生の顔。
澄谷海斗の微笑みと、画面で見た澄也海人の笑顔が交互に浮かんでくる。
――ほんとに、馬鹿みたい。
なんだか今は、何も考えたくなかった。もう何も、受け入れたくはなかった。
***
「詩織ー、起きているの? 今日も学校でしょー、早くご飯食べちゃいなさーい」
遠くから聞こえる母の声で目を覚ます。いつの間にか朝が来ていた。窓から差し込む白い陽光が眩しい。きちんとパジャマを着ているところを見ると、昨日の夜はお風呂も入って、ご飯も食べて寝たのだろう。ベッドから跳ね起きて通学かばんを確認したところ、きちんと今日の時間割の教材が入っていた。昨夜はいつも通り、きちんと支度をして眠りについたのだ――私の記憶がないだけで。
「はーい、今行くー」
大声で階下の母に言い、私は部屋から飛び出した。
「詩織、あんた大丈夫なの?」
朝の食卓。私が味噌汁の豆腐を口に放り込んだ時、母が尋ねてきた。
「ん?」
「昨日の夜よ。帰ってきたときからすごく疲れたみたいな顔していて……晩ご飯のときも、心ここにあらずって感じで。体調とか、悪くない?」
「あー」
私は豆腐を呑み込んで答える。
「そうだった? 別に頭痛も、発熱も……ないっぽいけど?」
「そう、ならいいんだけど」
母はそれっきり何も聞いてこなかった。私は味噌汁を最後まで飲み干し、「ごちそうさま」と席を立つ。背中越しに聞こえる母の一言。
「お弁当、忘れないでよ」
「あ、うん。ありがと」
――調子が悪いわけではないのに、学校へ行きたくなかった。だけれど母にはもうすでに心配をかけてしまっている。
(……欠席するわけにもいかないか)
私はいつも通り制服に身を包んで、朝の空気の中、学校へ向かった。
教室にたどり着くと、これまたいつも通り、早紀が声をかけてくる。
「おっはよ、詩織」
「ああ、おはよう、早紀」
それで終わるかと思いきや、早紀はニマニマしながら更に言った。
「ねえ、今日のお昼さ、一緒に食堂で食べない?」
食堂? いいけど。そう言いかけたところで、弁当の存在を思い出す。
「あ、ごめん。私お弁当持ってきちゃった」
すると早紀は残念そうな顔をした。
「そっか、じゃ、また今度ね」
「うん」
……となると、今日のお昼休みは一人になりそうだ。ちょうどよかった。なるべく今日は一人でいたかったのだ。私は早紀に小さく手を振って、自分の席に着く。
あっという間に昼休みは来た。私は早紀がほかの友達と教室を出ていくのを見届けてから、弁当と水筒を持って席を立つ。向かうは屋上。暑いけれど、一人になるには最適な場所だ。
――そう、思っていたのに。
「……え」
屋上へ続く扉を開けた私を出迎えたのは、生温かい夏の風と、もうひとつ。……いや、もう一人。
「あ、やっぱり来ると思ってたんだよね」
そう声をかけてくる、人影。なんでこいつが、ここにいるの。――それは私がついこの間、夢を諦めた原因であり、昨日から教室を少しざわめかせている清楚系男子。
その名は、澄谷海斗。
彼のはかなげな瞳が、私をまっすぐに見ていた。
「……すみや、かいと」
「そうだよ」
驚きのあまり固まっている私に。彼は頷いて尋ねる。小さな微笑みの奥に、射貫くような視線を隠しながら。
「ねぇ、今のは、どっちの名前で呼んだの? 水上詩織さん」




